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【793】無為は魂の敵(だが……)

修道制度の創設者とされるベネディクトゥスの戒律はもちろん修道士個々人の心構えを説くものでありつつ、具体的な物理的生活と人間関係を伴う修道院の、つまり或る種の組織の運営に関する手引きでもあります。そういう意味でビジネスマン必読だと思われます(大嘘)。

大嘘はともかく、何にせよ「ビジネス」っぽいものしか読まない(読めない)ビジネスマンに先はありません(し、あってはならないでしょう)。それは映画しか見ない映画批評家がダメだというのと同じですし、あるいは哲学テクストしか読めない哲学研究者がどうしようもないのと同じです。無論関心がまるで及ばない範囲のものを読んでもキツいだけなので、ちょっとは関連しそうなものを、と思って読むのであれば、『ベネディクトゥスの戒律』は実に推奨しやすいものです。なにせ古典テクストとしては極めて読みやすい部類に入ります(し、ラテン語入門としても、最適とは言わぬまでも、適切です)。


修道生活の細かい規則はともかく、最も目を引くのは恐らく48章です。冒頭は次の通り。

「無為は魂の敵である。それゆえ兄弟たち(=修道士)はあるときには手仕事に、また別のときには聖書を読むことに専心しなければならない」(第48章冒頭)。

otiositasを『中世思想原典集成』第5冊の翻訳は「怠慢」と訳していますが(p.300)、寧ろ「無為」「何もしないこと」のほうが正確でしょう。場面によっては「閑暇」とも訳しうる語です。

「怠慢」は義務などがあってそれを履行しないことですが、これは寧ろ(同章にある)acediaに対応するはずです。ここで言われるのは、何もせずにいること・何もすべきことがない状態はよろしくない、ということで、だからこそこの章では1年のうちのある時期にはどのように1日の時間を配分するか、ということが扱われるわけですね。

もちろん「魂の敵」というのはなかなか厄介な言い方ですが、アイディアはそこまで困難ではんありません。放っておかれれば人間は怠けるのですし、あれやれこれやよからぬことを考えます(こうしたざわめく心の動きは、cogitatioという表現で幾度も表れます)。よからぬことを考えるということは、修道生活で言えば神から心が離れるということですし、よからぬ輩が一人いれば周りも影響されてしまうので、それはよくないということです。

読書や瞑想に集中できない人間には手仕事を与えて無為に過ごさせないようにせよ、とか、他の修道士の読書を邪魔するやつがいないように年長者は見回りをせよ、とか、無為は良くないから手仕事は課さねばならないにしても、体の弱い者に与える仕事は加減して、労働に押しつぶされたり逃亡したりしないように配慮しなさいとか、色々書かれていて面白いわけで、皆様々に面白いところを抜き出してくることのできるテクストですが、

とまれ中核的なアイディアとして重要なのは、既に見ている、「無為は魂の敵である」という発想です。

神や救済ということが現代日本人の多くにとって問題にならないとしても、これは皆さんにも心当たりがあるのではないでしょうか。

「ダラダラ・ゴロゴロしたい」と口では言ってみても、実際に丸一日休みが取れたときにそうしてみると、後悔が募る。いや、すぐに後悔しなくても、なんだか気持ち悪くなってくる。それは真面目だから、将来に対して危機感があるからかもしれませんが、そうでなくても、無為はロクなことにならないのです。人間は無為に向いていないということでもあります。

無為を癒やす典型的な営みは広義の薬物であり——ゲームでも、酒タバコでも、YouTube無限再生でもよいのですが——、精神を鈍麻させるものですが、それは鋭敏な精神が無為の生々しさに耐えられないということでもあります。

もちろん「そうなっているから、そうする」という判断はあまりにも安直な本質主義ですし、或る種の無為こそが義務のように採用される瞬間もないわけではありませんが——メルヴィルの『バートルビー』——、とまれ「無為は魂の敵」という観点は持ってみてもよいのですし、ここから導かれるのは、無為にならないように予定を入れましょうね、やることのリストを持っておきましょうね、ということでしょう。


……まあ、以上は半分ウソです。

皆さんがニコニコしながら(?)やっている仕事というものも、いくらご立派なガワがあろうとも、いずれ我々は必ず死ぬということ、根本的に我々の活動の全てが無意味であるという現実を糊塗するためのあまりにもチンケな気晴らしに過ぎないのであって、神や或る種の宗教を受け入れないのであればなおさらこの点は真剣に引き受けるべきでしょう。

ベネディクトゥスは(というよりキリスト教は)意味を神との結び付きに帰着させるので、そこでは無為を無意味として断罪することに成功しているわけですが、翻って「仕事」は超越ではないので、意味など与えられず、無為をたかだか隠ぺいするにとどまります。

せいぜい、当座の気晴らしとしてお仕事をなさってください。そのために無為を抹殺なさってください。超越なき皆様、神を殺してしまった皆様、ごきげんよう。