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【332】ポジティヴの彼岸
まずは以下のURLの文章をお読みいただけるとよいかと思います。精神科医である林氏が精神に関わる質問に答えているものです。診療ではなく、単に事実を提示するものと銘打たれていることから、かえって突き放したような信頼を持ちうるものでしょう。
http://kokoro.squares.net/?p=7763
この問題、つまり物理的な状態をいじることによって自らの感情や心を変化せしめることに対して違和感を覚えるということは、極めて重要な哲学的問題への扉であるように思われます。
変奏するのであれば、「笑うから楽しいのであって、泣くから悲しいのだ」というような文言を真正面から信じて、笑顔を作ったり特定の良い身振りをしたりすることによってある感情を惹起せしめようとする態度に対する、理由のない反感を別の確度から指弾するものであるとも言えます。
あるいは、災害で親族を亡くして、あるいは親族がひどい目に遭っていて、自分の精神もやられているのに、自分だけが重荷を下ろすわけにはいかない、楽になるわけにはいかないと言って精神診療や投薬を拒否する者の、根本的な叫びとも通じる面があります。
実にこの問題は、多くの場合問題にならないのかもしれませんが、私が常日頃問題として感じているものです。
ひょっとすると世間の極めて多くの皆さんが、ポジティヴなものを目指そうとする・ポジティブに生きようとする・ポジティブな感情を手にして「幸せ」を手にしようとすることに対して、おおいに違和感を覚えているのかもしれません(少なくとも私はそう願っています)。ポジティヴな方々はそんな人々のことは無視すればよいのですが、しかしポジティヴなものに違和感を覚える側の精神の裏側には、単純な嫉妬とか、浅薄な冷笑以上のものが含まれているのではないでしょうか。
以下に、そんなことを述べてみたいと思います。
※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。
※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。
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世間や言語が支持する「幸福」の姿があります。
これぐらいお金を稼いで云々とか、家族仲は良好で云々とか、庭付き一戸建てに子供が何人いて云々とか、あるいは仕事では仲間から尊敬されるとか、敬愛されるとか、そういったものを含めても良いでしょう。日頃楽しくニコニコ生活していて余計なストレスを感じずに希望を持って生きられている、などということもここに大いに含めて良いでしょう。
実にこうした素朴な価値観というものは、価値観の多様性を受け入れるふりをする人の目から見れば、疑いえないものですし、見かけ上多様であっても、幸福であることとか、肯定的な感情を持つこととかは、共有可能な目標だと思い込まれています。
こうした価値観を否定する(までいかなくても、少なくとも疑う)ということを、言語的所作によって実践できている人はなかなか少ないように思われます。
別の側面から言うなら、価値観は多様だ、とお題目のように言ってみても、たとえば負の感情として一般にラベリングされる感情があります。怒りや悲しみのことです。これらが負の感情であるということをさしあたって認めるとして、そうしたラベリングが既に決定的な認識の欠落、ないしは極端な価値判断を暴いています。
例えば怒りなどであれば、正当にもその積極的な価値を取り上げる人はもちろんいます。しかし怒りという感情が良いとされるのは、何らかの積極的な役に立つ、つまり奮起して何か積極的な事柄を達成するとか、困難な問題に立ち向かうという観点からです。この点は極めて重要な特徴です。
なぜなら、この特徴というのは、喜びとか快さといった感情が即座に良さと結びつけられるのに対して、いわば条件付きの正しさだからです。
つまり怒りはそれ自体良いとされることはなかなかなく、その点で喜びや快さ・希望などといったものと比べれば、少なくとも日常的な言語においては、或る種二次的な位置づけを与えられているという成り行きです(実に「情念・感情(passio)」がそれ自体よいものでも悪いものでもない、と主張したトマス・アクィナスはこの点、立派です)。悲しみについても同様のことが言えるでしょう。
怒りや悲しみというものは、何か外在的な理由がなければ良いものとはされないのに、喜びや希望というものは積極的な・肯定的な感情として無条件に良いものとされがちである、そういう言語が世界で回っている、という成り行きです。
別の見方をすれば、例えばアンガーマネジメントを盛んに訴える人はいても、ハピネスマネジメントを訴える人はなかなかいない、ということを考えてみても良いでしょう。
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しかし、そんな観点に否を突きつけたくなる、そんな心情があるということを皆さんはご存知でしょうか。あるいは直感されている方もいるかもしれません。直感されていない方もいるかもしれません。
そうした直感を持っていることに気づいていないけれども、実は持っている、そうした人間が大半であることを願ってやみません。
喜びや希望やその他肯定的・積極的な感情が第一に来る疑いえないものである、というのは、私などにしてみれば、どこか極めて重要なものを隠蔽している不誠実な態度に過ぎない、と思われるわけです。
そんなことではない!
快さや楽しさといったものを超えてその彼岸に、あるいは快さや楽しさ・希望などといったもののはるか手前において、信ずべき価値がある。そうした直感をもたれたことのある方もいれば、持たれたことのない方もいらっしゃると思いますが、私は間違いなくそうした価値があると思っています。
もちろん、ただ内的に信じているというわけではありません。一個には、歴史的な理由があります。快さや楽しさというものを至上の価値として想定する哲学的言説はどの時代にもありますが、そうした言説は決して主流を占めることはありませんでした。いわゆる快楽主義が倫理学において主流たりえない理由については、人間がほんとうは快楽を至上の目的としていない、という極めて決定的な事情があるのではないか、と感じられるわけです。
混同しないでいただきたいのですが、これは「お金が全てではない」などというくだらない・低級な・あまりにも当然の主張とは重なりません。
お金が全てではないというのはもっと当たり前のことです。問題は、「幸福を与えるもの」とか「肯定的な感情」というものを人間は必ずしもよしとせず、寧ろ幸福とか肯定的な感情といったものを即座に受け入れて何の留保もなく称揚できるということにこそ、極めて根深い病理があるのではないか、ということですし、そうした病理が実に私の、あるいは皆さんのいる時代には蔓延しているように思われるのです。
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別の言い方をします。
分かりやすいから・受け入れやすいからと言って、快楽に即して生きる・希望に即して生きるという原理をあるがままに受け止めてしまえば、なるほど肯定的で積極的な感情に沿って生きることができるかもしれませんし、それは現代社会に生きていくのに極めて有効な手立てではあると言えます。
単純に言えば、物質的な快楽も、人間関係も、肯定的で積極的な感情を持っていれば、あるいはそれを発動していれば、常に得やすい、ということはあるでしょう。
その点について異論を唱えるつもりは全くありません。
しかし、それではいけない、そうしたくない、そんな仕組みはわかっているけれども私はNonを突きつける、という人がいるはずですし、私はそういう人にこそ深く共感する面があります(判官贔屓と言えなくもありません)。
不分明なものに説明を与えてくれる、分かりやすい陰謀論やデマが深刻な帰結を招来するように、あるいは分かりやすいだけの、無根拠で表層的な図式が数十年・数百年単位で人類の認識を曇らせてしまうように、少なくとも私や皆さんの周囲に蔓延する極めて薄っぺらい快楽主義、あるいはポジティヴ教、積極的な感情に対する崇拝というものは、極めて重篤な、人間そのものに対する攻撃であるようにさえ思われる、というなりゆきです。
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実に以上をさしあたり(説得されるかどうかは別として)受け入れるなら、道はいくつもありえます。実に安直な二項対立を提示したわけですから、そのふたつの道の間にスペクトラムが広がるというわけです。それでもかんたんに分けることはできるでしょう。
——第一に、お前の言ったことなど知らん、お前の言ったことなど微塵も理解できない、理解するつもりもない、お前のことなど知らない、という立場がありえます。
それは、幸福とか希望とか喜びとか、そういう肯定的な状態や感情は良いに決まっているじゃないか、お前は何を言っているんだ、という態度で生きていく人です。
この人たちは幸せに生きられるでしょう。おそらく私から何かをもたらすということは、極めて表層的なレベルをおいて他にありえません。楽しく生きてください。楽しく生きられないはずがありません。
——あるいは、有用性の彼岸に立つこと、つまり快さや楽しさを超えた心理的価値のために、いわば殉教することが考えられます。
これはすぐれて殉教ですが、実に社会において多くの人が実践してしまっていることではないか、と思われます。
私はこの人たちのことを不幸だと思いますが、愚かだとは思いませんし、寧ろ極めて誠実だと考えています。
実にこうした人たち、つまり肯定的な感情を作り出しそこに溺れることを決してよしとしない、否定性に向き合うまではいかないかもしれないけれども、少なくとも肯定性に溺れることだけはしない、という直感から出てくるような態度を貫いているように見える人は、なかなか多いものです。
そこで貫ききれないがゆえに、人は愚痴を述べるのかもしれません。あるいはそこに向き合い続けるのが極めて苦しいがゆえに、娯楽や酒や、殊によると違法薬物に身を委ねるということがあるのかもしれません。
しかし私はそれを愚かだとは思いません。否、愚かかもしれませんが、極めて妥当なありかたです。法や行政がどう判断するかは別ですし、どうでもよいことですが、ともかくそこにこそ、人間の極めて重要な要素が凝縮されているように思われてならないのです。
実にそうでなければ、過去から連綿と繋がれている「役にたたない」もの、ネガティヴなもの、演劇であれ文学であれ娯楽であれそうしたものは、とっくに消滅していることでしょう。
——あるいは、私たちはこの2つの態度をヤヌスのように使い分けることもできるかもしれません。
ヤヌスとはギリシャ-ローマ神話における神格のラテン語名ですが、実に前後2つの顔を持っているわけですね。英語で言えばJanuary「1月」の語源であって、つまり新しいものと古いものの双方に目が向いているというイメージです。
とまれ、この2つをともにに持つ・維持しつづけるということも、原理的には考えられるわけです。
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私たちが、あるいは皆さんが、どの位置を取るかということは、すぐれて選択の問題であり、あるいはそれ以前の運命の問題であると言えるでしょう。
しかし少なくとも、選択・決断・運命的な導きが背後にある、つまり理念的には可能性がいくつもあった、ということだけは気に留めておかなければ、最低限人間が持つべき誠実さというものは実現されないのではないか、と私は考えています。
ネガティヴを圧殺し嘲笑う振る舞いも、ポジティヴに対する卑しい冷笑も超えて、そのどちらもがありえた、そしてありえている、ということをききちんと見定めたほうがよいのではないか、ということです。
実にそのように自らに(人間に)与えられている条件を振り返り、反省することこそが、語源に照らして得られる良心(conscientia)概念の極めて重要な中核部分に置かれているからには。つまり、反省と、自然法の再帰的な適用こそが良心のはたらきなのであってみれば。そして「良心」は語の構成としてもほとんど「意識(conscience)」であって、意識なき人間は死んでいるからには。
■【まとめ】
・肯定的な感情や、世間的に言われる幸福といったものを無条件に正しいとする発想がありうる。それがまずいとは言わないが、そうした有用なもの・肯定的なものの彼岸において、それ以上に信ずべき価値がある、という直感を、或る種の人間はたしかに持ち合わせている。
・分かりやすく・理解しやすく・当座納得できるからと言って、肯定的な・積極的な感情や、吟味を尽くされていない「幸福」なる概念に身を浸すのは、重篤な犯罪であり、極めて危険な所作であるように思われる。
・少なくとも、積極的・肯定的なものに身を浸しながら生きるのか、あるいは否定的なものないしは役に立たず幸福や快と結びつかないものへと身を捧げ殉教するのか、あるいはその双方の立場を堅持するのか、といったことは考えてもよいし、そうした選択肢が少なくとも仮想的には(retrospectiveには)ありうるうえでの、自らの選択であると思って生きたいものである。それこそが人間に対する誠実さであるからには。
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