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【297】私の文のうまさを思え/たとえあなたの意図が報われなくても

韻文つまり詩に対して概して不感症で勘の鈍い私であっても、詩の類を全く読まないわけではなく、例えば一定程度思想史に親しむ人間なら誰でもそうであるように、リルケやマラルメには十代の頃から親しんでいます。

日本語の詩はほとんど読まないのですが、例外的にしばしば触れることがあるのが、平田俊子のそれです。

平田俊子の詩の中でも極めて強く印象に残っているのが、『ターミナル』という詩集に含められた「うさぎ」という詩です(思潮社の『平田俊子詩集』にも入っています)。

今回はこの詩から。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


詩については、解説をするのも解釈をするのも本当は野暮だという気持ちがありますが、とりあえず「うさぎ」という詩については、是非一度読んでいただいて、凄まじい迫力を感じていただきたいな、と思われます。

引用しているWebページがありますので、そちらを貼り付けておきます。

http://www.haizara.net/~shimirin/on/akiko_02/poem_hyo.php?p=7

この詩において「キツネ」になる——ということは、もともとキツネではない——「あなた」は捕食者であり、「うさぎ」としての「わたし」はそのキツネから逃げるのですが、あからさまに「わたしを食らえ」「追ってこい」「うれしい」などとと書かれている通り、剰え末尾に捕食されるのを「まっていたよ」といい自分の肉の甘さを想像せよと言っていたりというところからもわかるように、

捕食される対象になっている「うさぎ」は、単に捕食者を恐れて逃げているのではなく、捕食者との極限的な命のやりとりを成立させるためにこそ逃げており、捕食される者としての運命を(従容と受け入れるのではなしに、然るべき抵抗と逃走を経て)全うすること、そこにおいて捕食者が本気で、あきらめることなく追ってくることに途方も無い高揚感を覚えている、という解釈は極めて一面的なものとして、少なくとも不可能ではないでしょう。


この詩は暗唱するほど読んでいるのですが、実に最近読み返して思われたのは、この詩に見られる食うか食われるかの極限状態にある命がけの友愛のようなものが、文章を書いたり読んだりする関係、あるいは文章に限らず表現を振り出したり摂取したりといった関係においても、想定されるのではないかしら、ということです。なにせ「もう一千年も昔から」うさぎは待っていたのであって、一千年も残りつづけるものは、私たちの文明にあってはテクストや建築くらいのものだからです。

実に文章を書く人間は、ある特定の内容を伝えたく思っている可能性はもちろんありますし、それが当然だろう、というタイプの解釈を行う人ももちろんあるかもしれません。

しかしそれは狭い見方です。たとえば文学的言語は、もちろんストレートに理解されることを欲しません。何らかのメッセージを伝えたいのであれば、最初から論文を書けばよい話です。論文ではダメだから文学なのです。あくまでもメッセージの伝達以外の点に本質を持ち、つまり透明性を持たないからには、読者を罠にかける、読者から逃れ去る、そうした性質を持っているという成り行きです。しかし他方で、文学のテクストは、私たちを誘惑し読むことを促すものでもあります。読むことを促すからには、テクストは自らを暴かれるべきものとして、血肉を晒し、食らわれることを待ちながら世界に身を置いているのです。

あるいは文学テクストでなくてもそうです。哲学テクストは当然そうですし、あらゆる事務所類も、透明であるかに見える論文もまた、読んでほしい人にストレートに届くわけでもありませんし、隠され、秘められ、たどり着くまでに時間を要し、ひとたび視界に捉えられたとしても、読み尽くし内容を暴かれるまでには甚大な知的労力を要する場合も多いものです。

つまりテクストという草食動物は、読者という貪欲な狩人に対して、味わったときの肉の甘さを想像させ、赤い血を想像させるものですし、私たちに追いかけられるためにこそ逃げ、しかし振り向いて、私たちの姿を確かめ、誘惑しつづけると言えるのかもしれません。

何か素晴らしい本、誰も気づいていないのかもしれないけれども素晴らしい本に出会ったときに、私たちはこの本に出会うのを待っていた、という実感を覚えることがあるかもしれませんが、詩の最後にあるように、まさに待っていたのは追われる獣の側、テクストの側であったのかもしれません。

もちろんテクストが人間(や擬人化された動物)と同じような仕方で意志や意図を持っているわけはない、というのは、ごく素朴な唯物論的なものの見方として正解ではあります。とはいえテクストというものが、それを書いた著者の意図を常にありのままにつたえる、などというもはや悪い意味でナイーヴな見解を信じる人も、もはや存在しないでしょう。

テクストは著者の意図などというものをはるかに超えるレベルで意味を生成し、私たちを惹きつけるものであるからには、そのような理解、つまりテクストを単なる無味乾燥な媒介とみなす発想、ないしはテクストが著者の意図を代弁するにすぎないという見解は、少なくとも私にとっては受け入れがたいものです。


こうしてテクストと読者の関係を見てみたときに、しかしテクストを作る書き手というものはどうしてもテクストの背後に紐付けられるわけで——方法論的に、さしあたってテクストは書き手から分節されるものの、分節されるからには接続されているというなりゆきです——、書き手は書き手で、自らテクストを支配したがる傾向や法的と言ってよい権利を持つということもまた事実でしょう。著者は自分が生成したテクストに対して何らかの愛着を持ち、特権的な関係を持ちたがるものでしょうし、それは実定法において保証される面があります。

こうした極限的なやり取りの中で、テクストは自らの意味を、つまり「肉のうまさ」を示し、赤い血を開示して周囲の雪を汚し、「薄笑い」を残して死んでゆきます。狩人はテクストある意味で破壊するものです。もちろん実際にはテクストは残りつづけるのですが、私たちの解釈によって、ある意味でテクストは、書き手が想像したのとは全く異なるかたちへと、徹底的に歪められます。

書き手は白い毛に覆われたうさぎとしてテクストに意味をもたせたのに、テクストは自ら狩人を誘惑し、殺されて食われるという成り行きです。寧ろそれこそが読まれるということではないでしょうか。

テクストを読んだ私たちの側もまた、無傷ではいられません。疲れを残します。私たちの腹を満たし、血となり肉となります。テクストが流した血によって汚された雪山は、私たちの記憶にとどまります。寧ろテクストが実のところ不死身であるからには、そして読者が潜在的には世々に渡り無限に存在するからには、テクストは無数の読者に痕跡を残しつづけることでしょう。それこそがテクストの生命ではないでしょうか。バルトに倣って「作者の死」を喧伝するまでもなく、テクストは読まれることにこそ生命を持つのですから。

してみれば、テクストは書き手の意志に反して捕らえられ、毛をむしられ、食い殺され、消化されることで、その永続的な生命を維持する、とは言えないでしょうか。


そう考えてみると、書き手がその意図によって統御し尽くすことのできないテクストというものは、読まれ、殺され、ちぎられ、つまり曲解され、何らかのかたちで消化されることによってその生命を維持するのですが、この点こそが、書き手に許されるテクストへの誠実かつ鷹揚な態度を逆に照らし出すのではないでしょうか。

テクストは崇め奉られることではなく、食われ血を流し消化されることで痕跡を残すものであるからには、書き手も自らの文章に対する過剰な愛着を持たぬように自戒をはたらかせてみてもよいのではないかということですし、これは言い換えるなら、「私の文のうまさを思え」「あなたはわたしの文を思い切り読むがいい」ということになりうるのかもしれません。

そもそもテクストは書き手の意図どおりにならないもので、テクストの生命というものは読まれることに、解釈されることに、ときに誤解され、消化され、別のテクストへと変容を遂げることによって維持されるのであるからには、自らがテクストやテクストの意味を支配したいという欲望は妨げられないにせよ、寧ろ読まれ、いろいろに解釈され、摂取され、自家薬籠中のものとされることを喜ぶ態度、つまりときには自分の当初の意図に反して、テクストが食いちぎられ・食い破られていく様子を認め楽しむ態度こそが、或る種の書き手、つまり自身のテクストへの支配欲よりも、テクストが生み出す効果をこそ重視する書き手にとっては、誠実な態度なのかもしれない、と思われるわけです。


以上はもちろん、誤解されるような文章を積極的に書きなさい、ということではありません。無際限な誤解や公然たる誤読というものに対して、常にイエスと言いなさいということではありません。

現実的には、テクストに対しては基本的な正しい読み筋が存在するのですし、そこを大きく外れるような読み方が実施されるうとすれば、

とはいえ、一定の限度を満たしたうえでなされる誤読や、あるいは創造的な解釈の転換といったものがしぜんに実行されるときに、あるいは言葉に込めていたはずの意図のようなものが裏切られるときにこそ、私たちが書いた物の可能性が開示されるのかもしれません。

■【まとめ】
・テクスト(文章)は書き手の意図を超えた意味や効果を持ち、そのうえ読者の目に晒される。

・他方、テクストは読まれることにこそその生命を持つ。つまり作者が意図したのとは異なる姿へと読み変えられて摂取される可能性をそもそも含み込んで成立する。

・いやしくも書くのであれば、そもそもテクストがそうした運命を持っている、ということを前提し、自らテクストの運命を望むままに支配しようなどとは思わず、寧ろ読むことの力学に委ね鷹揚に構える態度こそが、誠実なのかもしれない。