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【338】プロかつアマでありたい? ふたつの語源を介して

「好きなことを仕事にせよ」という或る種の命令と「好きなことは仕事にすべきではない」という忠告は、どちらも一定の正当性を持ちます。

この二つの主張はもちろん矛盾しあうところがありますが、この矛盾ないしは対立の間での決着というものはつけようがありませんし、つける必要がありません。

どちらの言い方にも、一定の普遍的な正当性がある、ということは確実でしょう。

ということは、双方がともに想定している「好き」ということ、そしてあることを「仕事」にするということについては、指示しうる範囲が極めて広く、そこから自由に、意味のセットを選択できている、と言いうるのかもしれません。あるいはその自由もまた、個々人が得てきた観点に深く根ざしている点、無規定・無制約なものではないのですが。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、「地味だけれどもあらゆる知的分野の実践に活かせる」ことを目する内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


ともかく、現象としてはどちらの言い方にも正当性があります。

たとえば、どれだけ趣味でやっている好きなことであっても、仕事にしてしまうと辛いことは絶対にあるから、好きなことを仕事にしてしまうと、その好きだったはずのことを嫌いになってしまう。これは実にもったいない。……これは間違ってはいないことだと思われます。

あるいは、趣味でも仕事でも「好き」ということはできるが、その「好き」は似通っていても違うのであって、短絡しあえるものではない、だから未だ仕事になっていない好きなことを仕事にしても、仕事として好きになれるかはわからない、という人もいるでしょう。

あるいは逆に、趣味になりうるようなかたちで好きでもないことを仕事にしたところで成果は上がらないのだから、好きなこと以外のことをやるということは自分の時間を犠牲にするのと同じことで意味がない、という言い方も間違ってはいないはずです。

……こんな感じで、決着はつかないわけです。好きであることとか、何かが仕事であるとかいうことが何を意味するのか、ということが曖昧なままに、スローガンのレヴェルでの、つまり宙に浮いた言葉のレヴェルでの正しさを争おうとするから、おかしなことになるのかもしれませんし、あるいは終わらない、ともすると不毛に見えかねない議論が繰り返されている、と言ってもよいのかもしれません。


もちろんそんな議論が無意味だとは思いませんが、表面上の言葉でやりとりばかりをしても仕方がないので、一般に知られ振り出される問いが胸の内に去来する、あるいは周りからおざなりに投げかけられるときには、問いを即座に封殺するよりは、問いの周辺にさらに問いを繁茂させることが、実り豊かな(そしておそらくはおおいに個人的な)応答の方策になるでしょう。

真摯な仕方でテキストを読んでいる人であればわかることだと信じていますが、私たちが求めるべきは答えというより、寧ろ問いを深めることですし、こと難解な文章が問題となるときにわかりやすい「答え」が勢いよく提示されているときには、その背後に一定の背景——能力の点におけるそれであれ、あるいは戦略におけるそれであれ——があると思っておく必要があります。

性急に答えを求めるべきではないし、そうした態度は実践的な誤りに結びつきうるからには、問いを言い換え、組み換え、捻って、より適切な問いを探求してゆくことが、答えるべき価値を持った問題への態度だということになります。

言い換えるなら、問いの意味は私たちを触発し賦活すること、問いを深め新たに発見させるにこそ存しているのです。冒頭に挙げられたような曖昧な・内容不鮮明な二者択一は、なるほど一個の問いの形式を持っていますから、ここでもう一つ、ずらしてみましょう。


好き嫌いと仕事との関係に関しては、実にふたつの、対になった西洋語由来の単語が参考になるのではないか、と思われます。「アマ」と「プロ」です。

アマチュアとは、概ね仕事でやっていない人であって、プロとは仕事でやっている人だ、というのがひとつの簡単な規定でしょう。

実際、アマチュアに類する語を近代語の辞書で引くと、少なくとも現在使われている意味としては、まずもって否定的な表現が目立ちます。「プロフェッショナルではない」とか、「職業としてやっているわけではない」とか、「金銭を対価として得ていない」とかいう形式で、「アマチュア」の概念が規定されるのですね。

が、もう少し分厚い辞書で調べれば分かる通り、このアマチュアという単語は、英語のamateurの段階で言えばこれは即座にフランス語からの借用語であって、このフランス語のamateurという語はラテン語のamatorつまり愛する(amare)ところの人間、愛している主体のことを意味します。英語に直訳すれば、loverないしはa person who lovesです。
 
つまり、元々は何であれ対象を愛する者が「アマチュア」なのですし、フランス語だとamateurは形容詞としてもよく使われていて、単に何かを好きだという表現を行う際にも極めてよく使われる言葉です。日本語で「アマチュア」と言うと対象に積極的・主体的に関わっていることを含意しますが、フランス語には必ずしもそうした意味はなく、消費しているだけでも——音楽なら聞いているだけでも、ワインならなんとなく常飲しているたけでも——amateurです。

こうして見ると、この「アマチュア」という単語は実のところ、元々は金銭を対価として得ることや、それで生計を立てていることと全く矛盾しないようにも見えるのですね。大胆に言えば、プロが同時に「アマチュア」になりうる、ということです。

もちろんこれは、現代語では(西洋語の水準でも)おおいにオクシューモロンですが、とまれ元々の意味は「愛している」ということです。

何らかのかたちで愛するプロがいてもよいからには、「アマチュア」であるようなプロがいてもよい、という成り行きです。

もちろんこれは或る種の極端な表現で、詭弁ですが、少なくともイメージとしてはそう言える、ということですし、皆さんの言語使用を大いに撹乱する作用を発揮しうるものです。


professionalという語を辞書で引けば、これも第一義的には(というかよく使われる意味としては)、それで生計を立てている、それで食っている、ということを表す言葉だと言えるでしょう。

あるいはそれだけで食っているのでなくても、金銭をもらっているとか、そうした意味で用いられることが多いはずです。

さて、例によってこれを語源の観点から見るならば、これはラテン語のprofiteriという動詞に由来しています。このprofiteriは、カンのよい方なら気づかれる通り、pro-「〜の前に」という接頭辞と、fiteri「宣言する/公言する」という語から構成されています(なお、このfiteriはconfiteri「告白する」、confession「告白」にも見られる要素です)。

ざっくり言えば、つまりプロフェッショナル(ないしは、professionのひとつとしてのprofessorでもいいのですが)の背後にあるイメージというのは、人の前で宣言・公言する、ということです。

「宣言・公言」という訳語は決してミスリーディングなものではなくて、つまり内容を上から伝えるということには重点が置かれません。professorといえば今では教師・教授のことを意味するのが常ですが、元々プロフェッショナルないしprofessorいうのは、自分の持っている内容を世間に問うということよりは寧ろ、大勢の人々の前で宣言をする、というありかたの問題なのです。

逃げ隠れせずに、自らの姿を現すということ、姿を現し自らの態度を宣言し公にする、ということが、プロフェッショナルであるということの、語源から見た——つまり一面的であるにせよ或る種根源的な——意味である、と言えるでしょう。

さて、この観点からすると、金銭を稼いでいるとか、生計を立てているとかいうこととは関係なしに、逃げ隠れせずに自らの態度を反省し顕示している態度こそがprofessionalのそれである、と考えることもできるでしょう。

そうしてみると実に、日常的意味での「アマチュア」が、今言った意味でプロフェッショナルである、ということもありうるのではないでしょうか。

つまり、私はこれこれこういう意味でアマチュアである、というかたちで自らを世界に知らしめる、自らを世界に問う、という態度がありさえすれば、それで金銭を得ているとかいうこととは関係なしに、ある意味での「プロフェッショナル」だ、と言うことができるのではないかと思われます。

もちろんこれも、上で見たのと同じ、或る種の詭弁ではありますが、少なくともそうしたイメージを持つことができる、ということです。

「そうしたイメージ」。……「プロフェッショナル」であるということについては、金をもらっているとか、それで食っているとか、それで生計を立てているとかいうことも(特に現代語では)大事であるにせよ、語源の観点からは全く別様の情報を付け加えることもできる、つまり自らの態度を公に示している、というイメージを持つこともできるように思われる、ということです。

そしてそれは、自分が語る内容とか、自分が提供するコモディティとかではなくて、寧ろ自分の存在の在り方に賭けられている、と思われるのです。

さらにこの点から、世間の言い方では「アマチュア」であるところの自分の身を振り返り、アマチュアであるものとして世界に顕現している、プロのアマチュアというものがあってもよいのではないかしらん、という妄想が掻き立てられるという成り行きです。


最初の二者択一に立ち返ることにするのならば、この二者択一は、「好きである」こと、「仕事である」ということが一体何を意味しているのか、ということ、戦略的に(あるいはおざなりに)与えられている解答がそうした語に(ときに無意識に)どのような意味を与えているのか、ということに思いを致す(≒それについて問う)ことなしに、効果的に引き受けることはできないものであると言えるでしょう。

何も好きではないとか、何も仕事をしていないとかいう状態で生きつづけることは(「好き」とか「仕事」とかいう語の意味を広くとれば)実に難しいわけで、結局のところ確信を持って好きと言いうることを自らの仕事にしているのであれ、あるいはそうでないのであれ、自分が取り組みとして向かい合っているところのものについては、自分がどのような意味でその対象を愛しているのか、自分がどのような意味でその対象に取り組む存在として自らを顕しているのか、あるいは自分がどのような意味で愛したいのか、自分がどのような意味で自らを顕したいのか、ということを問いつづけ、振り返りつづけ、深めつづける作業が、実に冒頭に提示したような問いを変質させつつ引き受けるための、ひとつの——ほんのわずかな——手がかりになるのだと考えられます。

抽象化するなら、問いを引き受けるためには問いを組み替える必要があるのですし、それは答えへと一直線に飛びつくためではなく、大いに迂回し、問いを立体的に繁茂させてゆくためです。実に書く/読むことが特定のメッセージを伝える/読み取ることに目的を持つのではなく、書く/読むというそのいっときの作業そのもの、そして書く/読むことで共有される空間のためのものである、ということにも似て、言語の中で生きるとはそういうことではないでしょうか。

冒頭の二者択一に関しては、それを引き受けないことも可能性のひとつです。私は特に引き受けません。

が、良い悪いはともかくとして、さらに職業などという極めて狭い枠のことは別として、どうしてある生き方が採用されているのかを吟味し検討すること、その中でその生き方や具体的な対象を——諸様態に関する検討はここでは措くとしても——愛しうること、この検討のプロセスと愛のありかたを適切なときに公然と示しうること、つまりはプロでありかつアマである人、愛と反省の大地に果実を差し出せることこそが、ひとつの人間の理想であるように思われます。

■【まとめ】
・professionalとamateurの弁別は、現代では当該の職や技能で生計を立てるかどうかという点にかけられているが、言語的には別のところの問題であって、そのレヴェルでは両者は排他的ではない。これはおおいに詭弁だが、詭弁としてイメージを繁茂させうる。

・愛しつつ自らの様態を顕示すること、つまりプロでありかつアマであるという状態が好ましく思われるし、これはビジネスの文脈に全く制約されることなくそうである。