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【199】懐にナイフ、家に生ハムの原木、大海原に灯台:いつでも逃げられると思うと気が楽になる

何らかの意味で危機的状況に立たされている人間が、破滅的なかたちで使うつもりはないけれども、懐に武器を忍ばせて歩くことで安心を得る、という話はいくつかあります。

今回はそんな話から。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が【毎日数千字】書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


冒頭で行ったような話の例として頭に浮かぶフィクションは色々ありますが、重松清の『ナイフ』という小説です。

息子がいじめにあっているのに何もできず、職場でもあまり尊重されない父親が、露店でほとんどおもちゃのようなナイフを買って懐に忍ばせるのですが、それ以来、例えば電車で足を踏まれたときなどに強く出ることができる、という様子が描かれます。

俺はナイフを持っているんだ、いざとなれば刺して殺すことができるんだ、というかたちで、ある種の自信を持てるようになっている、というなりゆきです。

もちろん主人公は実際にナイフを使うつもりがあるわけではありませんし、クライマックスのシーンにおいても、結局のところを息子をいじめている連中に対して実際にナイフを振るうことはできずに終わります。それどころか、息子にナイフを託そうとして断られますし、しまいにはそのナイフで自分の指を切ってしまいます。

そんな細部はもちろん、ナイフを持つのが良いことだった、という簡潔を極めた雑な読解を許さないものです。興味のある読者は入念に検討するところかもしれません。

それでも最後のシーンで言われるのは「私はナイフを持っている。心配はいらない」ということです。ここからは、使うつもりは本当はないし使えるかもわからないけれども、いざとなれば相手を殺すことさえできる武器が、主人公にある種の自信ないしは足取りの確実さを与えている、というメカニズムを読み取ることが、少なくとも一定程度は可能であるようです。

武術や、筋力トレーニングを行っている人も、近い感慨を抱くことがあるようです。


もちろん、こうした例として、攻撃的なものが多く出てくるのは興味深いことです。

お守りのように持ち歩く器物がナイフであるということであったり、武道の心得を身につけることが問題にされることであるということ、つまり人を傷つけて殺すことさえできるものが召喚されやすい、ということにはきっと一定の意味があります。

その人の精神が割と危機的な状況に置かれているということ、攻撃されているように感じていて、攻撃的な方向に傾きかねないということが反映されている、とは言えるかもしれません。重松清の例に、ナイフという形象に、不安定さや攻撃性を読み取らずにいることは難しいでしょう(実にナイフが持ち主の手を傷つけたことは、不安定さを明かすようでもあります)。


とはいえ、ナイフを持っているから自分は大丈夫だ、いざとなったら相手を殺すこともできるのだ、という心の動き方には、私たちが実に平和裏に参考にできることもあります。

——フィジカルな意味で相手を殺傷することのできるような武器の類ではなくても、例えば経済的な苦境に抵抗するための予備的な手段を持っておくこと、辛いけれども身を置かざるをえない職場などとは全く異なる世界を持っておくということ、あるいは決して使われるわけではないかもしれない・決して現実化するわけではないかもしれない能力をひたすらに養っておくこと、が或る種の精神的な安定感を与えるのではないかということです。

たとえば職場が嫌ならば、仕事以外の収入源を持っておくということで、職場に対する嫌悪感が薄らぐ、ということが、半ば逆説的かもしれませんが、ありうるでしょう。逃げられないからこそ強い抵抗感や嫌悪を覚えるのであって、いつでも逃げられると分かればどうでもよくなる、ということはありうるものです。安部公房『砂の女』末尾に描かれる心理です。

あるいは仕事だけではなくて、趣味の人間関係を広く構築しておく、ということでもよいのかもしれません。仕事場の環境が本来は良くないものだとしても、あるいは自分の専門領域そのものの将来に不安があるのだとしても、鬱々とせず或る種気楽に仕事に臨めるようになるということはありえそうなものです。

副業をやっていて、そちらで余裕を持って稼げるようになって、寧ろ本業のほうでもおおいに精を出せるようになるという人は、たしかにいます。

広く人間関係を見るにしても、例えばひとりしか頼る相手がいないとなれば、私たちは結構しんどいかもしれませんし、その人との関係を保つのに汲々としてしまうかもしれません。

しかし、他の人にも頼ることができる、10人とか100人とかにいざとなったら頼ることができるとなれば、当初のひとりに対する態度もきっと余裕のあるものとなるでしょう。結果的に、人間関係が全体としてうまく回るということがあるかもしれません。

あるいは、私がいっときやっていたことですが、生ハムの原木を家に置いておくのもよいかもしれません。やったことのある方ならわかると思いますが、切りたては味が違います。そして、家に帰れば美味な生ハムがあると思っておけば、街路でたまたまイヤな目にあっても「あーハイハイ」と流せるわけです。


抽象化するのであれば、「やろうと思えばできる(やり返せる、逃げられる等)」という状況を作っておけば、つまり表に現れぬ自分・   自分を作っておく、自らを分裂させておけば、今この場でやり返す必要も逃げる必要もなくなり、そうしようという気も健全なかたちで薄れうる、ということです。

逃げ道を既に持っている人であれば、目の前の悪い状況に対してそもそもいちいち振り回される必要がない場合も出てくるのです。

トマス・アクィナスが回避・克服の困難な悪に関わる感情(気概的なもの)として挙げるのは大胆・恐れ・怒りですが、こうした感情は、なるほど立ち消えるかもしれません。

逃げ道を持つに至るためにはこうした気概的な感情が必要かもしれませんが、逃げ道を持ってしまえば、迫りくる悪に対する感情は、謂わばごく平静な憎しみ(odium)と、単に忌避(fuga)で済むでしょうし、寧ろ逃げられるのであってみれば、そうして描かれる感情は寧ろ、理性の統御下にある感情と言ってもよいかもしれません。いたずらに囚われることも大いに少なくなるでしょう。

寛大に、あるいは無関心になることができるでしょうし、ことによるとその精神的な余裕によって、冷静な視点によって、目の前の良くない状況に対して淡々と解決策を示したり、あるいは良い面を見出したりすることができるかもしれません。対象べったりに生きていては、つまりたったひとつの文脈に依存しつづけていては、得がたい知見でしょう。


別の比喩を持ち出すのであれば、例えばルクレティウスが『事物の本性について』の第2巻の冒頭で、暴風雨に苛まれている船を安全な陸の上から眺めることは快い、と述べていることが参照されるでしょう。

私たちは悪い目に合っている最中、あるいはよくない状況に置かれているまさにそのときには、その状況を客観的に捉えることができず、辛い辛いという思いだけが募るということはよくあります。

しかし、自分が遭難しかけているときに、もうひとりの自分が陸の上の灯台から眺めてくれているのであれば、船に揺られ難儀している自分がいるということを知ってくれている自分がいるなら、多少は気が楽かもしれません。

波に飲まれかけたときには、慌てて帆を張ったり舵をきかせたりするよりは、余裕を持ってどしっと構えてみたほうが、嵐を抜けるには役立つのかもしれませんが、目の前の荒れ狂う波しか見えていなければ、どしっと構えるのも困難でしょう。陸の灯台からの適切な指示があれば、余裕を持つこともできるでしょう。殊によると、波間から抜け出すための道行きを示す信号も、送ることができるかもしれません。

あるいは、どうせ陸に自分がいるのだから、難破したら難破したでもう仕方がない、陸の自分だけで生きていこうという気持ちにもなれるかもしれません。思い切って船を諦められるかもしれないということです。

そして、陸から見ている難破船の光景というものは、ひょっとしたらそれ自体、自分が安全地帯にいる、あるいは高波や暴風が襲ってきてもすぐに逃げられることを確認させてくれるもので、快楽をもたらすものかもしれません(これがルクレティウスの言っているとにもっとも近いのですが)。

さらにいえば、陸から眺める、白く湧き立つ波間にこそ、ただひたすらに海に揉まれていては見出しえなかったはずの自然の美しさを確認できるかもしれません。つまり近すぎて気づかなかった青い鳥に気付くかもしれない、ということです。


懐にナイフを抱くということは、あるいは別の言い方をするのであれば、自分をひとつの場所に縛り付けない、ないしは自分が依存する対象を一つに限定しない、複数の自分を持つ、という方策でもあるわけです。自らに関する現実を複数持つ、それゆえフィクションを複数持つということでもあります。紡がれた複数のフィクションは即座に影響しあって、互いを相対化しあい、編み変えあうことでしょう。

ナイフを持ち歩くようになった父親の例で言えば、その父親は背が低いことにほのかな劣等感を持ちつづける、職場ではうだつの上がらない人間であるわけですが、ナイフを隠し持つ自分を構築することで、うだつの上がらない自分というものの足取りを少しは変えることができたわけです。うだつの上がらない中年というフィクションに、ナイフを持ち歩く男性というフィクションを付け足すことで、化学反応が起きているという成り行きです。

既に申し上げている通り、実際に人を殺傷する効力を持った武器を持ち歩くことを推奨するつもりはありませんが、そのような武器になぞらえうるもの、あるいはお守りのようなものとして、多くの依存先を持ち、それにともなって自らを複数化してゆくことで、逆説的に、今自分が依存せざるをえない環境に対してもうまく付き合っていけるようになるのではないか、ということです。

それはたとえば、あまり快くない職場であったり、あまり快くない人間関係であったりするわけですが、そうしたものとうまく付き合っていくためにも——「にも」と言うからには——、逆説的にその他の環境に依存してみることが役に立つのではないか、ということでした。

■【まとめ】
・ひとつの依存先・ひとつの場しか持っていなければ、苦しいことになりうる。

・「いつでもその状況を打破できる」「いつ逃げてもやっていける」という準備や確信があれば、当の状況も淡々と・気楽に受け止められるようになるかもしれない。

・この態勢は、逃げる先や状況を打破する手段を持つことによって形作られることになるだろう。つまり複数の場に複数の自分を持つこと、自分に関する現実を相対化し、フィクションを複数化することである。