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【817】ガリア戦記を読もう

カエサルの『ガリア戦記』はだいたいラテン語の初等文法を終えた人が最初に読む散文です。何故最初に読むかと言えば、古典ラテン語としては実に模範的な文章で、習得している(はずの)文法的事項を色々駆使しないときちんと読めないものの、難しすぎるわけではないからです。絶妙なのですね。

ウェルギリウス(やホラティウス)もよいとはいえ、韻文ですから、覚えることや注意すべきことが一気に増えてしまいます。散文で言えばキケローやタキトゥスも良いとはいえ、カエサルよりも難しい。

キリスト教系の著者はそれはそれで面白いし、アウグスティヌスなんかはよいけれど、特殊な辞書や別途専門書が必要になることもしばしばで、何より古典ラテン文学の黄金期ではない。中世なんかだと接続法の用法が随分曖昧になっているのである意味で読みやすいけれども、古典ラテン語の辞書では対応できない語彙も増えてくるので、訓練の素材として模範的とは言えない。

ルネサンス期はrenaissance(再び-生まれる)という語から来ているように、古典復活の時代ですから、かなり洗練されたラテン語の書き手はいましたが、訳書が整っていなかったり、文脈の点でキリスト教の蓄積が厚すぎて大変なことも多い。グロティウスなんかはかなり優等生的なラテン語を書きますが、いかんせん文法的にはわかり易すぎる面がある(De Imperioなんて超わかりやすいですね)。デカルト? あんな汚いラテン語誰が読むんですか。笑

……というわけで、もちろん自分で何か読みたいものがあってラテン語を学びはじめた人は別ですが、たいていの場合にはカエサルの書いた散文から入ります。私も枕頭の書としてモンテーニュや藤原定家歌集と同じくよく読むものです。


さて『ガリア戦記』はタイトルからわかるように戦記ですから、小説本のようにして(というかシオランが言うところでは、無学なアパートの管理人が読むように)楽しむのももちろんよいのですし、私はそうしているきらいがありますが、2000年昔のものとは思えないくらいに、今読んでも生き生きと面白く読めるものです。

たとえば『ガリア戦記』でもっとも有名なのはルビコン川を渡るときのalea iacta est(賽は投げられた)で、これは西洋では寧ろラテン語で記憶されている——フランス人でも一定の教育を受けていればフランス語でなくラテン語で記憶している——ものです。

こればかりではなく、第3巻第18節には「人はじぶんが信じたいと思うものをこそ喜んで信じる(Fere libenter homines id quod uolunt credunt)」という名言(?)が見られます。

いやまさにそうで、これは投資や投機の値動きに関する文言としても上手く機能しますし、陰謀論を信じてしまう人にもちょうど当てはまるものです。いやそればかりでなく、社会的に「まとも」な人々や、他人からも概ねそう思われている(と自負する)人々こそ、自分の信念を強固にするためだけに生きるようなヤバい沼に浸かっていることはしばしばです。「本人が幸せならそれでいい」とでも言うのでしょうか?  いや、まあ一生そうやっていればいいんじゃないんですか、などと私には思われますが、とまれ私もこうして信じたいものを信じているわけで、それがどこまで適切で、どこまで適切でないか、ということに係る信念もまた、「信じたい」かどうかによって裁かれるというとんでもない入れ子があるものです。溝は深まるばかりですね。

……というわけで、皆さんも『ガリア戦記』くらいは読んでおいてもよいでしょう。各書に面白い記述ぱかりです。

日本人ならばふつうは『源氏物語』くらい読んでいるものですが、少なくとも(私たちを強く規定しつづけている)西洋型の知の枠組みにおいてはそれと同じレヴェルの基礎なのですし、最低限の教養を持った西洋人ならみんな読んでいます。そして幸い、邦訳でも十分に読みやすいものです。週末の読書にどうぞ。