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【329】「絶対に赦さない」リストを作ろう

人に見せられない文章というものがあります。

例えばそれは、恋文になりきらなかった恋文であったり、10年以上前の若々しさに任せて書き切った小説であったり、理知的であろうとしてみっともない衒学に陥ってしまった論文モドキであったりします。あるいは未来へのもう少し肯定的なマニフェストをここに含めてもよいでしょう。

そうした他人に見せることのできない文章の中には、私がもうひとつ隠し持っているのは、「絶対に赦さない」リストです。

「絶対に赦さない」リストとは、私が「こいつだけは絶対に赦さない」と思った人間の名前と、赦さない理由を書き記したノートです。

このリストについて。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


「絶対に赦さない」リストを見られると破滅する可能性がありますので、もちろん外に持ち出したりすることはありませんし、必ず手書きで、電子化もしませんが、ともかくそういうノートを作っていて、よくない出会いがあったら書き記して再び棚にしまう、というような作業を、もうここ数年ほどやっています。

「赦さない」理由にはいくつかあります。

論理的な議論をしなくてはならない場所で時宜を得ない権威を持ち出してくるとか、

不透明な権力関係を利用して横車を押してくるとか、

初対面なのにこちらを鼻で笑うような態度を見せるとか、

年長者でありながら「年長者は偉い(からお前は黙れ)」という態度を見せるとか、

学問的に批判することができない相手に対して陰で良くない噂を流すとか、

学歴詐称をして自分を大きく見せようとするとか、

時間や感情や金を不当に搾取してくるとか、

「いじる」ことがいじる側といじられる側の共犯関係なしにあってはならないということを理解せずに、特に弱い立場にある人間をいじろうとするとか、

単純にハラスメントを行ってくるとか、

自分が想いを寄せていた人が私にばかり好意を持って振り向いてくれないので私を不当に憎んで、私とその女性がの関係が破局を迎えた後になって、賢しらに・自分には下心などまるでないかのように、私について陰口を叩きまくるとか、

そういうことが理由になります。


こんなことを言っていると、そんなマイナスの感情にばかり目を向けて辛い人生だねえ、と嘲笑されるかもしれませんし、実際そういう面はあると思います。

否定的・破壊的な感情にばかり目を向けるのはあまり褒められたものではない、ということはわかっています。

とはいえ、そもそも人間というものが否定性に裏打ちされた存在であるからには——無論否定されるのは現在の状況でもありますが、同時に企図に基づいた未来の輝かしい像のようなものも否定するのが、然し進歩しつづけるわけではないのが、本来の人間でしょう、皆さんはどうせ死ぬのです——、ネガティヴであるという点から目を背けている人間の方がよほど危険で、いびつではないかとも思われるわけです。

さらに言えば、こんな作業にも一定の「利益」があるわけです。

あるいは最初からネガティヴな感情など出てこないほうが「幸福」かもしれませんが、出てきてしまうからには、そして即物的な「幸福」など求めていないからには、この利益のほうが私には大切です。


「ネガティヴなことばかりに目を向けるのは良くない」。あるいは、「ネガティヴなことをポジティヴに読み替えるのが大切だ」。

ごもっともです。綺麗な理屈です。あなたは「成功」することでしょう。芦田有莉は言いました。「おめでとうございます」と。

とりわけのビジネスに携わっている人間や、あるいはそうでなくても、対外的に何らかの発信をしていく場合には、ポジティヴなことが重視されますし、それが即座に利益や成功やよい生活に結びつくことも多いのでしょう。

それはそうなのですが、否定的な面にしか目がいかなかったり、否定を重ねることこそが今なすべき正しいことであるように感じられたり、ということはあるものです。

辛い・厳しいことのうちに幸せな要素を見いだす作業が、浅ましい思惟の罪であるように思われる瞬間はあるはずです。

いったいそんなふうに思ったことのない人と、どうやって倫理を共有すればよいのでしょうか?

どうしたって目が向いてしまうのであれば、書き落としてみる、というのは悪いことではありません。無論それは、直接的には「ポジティヴ」に生きるためではなく、ある意味では騙し騙し生きるための方策ですが、それこそが誠実なありかただと考えられる瞬間、そうとしか思えない瞬間には、唯一の方策ですらありますし、これは容易にポジティヴに反転する可能性も持つのです。


「絶対に赦さない」リストに書き込むときにはもちろいん、最初は「いずれ追い詰めてやる」とか、「今に見てろや」という気持ちで書いているわけですし、私はとても性格が悪いので、本当に時間やその他のリソースにゆとりがあれば破滅させたいと思うような相手がいないわけではありません。

(というより、悪だと思われる対象を確実に破滅させることは誰から課されているわけでもない義務ですが、実に重い義務でもあります。……その点、何ものについても「まあそういう考えもあるよね」と居直る所作を身に着けている人は、つまり道徳や倫理の感覚を持たない人は、極めて軽やかで、幸福です。)

しかし不思議なもので、実際に書き出してみると、やられたことが実にしょうもなかったことに気づいて、「絶対に赦さない」ほどでもないと思い直すこともあります。やられたことはやはり赦せないけれども、もう関わらなければいいや思えることもあります。あるいは、相手が100%悪い場合であっても「自分にも悪い面があったな」と思うこともあります。これはこれで改善の機会です。ここで終えることができれば、ポジティヴ教に入信したも同然です。

あるいは、実際に復讐を実践したことはありませんが、復讐をするにしても、極めてエレガントな、精妙な戦略に則ってやりたいわけで、そんな戦略を構想することもまた、とりあえず書き出すことによって可能になります。これはこれでワクワクをそそるものです。

あるいは、利益や即物的な幸福に繋がるポジティヴな効果を排除するとしても、たとえ心身が滅びても今ここにおいて誠実である、ということを実現する点において、この作業の価値は決定的でしょう。


言語に落としてしまうことで、そうした否定的な心情というものが固められて強くなってしまうという側面は、もちろんあるかもしれません。悪いことなど、全く認識しない方が「良い」のかもしれません。兆した瞬間に肯定的に読み替えるのが「良い」のかもしれません。

しかし、ひとたびぼんやりと意識してしまったのであれば、そしてその意識からどうにも逃れ難く感じられるのであれば、情念の毒素を明確な結晶として取り出してきて記述しておく、ということにも、いささかの分があるのではないか、ということですし、その分は剰え「ポジティヴ」なものでもありうる、ということです。

繰り返すなら、少なくとも否定性は人間の根本的な性質の一部ですし、実際に今自分が否定的な感情やこの負の感情を抱いてしまうということを否定したって仕方がないのです。クサいものに蓋をしても、匂いは漏れます。

であれば、否定的な・破壊的なものを封殺したり、そうした感情を持ってしまうことで知らず識らずのうちに自分を責めたりするのではなく、付き纏ってくるような情念には寧ろ虚心坦懐に向き合って、ひとつのかたちを与えてみてもよいのではないかしらん、ということです。そうすることにも分があるのではないかしらん、ということです。


もちろんかたちを与えるとは言っても、実際に世界において(断罪や破壊や復讐を)実践しろ、ということではありません。少なくとも、不明瞭なまま毒素のようにして溜まっているものを、結晶化させて主に言語的なかたちで取り出してくることには大きな効果があるのではないか、ということでした。

ネガティヴなことなんか絶対に言わないほうがいい、という態度をとる人もいるかもしれませんし、それはそれで正当な生きる技術かもしれません。

しかし、 言わずにおいたからといってなくなるわけでもない。まして言い換え・読みかえが嘘くさい不誠実なものに思われて、一層ふさぐことだってある。

であれば、否定的なものを否定的なままに受け止めて一度かたちにしてみる、ということが唯一残された道である、そういう場合も、そう思われる場合も稀ではないと思われます。

そしてこの道は、捨てたものではないのです。

「ポジティヴ」なことを言うなら、否定的な想念がなんらか不透明な力学を私たちの生活全体あと及ぼしてくることもありうるからには、見えるところでやるかどうかは別にしても、否定的なものをさしあたって読み替えようとせずに言葉に落とす場や手段を持っておくということは、毒抜き・ガス抜きのオプションとして、実に肯定的な可能性を持っているかもしれません。

「ネガティヴ」なことを言うなら、そうした自らの情念に対する廉直は、きっと儲けにも社会的地位にも結びつかないにせよ、見える範囲で報いを与えてくれるわけではないにせよ、ポジティヴなことばかり引き受けて笑顔で人生の素晴らしさを喧伝している人にはわからないかもしれない、しかし分かる人には分かる——分かってくれた人は声を上げないかもしれないけれども——、そんな美しい陰影をあなたに与えてくれるようです。あるかなきかの、存在を明かすことさえできないかもしれない共同体が、そこには開けているのではないでしょうか。

このふたつの可能性はもちろん対立するわけではありません。人や場合によって生じてくる効果には差が出てくるでしょう。

とはいえ、ポジティヴ教に精神を毀損されて傷つくより先に、一度は否定的なものを否定的なままに見てみること、一度は地獄めぐりをしてみることも、そう悪くはないものです。

■【まとめ】
・否定的な感情や意見を持つのは良くないと言われる。抱えてしまっても肯定的に読み替えるのが大切だと言われる。実にポジティヴ教が隆盛を極め(つづけ)ている。なるほどポジティヴなほうが概して人生は上手くいくだろうし、良い人間関係にも、社会的地位にも、金銭的利益にも恵まれて「幸福」を感じられるだろう。

・しかし、否定的なものに否定的なかたちを与えることにもおおいに
分がある。かたちをあたえて初めて、大したことがないということに気づくかもしれないし、戦略的な復讐や反撃のことはじめになるかもしれない。以ってここから、或る種迂回路を経てポジティヴ教に入信するきっかけになるかもしれない。

・さらに、否定的なものを否定的なままに結晶化させる作業は、即物的な利益などを遥かに超えた、或る誠実を体現するものであって、一個の価値のある陰影を与えてくれるものではないだろうか。