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【178】「紺碧」の空の背後、制約条件の少ない中でフレキシブルに生きる

先日、「紺碧」であることを示す形容詞azureに関して、その語源を調べました。別にそれ自体の内容はどうでもよいのですが、改めて、こうしたいつでもどこでもできる・金のほとんどかからない活動(?)をやっているのはよいことだな、と思われたわけです。今日はそんなことについて。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が【毎日数千字】書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※写真はサピエンツァ大学(ローマ)法学部です。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


空が「紺碧」であることを示す形容詞(ないし名詞である)azure(仏語だとazur)が、青い鉱石である所謂「ラピスラズリ」から来ていることは既知でしたが、lapisがラテン語で「石」を示すならlazuliがどんな感じでazureになったのかな、ということがぼんやりとした疑問として抱かれていました。

l→rの交代は別によいとして(「矢」を示す同源の伊語frecciaと仏語flècheにみられるように、この子音交代はよくあります)、lazuliの冒頭のlがどんな感じで抜けたのかが気になっていました。

仏語は母音の前の定冠詞はl’になるから、逆に類推されてて抜けたのかなあ、などとぼんやり考えていました。少し古いフランス語のすがたを伝える『ローランの歌』にはlazurという語があるようなので、これでいいかなあ、と思っていました。

が、別様の解答もあったようです。

まず最近新しく知ったのは、アラビア語で「青い鉱石」を意味するlazawardという語がそもそもlazuliの背後にあった、ということです。

lazuliに対応する部分(lazaward)だけで本当は「青い鉱石」だったところ、ラテン語話者はそれではわからないから、lapis「石」という語をつけて、石の名前としてlapis lazuliという語を生成したということがあったようです。極端に言えば、lapis-lazuliは「青い石-石」ということになります。

そうなってくると、ラテン語話者はlazuliが「青」だな、と思うようになるわけで、このlazuliからazureが生まれるわけです。

この過程について、別の見解があったということですね。

その見解によると、lazawardに定冠詞al-が付されたものが変化してラテン語の形容詞azurusが生成され、これがazureになったという説明があったのです。

つまり、フランス語の定冠詞l’に見える部分を抹消してazurになった、という説明のほかに、(alcohol, alchemy, algebraと同じく)定冠詞付きのアラビア語の名詞がラテン語に導入され、その過程で語中の-ll-が音便化して脱落した、という説明があったということです。なるほどlは音便化しやすいので、わからない説明ではありません。

どちらが正しいのかは知りませんし、専門家でない私には判断もできませんが(まあ、『ローランの歌』の証言があるので第1の説明が良さそうな感じもしますが)、ともかくこんなことがあったということです。


補足的情報として、アラビア語のazraq/zarqaという語が「青い」という意味なので、ここからazureが来たのだという学者も昔はいたようです。Antoine-Paulin Phihanというフランス人東洋学者です。

が、このazraq/zarqaはセム語系のzrqという語根に由来するので、(qが抜けるのは不自然ということもあって)あまり人気がありません。

……が、興味深いことに、イスラームとキリスト教世界の接触地であったスペインでは、lazuli由来のazulという「紺碧」を意味する形容詞に加えて、azraq/zarqa由来のzarco「明るい青色の」という形容詞も(あまり使わないようですが)用いられるようなんですね。もっとも今は本国ではあまり用いない表現のようですが。

(というより、zarcoとazulという形容詞が別々に存在し、前者が明確にazraq/zarqaに由来するということが、azraqとazurの関係を否定する材料になるような気もします。)


のっけから重たいことを書き散らかしたので、もう誰も読んでいないかもしれず、それはそれでよいのですが、こういうことをやっていると、実に時間が経つのを忘れます。

ひょっとしたら、以上のような調べ物が友人との交流のなかで行われたからこそ時間が経つのを忘れていたのかもしれません。

よくもまあこんなことをやるな、と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、私には全く苦にならないのですね。

これが(私の生活という観点から言って)波及効果の高い、役に立つ作業かどうかはわかりませんし、ここに世間並みの・世間が認める快楽があるのかどうかもわかりません。

とはいえ、目的なしに本を読むのも、今回のように(言語によらず、できる限り)散漫に語源を調べるのも、無限に金があったらこれだけやっていてもよいかもしれないと思われるところがあります。「役に立つから」ということではなくて、そうした有用性の(少なくとも地上における)終点として、これ以上別のなにかの役にたつわけではないこととして、です。


たいてい「役に立たないこと」をやるにはわりと金やその他の条件が必要なものですが、思えば私のやっていることはだいたいが役に立たないもので、しかし精神的なものを除けばリソースの大してかからない・わりとどこでもできる・ひとりでもできるものばかりです。

研究にしたって、人文学は本(と必要なわずかの機材)さえ手元にあれば基本的にはひとりでできるわけで(もちろん、単独研究には固有の限度がありますが)、共同研究をほぼ必須の前提とし、高額の設備を用いる分野とは大違いです。

必ずしも研究と一致しない、しかし研究とおおいに重なる読書もそうです。1冊の本は大して高くありません。パチスロなどと異なり、金銭的なリターンを期待させないかわりに、金銭的な損失はほとんどありません。

絵を描くことも、初期投資はそれほど莫大なものではありません。極端に言えば紙とペンだけでよいわけです。もちろんやっていけば色々道具がほしくなってきますが、アナログなら画材だけで済みますし、かなりいいもので揃えてもそこまで深刻な値段ではありません(もちろん、絵の具や筆はブランドによっては相当高いのですが)。デジタルでやると実は一層安く済みます。描画のためのデバイスは少し値が張りますし、ペン先はもちろん消耗品ですが。……

なにか運動をせねば、ということでヨガを始めたのも、自宅でひとりでできて、そこまでスペースを要さず、天候や人間関係や地理的条件にほとんど振り回されない、という条件を想定していたからでしょう。テニスやフットサルだとそうはいきませんし、少し検討したbarre au solは場所をとるようでした。

(楽器に関しては例外ですね。こればかりは小さい頃からのことなので、ちょっと事情が変わってきます。)


「老後」という時期の存在を私は認めたくありませんが——「老後」にそれまでの仕事とは全く異なることをやるとすれば、やっていた仕事は純粋な金策になってしまうような気がして、つまりやりたいわけではないことを「老いる」より前にやりつづける、という情けない状況を認めてしまう気がして好きではない——、老後いつまでもやっていられる、いつでも何らかのかたちでやりやすい、大して金のかからない、命の危険も全くない活動の場(?)を持っているのは、実に幸福だと思うのですね。

大きな設備や被験者群を要する(特に)理系の研究者は、自分で資金を稼いでくることはできないので、国や民間の研究費をとるわけですが、そもそも学術に割かれる予算のパイが減ればできないことが増えてしまうわけで、自分にはどうしようもないものに首根っこを握られているところがある、と言えるでしょう。

ヨットに乗るなら免許がいりますし、買うとなれば相当なものでしょう。よく知りませんが、雨が降ったらできないのではないでしょうか。少なくとも自宅で・屋内でヨットに乗るのは無理でしょう。

スポーツにはとかく怪我の可能性がありますし、自宅ではできないことも多いでしょう。わざわざ雨が降ったらできないこともあるでしょうし、人の都合に左右されることも多いでしょう。

登山などは道具代もかかりますし、場所によっては危険が伴われます。毎日できるものでもなければ、忙しいときにはそもそも実行できないでしょう。

これらに対して、私のやることの、なんと安全で、柔軟で、持続可能性の高いことでしょう!

もちろん私も、インターネット網が全て崩壊したり、あるいは本格的な社会主義革命が成功したりすれば、おおいに生活はかき乱されるでしょう。とはいえそうなってしまったら他の方々においてもいろいろ終わるものなので、特に気にならないでしょう。


私は別に、「なので皆さんも語学をやりましょう」とか、「特に原語で古典を読むと無限に時間を潰せるのでおすすめです」とか言いたいわけではありません。

いや、語学や古典の(入念な)読解を趣味にする人が増えればそれはそれでよいと思いますし、

わずか数行を解釈するために千年オーダーで解釈や研究を積み重ねてきた人類の歴史に参与することは、或る種の人間には極めて大きな喜びをもたらすものですし、

人間の言語運用に関する努力を言語で捉え返す作業は、言語に呪われた人間という存在にとって本質的に重要だと思いますが、

それはさしあたってどうでもよいことです。

金のかからない趣味を積極的に選ぶべきだ、と申し上げたいわけでもありません。それは人それぞれです。

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寧ろ言いたいのは、特に金銭という汎用的交換手段によって解決しづらい部分に依存する要素——天気であれ、人間の心理であれ、疫病の流行であれ、なんであれ——が深く関係する営みばかりにあなたが重心を置いているとすれば、それは人生全体が極めて脆弱だということにならないか、ということです。

極端な言い方になりますが、

ヨットでしか無聊を癒せない人は、雨の日には憂鬱でしょうし、

対面して人と喋ることでしか休日を過ごせない人は、今回の疫病の流行で大きな精神的ダメージを負ったかもしれません。

人の身体的交流が途絶するだけで打撃を受けてしまう業種は、もちろん社会的には必要ですが、そうした業種にある限り、目下の疫病のようなリスクは不可避です。そして致命的なリスクというものは、概して管理のしようがないものです。

であれば、始めからリスクのない(ように見える)場を選んでみること、あるいは少なくともそうした場を持ってみることが、持続的な生活のためには必要ではないでしょうか。


「クライシスマネジメント」が或る種の対症療法を意味するとして、「リスクマネジメント」は回避できたはずの危機を予防することですが、このふたつの営みはいずれも、自分が携わる分野を選んだうえではじめて成立することです。

逆向きに言うなら、このふたつのマネジメントが失敗してもそう簡単には死なないようにリスクは分散しておくことができますし、

そもそも或る種の危機が予期されない・あるいはかなり管理が効きやすいところを選択しながら生きていく、という可能性もあるかもしれない、とは言えるように思われます。

私の活動の場の選択は、期せずして、少なくとも後者の条件を満たしているのでした、ということでした。

■【まとめ】
・金も、人間関係もほとんど要さず、雨が降ろうが槍が降ろうができることを楽しくできるのは、幸福である。なぜなら制約もリスクも小さいからである。

・あるフィールドにおける危機管理には限度があるからには、そもそも危機に見舞われようのない場を選び、また自らの生きる場を複数用意しておくことが、危機管理以前の方針としても有用であるように思われる。