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【306】あるヨギの幸福:ハマる「才能」から実践的なテクストの読み方へ

ヨガに関する情報は、ティーチャートレーニングなども履修済みで、解剖学なども積極的に勉強している友人を経由して得ているわけですが、その中で一つ、興味深い、ヨガをやらない方にとっても興味深いであろうと思われるものを発見しました。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


理学療法士でヨガやピラティスを実践している中村尚人さんと、アシュタンガヨガのインストラクターを長年されている高岡慎之助さんの対談です。

ヨガ(特にアシュタンガ)は「怪我してナンボ」とされがちなところ——「怪我して強くなるんだよ!」などと公言して憚らない人もいるそうです——、両氏は怪我しないように、解剖学からのアプローチを取り入れつつ、ヨガに取り組んでその成果をレッスンなどで公表されています。

結果として、伝統的アプローチから乖離する面はあるのですが、私は権威主義者ではありつつも、怪我する伝統の権威と、怪我を避ける解剖学という学問の権威であれば、後者のほうが依拠する甲斐のあるものだと思っていますので、日頃参考にしています。

対談はpart 4まで出ていますが、特にpart 2は(そしてpart 3と、part 4の後半も)、ヨガをやらない人でもかなり面白く聞けるところだと思います(part 1とpart 4は特にヨガをされている方にとっては面白いことでしょう)。part 2だけURLを貼っておきます。

https://stand.fm/episodes/6005588f8ba7e182e81d9542

音声を聞いていただければ一発で分かりますし、それが一番良いと思うのですが、この高岡さんは、18歳ぐらいから海外を転々としており、イスラエルに住んでいるときにヨガに出会い、急速にヨガにハマり、あっという間に夢中になったのだと言います。その後、ヨガの本場であるインドに勉強しに行ったり、イスラエルでヘブライ語や英語を使いながらヨガを教えたりといった経験を経て、現在は立川を中心にヨガを教えられています。

このフットワークの軽さと、入り込みの深さは、実に目を見張るべきものであるように思われます。

もちろん、フットワークが軽いということは軽薄さと表裏一体ですから、かえって足かせになることもあります。何事にも深く根を降ろさずにいるというのは、ただ浮わついているだけ、ということにもなりえます。ただ、足の軽さもここまでくると美徳でしょうし、美徳であるか否かは(周囲に迷惑をかけていないという前提で)結果に関する本人の認識に依存するのでしょう。

そのうえで、ヨガへのハマりかたがすごいです。イスラエルでは豆腐屋をやりつつ、日本でははじめ新聞配達をしつつ、ずっと練習・指導を続けていたというのは驚嘆に値します。みなさんは、年をとってからなにかを始めて、あっという間に何かに夢中になった経験をお持ちでしょうか。若い頃ならまだしも、年を食ってからということになると、そもそもなにか新たな営みを始めるということすら少ないのではないでしょうか。

誰しもヨガをやるべきだとか、誰しも海外を放浪すべきだというわけではありませんが、色々と見て回ったうえでストンとハマるものを見つけられれば、それは極めて幸福なことでしょう。あるいはストンとハマるなにかを見つけるには、色々と見てまわる必要があるとも言えるかもしれません。

金銭的な利益とか、物質的な豊かさなどといった、(はっきり言えば)それほで本質的ではないものよりも、そのようにストンと自分の腑に落ちてしまうものが見つかるということのほうが幸福であるように思われるというのは事実で、この観点からすると、ヨガ講師という職がどれくらい儲かるのかは知りませんが、少なくともこれくらいにハマれているのであれば、それは一個の幸福のありかたとして参照に値するようです。


実に「これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」と『論語』に言われているのは、単に発揮される能力・成果のレヴェルの話ですが、テクストから離れて勝手に理解するなら、営みから得られる幸福もまた、「知る者」よりは「好む者」、「好む者」よりは「楽しむ者」のほうが大きいのでしょう。

そして、「好む」ことのできる、「楽しむ」ことのできる対象を見つけるためには、それ以前のフットワークの軽さが前提になる、ということです。天職や好きなものをサッと見つけられるのは、それはそれで運命的な好運ですが、果たして初手から好運に恵まれることは少ないのですから、見つけられていないのならば少なくともフットワークを軽く持っておくほうがよさそうだ、と言えるでしょう。

ここまでで一段落つけます。


……こうしたリーズニングを前にして、あるいは高岡さんの言葉などを聞いていて、兆してくるような思いには見当がつきます。

それはたとえば、「(私には家族、職、……があるから)こんなに向こう見ずにはなれない」とか、「こんなに一つのことに夢中になることはできない(なったこともない)」とか、「この人はたまたま自分が夢中になれる対象を見つけられたけれども、自分がフットワーク軽くやってみたところで、そうした対象を見つけられるかどうかはわからない(だから行動をするのに二の足を踏む)」とかいう発想です。

実に、「やる才能」の前に、「好きになる才能」のほうに疑いを差し挟むというなりゆきです。

軽薄に反応することを我が身に許すのであれば、そうした疑いはよくわかりますし、また「誰であれ夢中になれる対象を見つけられる」と主張するのはあまりにも軽率でしょう。

そんなことは、確実に言うことができるものではありません。人間は皆同じように人間であるとは言っても、個人は皆別々の人間なので、同じことをやれば同じようになれる、ということはありません。概ね上手くいくことがその人には上手くいかないということは多いものです。必ずみんながみんな夢中になれる何かを見つけられる、と言い切ることは、嘘つきか扇動者でもなければできません。

とはいえ何かに夢中になったり何かにハマったりしたほうが精神的には豊かであろうというのも事実でしょうし——何故なら少なくとも生活に秩序が出るからです——、この点についてはあまりに反対の声は多くないのではないでしょうか。

であれば、ハマるための方策を大真面目に考えるのは、重要な前提になるのかもしれません。


その際に障害になりうるのが、「才能」の概念です。「才能」なる語は、人を称賛する場合を除けば、諦めを正当化する場合にこそ用いられがちです。

が、この概念がそもそもつねに事後的な概念であってほとんど役に立たない、ということは確認しておいてよいでしょう。

「あることを実行する能力(才能)があって未だやっていない」ということは、当のことを(部分的に、であっても)実際に成した事実の側から推定するほかない、必然的に事後的なものです。中世哲学でも、能力(potentia)は行為(actus)から語られる、という原則があります(そして行為は広義の対象(obiectum)から語られます)。

同様に、何かを好きになって楽しむ才能があるか否かは、究極的には私たちが自らの感情について納得しながら展開する(内心のものであれ、外的なものであれ)表現から判断するほかない、事後的なことがらです。

トランペットに出会わなければ、ナカリャコフのトランペット奏者としての才能は永遠に隠されたままだったはずです。スケート靴を履かなければ、プルシェンコの才能など明らかにならなかったはずです。小さい頃からピアノに触ったことがない人については、ピアニストとしての才能があるかないかを議論することは無意味です。一度は触れている・実践へと踏み切っているからこそ才能の有無がわかるのです。

発揮されてなんからのかたちをとらなければ、「才能があった」などと語られることはないわけで、何事もなさず、あるいは十分なトライすらしないうちに「才能がない」というのは論理的に誤っている、という成り行きです。あるひとつの領域についてであれば、やってみて上手くいかないということはあるかもしれず、そこから「才能がない」ことを証明することは一応不可能ではないかもしれません(あまり意味はないと思います)。しかし、「何かを好きになる才能」という仕方で、対象のほうを無限定なままに放置しておけば、「才能が無い」ことはもはや証明不可能ですし、才能の不在を推定することもできなくなるでしょう。

であれば、「やる才能」がないだろうと思って取り組まないことにもまして、「好きになる才能」がないかもと思って何もやらずにいるのは、少なくとも論理的でない態度と言えるでしょう。


とはいえ必要なのは、論理的な説得のプロセスばかりではなく、「私にもできるかもしれない」という感情のほうでしょう。

やれるかもと思うためには様々な手段があると思われますが、その一つはとりもなおさず、自分と違うけれども何らかの良さを持つ人が目に入ったときに、自分と違う面を見つめて強調しつづけるのではなく、寧ろ自分と同じ面がないかと探してみるということであると考えられます。この場面で言えば、ハマれている人をみたときに、その(事後的に語られる)才能に着目するのではなくて、自分との共通点にこそ着目するということです。

私はもちろん、高岡さんの生き方に全面的に憧れを抱くというわけにはいきませんが、少なくともある点においては——フットワーク軽く動いて自分の生きるところを見つけているという点においては——すごいなと思うわけです(ヨガが上手いということはこの際脇に置きます)。であれば、共通点のほうをこそ見てみる。たとえば私も二十代半ばからずっと、(外から見れば)プラプラしているなと思ってみる、という次第です。

何らかの対象を自らの実践に活かそうと思うのであれば、おそらくは性急に自分の文脈に引きつけて活かすことのできる点を探すのがよい、と言い換えても良いでしょう。

もちろん、純粋に正しい理解が必要となるような場面でこの作業をやるのは悪手ですし、よくありません。つまり、哲学のテクストなどを読むときに、テクストに勝手に普遍性を背負わせて、現代の問題や自分自身の経験へと引きつけて考えるのは、第一歩としてはあまり良い態度ではありません。

しかし少なくとも、実践的な範囲において物を読む、あるいは情報を摂取する際には、「この人は私とは違う、別のところで成立したものである(から私の役には立たないだろう)」という態度で突き放して物事を見るよりは、まず「この成功事例(うまくいっている人)は自分とどのような共通要素を持つのか」ということから考えを始めてみるのも良いのではないでしょうか。

実に、比較の作業は違いを見る作業だと思われがちですが、共通の地平がなければ適切に違いを浮き立たせることもできないのです。例えば、私と瓦葺きの屋根を比較することはできませんし、私の家の鎧戸と今手元にあるつげの櫛を比較することはできません。私たちが比較するのは何らかの共通要素を持ったもの同士であり、その共通要素の範囲を多くとれていればこそ、相違点は効果的なかたちで明らかになるのです。

以上、自らの実践に生きるようなテクストを、自らの実践に活かす目的で読みたいのであれば、とりもなおさず良い事例と自らの共通点を探すことから始まるのではないかしら、ということでした。
 
■【まとめ】
・フットワーク軽く動いて、ハマれるものを見つけ出す(そしてハマる)ということは、ひとつの幸福の類型でありうると考えられる。

・ハマれるものなど見つかりようがない、自分は何かにハマれない、あるいはそうする才能がない、なので動かない、という発想は、信念のレヴェルではともかく、少なくとも論理的には正しくない(ので、さしあたってやってみたほうがよい)。

・この点に限って言えば、実際にハマっている人をみたときに、その人と自分との差異に着目してやらない理由にしてしまうよりも、共通点を探すほうが「やれるかも」と思いやすく、ゆくゆくは幸福に結びつきやすいことは明白である。

・抽象化するなら、広義のテクストから実践的な内容を引き出すにあたっては、上手く行っている例と自分(の状況)との間の共通点探しが最初に置かれることになるのだし、そうするよう訓練する必要がある。そのうえでこそ、差異を適切に明らかにすることもできるだろう。

■【後記】
この対談、先程もみた通りpart 4まで出ていますが、part 4は面白いので、また言及するかもしれません。

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