『奥の細道』の真の作者は誰なのか~その目的とは

GTOこと後藤正成さんのブログで面白そうな記事を見つけました。

松尾芭蕉が著したことで有名な「奥の細道」についての謎解きの記事のように思いました。

早く結果が知りたかったので、失礼ながらつまみ食い的な読み方で流し読みしましたが、後でゆっくり読みたいと思いnoteにしました。

目に留まったワードなどを追記でメモ書きしていきたいと思います。メモ書きというよりは一部引用させていただきます。後藤正成さま、よろしくお願いいたします。


GTOこと後藤正成さまの記事です。


「奥の細道」謎解き紀行 最終回

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12838349142.html

一部引用させていただきます。

童謡『とおりゃんせ(通りゃんせ)』は、恨みの中で亡くなった道真の怨霊封じの唄ではなく、「天界へと続く細い道=カッバーラの奥義を理解できぬ者は通さない」と「八咫烏」が告げている唄であった。そう、奥(義)にたどり着く道は細くて長いのだと理解せよと烏が鳴いているのである。



 実際、江戸時代までは、中途半端な知識で奥義を知ろうとした者には容赦なく、八咫烏は目を潰す、耳を切り落とす、口が聞けぬようにする、ということをやっていたらしい。これが八咫烏の「見ざる言わざる聞かざる」の鉄則である。

筆者の知り合いの霊能力者の女性は、前世が八咫烏の遣いの女忍者だったが、口外してはならぬ秘密を口外しようとして、口を裂かれた記憶を鮮明に持っている。まぁ前世の話だから実際に起きたことなのかどうかは分からないが、今世においても、この方の先には八咫烏がつながっている。どうもそちらの世界のお役目を持つ方々は、普通以上に因果は巡るらしい。



 さすがに現代では、「見ざる言わざる聞かざる」によって相手を傷つけることはなくなったが、中途半端な都市伝説好きな輩は絶対に近づけないことは確かだ。というか、接近してくるのは、向こうが選んだ人間だけだからだ。

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12838349142.html


「奥の細道」謎解き紀行 その25

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12838306939.html

日本人が日本の最高神・天照大神へと回帰する道が、『奥の細道』の正体だった。水戸光圀(河合曾良)に同行したのは、表向きは「俳諧師」だったが、正体は秦氏系忍者だった松尾芭蕉である。「俳」の字には「さまよう( あてもなく歩きまわる)」、「ぶらつく」という意味があり、同意語は「徘」、つまり「徘徊」(はいかい)ということだ。全国を徘徊して、各地の情報を収集していたのである。

(中略)

「大貞八幡宮」(おおさだはちまんぐう)とも称される「薦神社」は、池そのものが御神体とされる三角池(御澄池)を内宮、社殿を外宮と仰あおぐ「八幡大菩薩」(八幡神)の所縁の地である。隼人征伐の際、戦地に赴いた八幡神の依代とされ、その後「に宇佐神宮」の三つの神殿における御神体とされた「薦枕」(こもまくら)の材料である「マコモ(真薦)」の茂る霊地である。そのことから宇佐神宮の「祖宮」(おやみや)とも称されている。



 つまり、元宇佐神宮であり、日本で最も多い「八幡神社」なる神の宮はここから始まったのである。その理由は、八幡神として崇められる「応神天皇」(=神武天皇)が、この「三角池」で「バプテスマ」を授けられ、原始キリスト教に改宗したからである。失われたイスラエル10支族の大王であった神武天皇はユダヤ教徒であったが、ここで秦氏の王にしてモーセの末裔のレビ族の大祭司「武内宿禰」(たけのうちのすくね)から「バプテスマ」を授けられたことで、絶対神ヤハウェから現人神イエス・キリストを奉じる原始キリスト教に改宗したことで、「新しい神に応じた」=「応神」とされた。

応神天皇は原始キリスト教徒となったこと、そして物部氏が支配していた畿内を制圧した後、朝鮮半島に残っていた秦氏を迎えに行った。それが、応神天皇の母とされる「神功皇后」として姿を変えて正史に残されている神功皇后による「三韓征伐」という話である。実際は朝鮮半島を攻めたのではなく、残りの秦氏を全て迎えに行った話なのである。しかし、西に戻ることで「陰=女性」の姿に変えてあるだけで、実態は応神天皇である。



 残る殖産系の秦氏を全て連れてきたことで、応神天皇は秦氏の大王とされた。この秦氏の土地だったのが「山城国」で、後の平安京である。土地もお金も人足も、全てを用意したのは秦氏であり、その意味で「平安京」とは「秦氏の都」ともいえる。実際、平安京の内裏を守っているのは、外陣が「上賀茂神社」で内陣が「下鴨神社」である。この2つの「下上賀茂神社」と「松尾大社」を合わせ、「秦氏三所明神」と呼ばれる。

(中略)

松尾芭蕉は、伊賀国阿拝郡柘植村の出であるが、伊賀は秦氏系の忍者である伊賀流の者たちが住んだ土地である。問題は「松尾」である。「松尾」という氏は、ここ松尾大社の社家から出てきたもので、古くから社家は秦氏が担ってきた。 つまり、松尾芭蕉の一族は秦氏であり、中でも「忍び」(志能備)の一族だったということである。だからこそ、俳諧もまた暗号なのである。

秦氏の諜報組織「志能備」の組織を作ったのは聖徳太子である。そして、一方の「八咫烏」を組織したのもまた聖徳太子である。その聖徳太子を「舎人」(とねり)として支えたとされているのが、秦氏の族長である「太秦」(うずまさ)の称号をもつ「秦河勝」である。もちろん「うずまさ」とは「光:ウズ」「まさ:メシア」というアラム語で、「光の救世主イエス・キリスト」のことである。

(中略)

『とおりゃんせ(通りゃんせ)』は不気味である。旋律も不気味だし、歌詞も怖い。筆者も子供心にあまり歌いたくないと感じたものだ。歌っていいのか悪いのか、何が怖いのか分からないがどこか恐ろしさを感じた。歌詞の「行きはよいよい 帰りはこわい」は、「被差別部落への一本道を意味している」とする説もあるため、東京では放送できるが大阪では放送できず排除される形となっている。これまた意味を理解できない人たちの妄説である。

(中略)

『とおりゃんせ(通りゃんせ)』は、恨みの中で亡くなった道真の怨霊封じの唄ではないかと解釈する人が多いが、それは違う。この歌の意味は、天神さま=天界へと続く道は細く、御用のないもの=カッバーラの奥義を理解できぬ者は先に進めさせぬぞと告げているのだ!告げているのは「八咫烏」である。そう、奥(義)にたどり着く道は細くて長いのである。だから「奥の細道」を理解せよと告げているのである。

「奥の細道」の文頭文には、「草の戸も 住み替はる代よぞ 雛の家」とあるが、これは預言である。とは「荊棘の冠をつけて十字架に掛けられた太陽神」=天照大神で、そのとは「天岩戸」のことである。それが開けば新しい世に代わる=君が代が樹立される、ということである。「至福千年王国」ということである。

「雛の家」の雛とは雛人形で、お雛様とは女神として伊勢神宮に祀られる天照大神が、男神として復活し、家=神の統治する千年王国が樹立するのだと伝えているのである。芭蕉と曾良は「奥の細道」に終末預言「ヨハネの黙示録」を秘したのである!

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12838306939.html


「奥の細道」謎解き紀行 その24

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12838142662.html

『奥の細道』の本当の終着点は伊勢神宮だった。タイトルの”奥の細道”とは「至福千年」へとつながる細い道で、そこに至るにはカッバーラの奥義たる「生命の樹」を昇らないとたどり着けないという意味が込められていたが、それは「神道=原始キリスト教」の奥義であり、神道の宗廟こそが伊勢神宮なのだという暗号だったのである。だからこそ松尾芭蕉と河合曾良(水戸光圀)は、伊勢遷宮の真っ只中に伊勢を訪れたのである。



 江戸時代、「一生に一度は伊勢参り」と言われるほど、庶民にとって「お伊勢参り」は憧れの旅だったが、それは現在も変わらない。

(中略)

江戸時代、お伊勢参りは「抜け参り」とも呼ばれ、奉公人が主人に無断でこっそり抜け出しても、「お伊勢参りなら仕方がない、お咎めなし!」とされていたため、膨大な人間が伊勢を訪れることで、急激な神道への回帰が始まり、それがやがて「明治維新」の原動力へと変わっていった。

(中略)

しかし、なんで江戸時代に急にお伊勢参りは流行ったのか。もちろんお咎めなしだったことが最も大きな要因だが、大金を持たなくても信心の旅ということで沿道の施しを受けることができた時期でもあったからだ。要は四国八十八ヶ所霊場巡りの「お遍路さん」と同じなのだ。現在は施しは受けられないが、大量の人が徒歩で移動することで、四国に結界を晴らせるのが「お遍路さん」だが、お伊勢参りの場合は、伊勢神宮に日本人の気を集める行為なのである。

 

 お蔭参りによって、地域と階層を超えて人々が集まり、伊勢参りという共通の体験を得たことが、近世幕藩体制を超え「日本人」や「日本」という民族意識・国家意識を醸成、それが明治維新へと繋がっていったのである。松尾芭蕉と河合曾良(水戸光圀)が記した『奥の細道』は紀行文であるが、ある意味の旅行ガイドブックであった。その最後の一文に伊勢のことが書かれていると、読者は伊勢に行きたくなるのである。日本人は伊勢にいかねばという心に火がつくのだ。

(中略)

5月12日、下鴨神社ならびに「御蔭神社」(みかげじんじゃ)ほか、一部の神社にて実施される。東山三十六峰、比叡山から数えて3番目の「御蔭山」にある「御蔭神社」から、神の荒御魂(新しい魂)を下鴨神社に迎え入れる神事が「御蔭祭」である。午前中、御蔭神社で神事が執り行われた後、行列は「賀茂波爾神社」(かもはにじんじゃ)のを経由、御蔭通を通って「河合神社」(かわいじんじゃ)に入る。その後、糺の森に出て、「せみの小川」の流れが聞こえる「切芝(きりしば)」と呼ばれる場所で神事が執り行われる。



 また同じく12日の深夜、秘儀である「御阿礼祭」(みあれまつり)が上賀茂神社にて催行される。下鴨神社の御蔭祭と同様、やはり神の新しい魂を迎え入れるための神事である。だが、御蔭祭と違って、こちらは非公開で一般の参列はできず、秘儀となっている。祭礼中は祝詞以外、神職同士でも一切口をきくことが許されず、文字通り粛々と執り行われるという。



 「蔭」とは「光」の意味である。「御蔭祭」と「御阿礼祭」は天照大神が天岩戸にお隠れになり、再び岩戸の中からお戻りになったという「天岩戸神話」を再現する唯一の神事である。天照大神=イエス・キリストが磔刑で亡くなり、3日目に復活したことを伝える神事であるがゆえ、「葵祭」に先んじた3日前に執り行われるのである。そう、「おかげ」とは「御蔭」であり、 「お蔭参り」とは「蔭=光の絶対神天照大神=イエス・キリスト」の聖地・伊勢(=イスラエル)に巡礼することを隠して伝える世界で只一つの祭りなのである!

そして、もう一つ。「御蔭祭」の行列は「河合神社」に行く。この河合神社には「八咫烏」が祀られている物部氏系の神社であり、京都における八咫烏の拠点である。忌部氏の中の忌部氏である「鴨族」の裏組織が八咫烏であるが、八咫烏はもともと原始キリスト教に改宗したユダヤ教徒レビ族の大祭司である。忌部氏に幼少期に育てられた水戸光圀が、なぜ「河合曾良」を名乗ったのか、その秘密はここにあったのだ。曾良とは「空」で、飛ぶ鳥=原始キリスト教の暗号だったのである!

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12838142662.html


「奥の細道」謎解き紀行 その23

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12838027355.html

 芭蕉に同行しているのは、天下の副将軍・水戸光圀である。現在も総理大臣など重要な人物は必ず伊勢神宮で正式参拝をする。たとえ芭蕉が僧侶に見えようが、天下の副将軍が参拝する際の同行者となれば、内玉垣南御門外までは入れるはずである。そして、この参拝は天照大神への「報告」である。『新約聖書』を手に入れました、と。そして、二人の旅は終わりを告げた、はずである。

実は、正式参拝にも表があれば裏もある。ご寄進の額が特別に高く、伊勢神宮への著しい寄与が認められる人物の中でも、特に”選ばれた人物”に限っては、表の正式参拝とは異なる内宮の地下殿の扉の前での参拝が許される。これを「内御蔭参拝」と呼ぶらしい。らしい、というのは、どこを調べても出てこないからである。



 そう、伊勢神宮の御神体の前での参拝が許されるのである。内宮の御神体とは「契約の聖櫃アーク」と「八咫鏡:十戒の石版」、そしてイエス・キリスト磔刑の「聖十字架」である。そして外宮の御神体は「モーセの十字架」と「八尺瓊勾玉:マナの壷」である。水戸光圀と松尾芭蕉が、両宮の地下殿に参拝したのかどうかは分からない。

だが、『新約聖書』を手に入れた上、光圀は南朝へと皇統を戻す『大日本史』の編纂を行っていた人物である。光圀がいなければ、明治維新は起きていないのである。そんな日本の最重要人物であり、日本の歴史の転換点となる大事業を行っていた人物が、地下の本当の宮に参拝しないはずがない。選ばれないはずがないのである。そして、一般人たちによる「伊勢神宮へのお参り」こそが、明治維新を起こす原動力にもなったのである。

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12838027355.html


「奥の細道」謎解き紀行 その22

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12837991539.html

◆ 「奥の細道」とは何を示しているのか

 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり」の”百代”とは、一代を20年とすると2000年になるとした。イエス・キリストが十字架の磔刑で亡くなったのは、西暦32年〜33年頃である。そのイエスの磔刑から2000年なら「ヨハネの黙示録」が示す「終末の日」としたが、それは「イエスの再臨」をも示している。

(中略)

イエスが再臨した後に訪れるのは「至福千年」である。この「至福千年王国」を地上に建設する役目を担っているのはフリーメーソンである。但し、英国を発祥とした近代フリーメーソンのことではない。世界最古のフリーメーソンは天皇陛下を長としていただくアダム直系のセムメーソンを受け継ぐ「ヤマトメーソン」のことで、「日本」はそれを国旗「日の丸」で示している。そして、この国が国号が「ヤマト」だったのも、「ヤ・ゥマト=ヤハウェの民=神の民」だからであり、その祖先がヤマト民族に残した預言こそが『聖書』である。



 「ヤマトメーソン」における絶対神の呪術組織は「八咫烏」である。つまり、「奥の細道」とは「至福千年」へとつながる細い道なのであり、そこに至るにはカッバーラの奥義たる「生命の樹を昇れ」と告げているのだ!「奥義への道」それが「奥の細道」の正体だったのである。

「至福千年王国」を建設するのにまず必要だったこと、それは日本を元の姿に戻すことである。元の姿とは、天皇家を正統なる南朝に戻すことだったのであり、それは明治維新によって成し遂げられたが、維新の志士たちが学んだのは「水戸学」であった。光圀は古事記、日本書紀以降の日本の歴史をまとめ、南朝の世に戻すために「大日本史」を編纂させたのだ。その数、本紀73巻、列伝170巻、志・表154巻、全397巻226冊である。



 「大日本史」が完成したのは1906年、明治である。だが、「大日本史」根幹は、光圀が決めた「南朝こそ正統なり」である。その真実を知り、志をもった志士たちとは、南朝に仕えていた者たちの末裔である。南朝の末裔を守っていた菊池家の出身が西郷隆盛だったことは決して無縁ではない。光圀のメッセージを受け取った者たちが、正統なる日本に戻すために動いたのが明治維新だったのである。

光圀を育てたのは、八咫烏と同族の「忌部氏」であった。光圀は「至福千年」のための呪術組織「八咫烏」が育てたといっても過言ではない。つまり、光圀が作り上げた「影の組織」とは、南朝に戻すためのネットワークだったのであり、その最終目標は「至福千年王国」の樹立なのである。キリスト教徒の根幹にあるのは、至福千年における復活である。それが記されているのが「ヨハネの黙示録」であり、江戸時代のキリシタンはカトリックばかりだったとはいえ、かれらもキリスト教徒であり、さらに「ヤ・ゥマト=ヤハウェの民=神の民」である。

「ヨハネの黙示録」第20章には、「千年間の支配」が記されている。

(中略)

ここまではいい。だが、問題なのは、「鳥居」である。この連載にあたって、「二見興玉神社」を調べたところ、筆者が訪れた時とは、鳥居が全く違うものに変わっていたのだ。「真っ白」なのである。なぜなのかは不明だが、これはメッセージである。なにせ、伊勢の遥拝所の鳥居は「金色」に変わっている。全国の肝となる神社の鳥居が変わり始めているのだ。

『奥の細道』の終着点である大垣その前の地・敦賀に、松尾芭蕉と河合曾良を迎えに来た人間がいる。俳人の「露通」(ろつう)という人物である。「八十村露通」(やそむらろつう)といい、露通・呂通とも表記されるのだが、この人物が謎なのである。二十代から乞食僧となり、のち、芭蕉に師事。奇行が多く、同門の反感を買ったり芭蕉に破門されたりしている。

(中略)

実は、路通の出自については、出生地についても、「美濃」から「大阪」、「京」、「筑紫」、「近江大津の人で三井寺に生まれる」と様々な説がある。『猿蓑逆志抄』において「濃州の産で八十村(やそむら、又ははそむら)氏」、また『俳道系譜』においても「路通、八十村氏、俗称與次衛門、美濃人、大阪に住む」と記されている。また、『芭蕉句選拾遺』において路通自ら「忌部伊紀子」と、『海音集』では「斎部老禿路通」と記しているのだ。そう、忌部氏なのである!

光圀を育てた忌部氏が、目的の「ヨハネの黙示録」を受け取りにきたのである。ここで旅は終わるはずの芭蕉と曾良は、再び旅に出た。遷宮が行われている伊勢神宮を目指して。そして「終」マークの代わりに「蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ」の句を詠んだのだ。「蛤(はまぐり)が蓋(ふた)と身に分けられるつらさ。私も同じ思いで皆と別れ、行く秋に別れを告げ、二見(伊勢の二見浦)に向かって旅立つ」の意味である。そう、旅の目的を完遂しましたよ、と二人は天照大神に報告にいったのである。

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12837991539.html


「奥の細道」謎解き紀行 その21

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12837779241.html

なぜ、「いろは」にこだわるのかといえば、筆者の前回の連載が「いろは歌」の謎解きだったこと。そして「歌」である。『奥の細道』の主人公の二人、松尾芭蕉も河合曾良も俳諧師で、俳諧とは、主に江戸時代に栄えた日本文学の形式、また、その作品のこと。誹諧とも表記する。正しくは俳諧の連歌あるいは俳諧連歌と呼び、正統の連歌から分岐して、遊戯性を高めた集団文芸であり、発句や連句といった形式の総称である。要は「歌」なのだ。そして日本の「歌」は暗号である。

(中略)

「鳥」とは原始キリスト教の象徴である。「超人的な技芸を持つ人」というのは、人間を超えた人としての存在、つまり「現人神」(あらひとがみ)、イエス・キリストのことである。「非」の時の意味には「違背する」とあるが、「違背」(いはい)とは、「規則・命令などにそむくこと。違反」という意味である。何に違反したのか、誰に背いたのかといえば、ユダヤ教を支配する「サンヘドリン」である。



 「サンヘドリン」はローマ帝国支配下のユダヤにおける最高裁判権を持った宗教的・政治的自治組織。最高評議会、最高法院などと訳され、構成員は71人で、おもに祭司とパリサイ派の律法学者などからなる組織である。イエス・キリストはエルサレムの最高権力者たちに逆らったのである。彼らの注意を無視して行動し続けた。イエスは彼らの権威を傷つけ、彼らの権力を恐れない存在であった。それは彼らの神だったからである。よって、彼らはイエスを捕えさせ、死刑にすることを決める。

(中略)

サンヘドリン全体,つまり大祭司と長老たち、律法学者たちが集合、「過ぎ越し」の晩に裁判を行うのは違法なことだったにもかかわらず、邪悪な目的を遂げようとする彼らは全く気にもせずイエスを殺すことにしたのである。

(中略)

「俳」の意味は一般的には「人に非ず」ということではないとしているが、そうではないのだ。「亻(にんべん)+非(あらず)」で「人にあらず」であり、「俳+人」で「人ではない人=現人神」の話を庶民に伝える役割を担う人となる。よって俳人とはイエスの話を庶民に分かりやすく、面白おかしく伝える人だからこそ「芸人」なのである。さらに、「俳」は「二人の俳優が演じている様子」である。イ(人間)+非(相対する二人)=俳(二人の俳優が演じる)で、意味は『俳優』『掛け合いの芸』『俳句』『右左に歩く人』で、俳諧(ハイカイ)、俳句(ハイク)である。

(中略)

俳諧とは『おどけ』『こっけい』味を持つ和歌・連歌のことで、この連歌の発句が独立したものを俳句(ハイク)という。俳に『演じる』『面白味』、諧に『調和』『たわむれる』の意味があるのはこのためで、さらに「能=和歌」「狂言=俳諧」となる。「和歌=能」に対しての狂言と同じことを「句」を連歌で確認し合う暗号なのである。『奥の細道』では、松尾芭蕉と河合曾良の2人が旅に出たことの意味は、「俳」が「二人の俳優が演じている様子」だからなのである。



 光圀は「曾良」という俳諧師に扮し、旅の俳句を残している。俳句とは季語及び五七五の17音を主とした定型詩。季節を表す「季語」を入れなければならない、切れ字(かな、けり等の変化を持たせたり、言い切る働きをする語)を用いなければならないルールがある。いったい誰がこのルールを作ったのか?それは和歌を作り上げた藤原氏一族であり、藤原氏とは平安京成立とともに闇に消えた「秦氏」である。平安時代から形成された和歌言語は南北朝時代の連歌式目の制定で完成された。一方で室町時代になると「応仁の乱」などの京都の混乱で優雅な貴族文化が衰退、俳諧連歌が盛んになった。

(中略)

俳句は歴史的には孤立した短詩として成立したわけではなく、俳諧の連歌の発句を基礎とし、それが独立して成立した。江戸時代には十七文字と呼称され、現代では十七音とも表記される。「五七五」とは「五七桐紋」のことで、中心に7つ、左右に5つの花を立てた桐紋の中で最も権威が高く、五三桐よりも格が高い天皇家の家紋である。



 更にユダヤ教神秘主義カッバーラの奥義である「生命の樹(命の木)」を表し、宇宙万物を解析する為の象徴図表である。生命の樹は10個のセフィラ(5+5)を上昇して天界(7)へと昇る。十七とは十字架に掛けられた神(聖数7)のことで、数秘術で17は、1+0+7=8(八)で絶対神ヤハウェ=イエス・キリストとなる。

俳諧がなぜ連歌の発句なのか。それは、神に捧げる言葉を繋げる行為なのであり、繋げることで意味をなす暗号でもあったのである。

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12837779241.html


「奥の細道」謎解き紀行 その20

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12837623657.html

『奥の細道』とは、日本の中でも特筆すべき重大な意義が込められていた紀行文で、未来へ伝達する黙示的メッセージとして作成されたものであり、それを作った目的は、冒頭部分にある「松嶋の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、草の戸も住替る代ぞ ひなの家 面八句を庵の柱に懸置。」にヒントが隠されていた。「松嶋の月をぜひ見たいと思った」というのが、旅をするに至った動機として記しているが、「松嶋の月」とは『新約聖書』の「ヨハネの黙示録」のことである。そして、そこにはもう一つの意味が隠されていた。



 「月」とはキリスト教においては「聖母マリア」の象徴だが、「月」とは「陰」であり、女性の象徴である。そう、「松嶋の月」とは、松島にいた「五郎八姫」の暗号だったのである。「五郎八姫」のもとに行き、『新約聖書』と「ヨハネの黙示録」の翻訳本を手に入れる旅だったのである。

(中略)

『曾良旅日記』は全て漢文調で書かれ、漢詩を理解していた光圀だからこそ書けたものといえ、俳諧師の松尾芭蕉には書けない表現の作品である。もちろん句とともに詳細な旅の行程が記されている。一方で、『奥の細道』は複雑に編集がなされ、後で起こったことが先に書かれていたりと、その作りはまるで『聖書』か「ヨハネの黙示録」といえるようなものである。読み解き方が分からない者には理解できない作りになっているのだ。逆に言えば、手に入れた「ヨハネの黙示録」が影響を及ぼしているのである。

(中略)

 『奥の細道』は一般的には紀行文だと思っている人が多いようだが、それは間違いである。芭蕉がみちのくへ旅したのは、元禄2(1689)年の春から秋のことである。その後、3年以上もの月日を費やして『奥の細道』を発表している。旅の経緯は、『曾良旅日記』に詳細に書かれており、ルートをはじめ、宿泊地や情景の描写、人の名前、天候など、事実とは異なることがいくつもあるのだ。これは意図的に編集がされているということだ。

(中略)

つまり『奥の細道』は実際に旅した順序どおりに書かれた紀行文ではなく、構成を練りに練ったある意味の文芸作品、すなわちフィクションなのである。が、そこには明確な意図が隠されていたのである。

そこには本当の編集者であった水戸光圀の意図が隠されている。その意図とは「暗号」である。後世になって真意がわかる「暗号書」なのである。なぜ、天下の副将軍と言われたほどの水戸光圀をもってしても「暗号」にしなければならなかったのか。それは、江戸時代のこの時期にはまだ尚早だったのである。光圀に司令を出した者の意図は、『奥の細道』を読んで真意を理解した者たちだけに分かる作りにしなければならなかったのである。



 『奥の細道』の本質というのは、「ヨハネの黙示録」を手に入れたという報告書であり、伊賀忍者・松尾芭蕉と忌部氏に育てられた水戸光圀に命じられた東日本調査記録なのだ。では、誰に対する報告だったのか?それは天照大神=イエス・キリストと八咫烏なのである。

八咫烏は絶対神からの厳命により日本を出られない。そして、命令が下りない限り、基本的に京都からも出られない存在である。八咫烏は神国日本を呪術と預言で覆う一族であり、イエスの12使徒を元にした組織である。基本はイスラエル人ユダヤ教徒だった「物部氏」で構成されるが、原始キリスト教徒「秦氏」もいる。筆者のこれまでの連載で書いてきたことから想像すれば、原始キリスト教徒「秦氏」は、既に『新約聖書』を持っていたとしてもおかしくはない。もちろん「ヨハネの黙示録」も同様である。それをわざわざ手に入れる必要などあったのだろうか、という疑問が浮かぶはずだ。



 だが、原始キリスト教徒「秦氏」が大和に渡来したのは3世紀である。

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12837623657.html


「奥の細道」謎解き紀行 その19

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12837478311.html

確固とした資料は残ってはいないが、「五郎八姫はキリシタンだったのではないか」と考えられている理由は、大きく3つある。

(中略)

五郎八姫はなぜ出家し、鬼子母神堂を建立したのか。その理由としては、キリシタンということを隠すためである。あくまで仏教に帰依したフリを装いつつ、実態はキリシタンだったということだ。出家して仏門に入ってもなお、その心の内にはキリスト教への熱い信仰が隠されていたかもしれない。が、それもまだ表の話である。



 「鬼」と「神社」の関りから言うと、「鬼」のように強い子を授けるのが「鬼子母神」であり、「鬼子母神堂」に参れば〝モーセのように強い子〟が授かることになるというのが本当の意味である。更に言うと「鬼」の始祖は「アダム」で、全人類の母「エバ(イヴ)」から生まれた子の代表が子孫のイエス・キリストで、それらを並べたら〝鬼子母神〟となり、大工のイエス・キリストが最大の〝鬼神ヤハウェ〟となる仕掛けが隠されているのである。



 モーセの鬼の血統は「正当南朝系」に受け継がれ、ラストエンペラーとなる最後の天皇徳仁陛下が幕末から明治に入れ替わった南朝系の直系で、約束された〝最後の穏(鬼)〟となるのである。話が突然飛んだように思えるかもしれないが、実はここはつながっている。『奥の細道』「ヨハネの黙示録」「南朝天皇家」というのは1本の線の上にあるのだ。なぜなら、五郎八姫は、1658年(万治元年)に出家し、「天麟院」(てんりんいん)の号を名乗り、その3年後の1661年(寛文元年)に67歳で亡くなった際には多くの人がその死を悼み、菩提寺として「天麟院」が建造された。



 問題は、五郎八姫の墓所がある「天麟院」は「松島」にあるのだ!河合曾良こと水戸光圀が、「松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす」という句を松島で詠んでいた意味は、ここにあったのである。

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12837478311.html


「奥の細道」謎解き紀行 その18

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12837348677.html

幕府から出された禁教令を最初は放置していた政宗も、徳川家光によって禁制が強化されると対応を迫られ、寿庵の名指しで逮捕令を出さざるを得なくなり、寿庵は南部に逃れたとされる。だが、筆者はこれを政宗が逃がしたと考える。



 政宗は寿庵を隠したのである。「逃れた」のではなく、政宗が「逃がした」のだ。そして支倉常長が持ち帰った「ヨハネの黙示録」を隠すために寿庵に預けたのである。なにせ寿庵は元和7年(1621年)、奥羽信徒17名の筆頭として署名、ローマ教皇パウロ5世の教書への返事を送っているのである。その意味では当時の日本でバチカンと唯一連絡を取ることができる人物だったのである!「ヨハネの黙示録」の存在を考える上で、この事実は大きな意味をもつ。

(中略)

◆「日月崇拝」と「眼の紋」 

 「大眼宗」の信者らは「眼の紋」の入った羽織を着用したという。これがどのような紋だったかは分からない。なにせ何も残されていないからだ。これが「蛇の目」というのなら、今も実際に使われているので意味も分かるのだが、単に「眼」なのだ。ここからは筆者の勝手な推測だが、「大眼宗」はキリスト教と同義であるとして弾圧されている。つまり、イエス・キリストの教えと根本が同じで、「眼」を象徴に使うならば、考えられるのは一つ。「フリーメーソン」である。

(中略)

「大眼」とは「大+眼(目)」である。「大」は「一+人」で「現人神=イエス・キリスト」を示す。その「目」という意味である。ならば、「大眼宗」とは、イエス・キリストをグランドマスターとするフリーメーソンということになる。だが、いつ、どうやって近代フリーメーソンが江戸時代の日本に来ていたのかは定かではないし、物証は何一つ残されていない。

(中略)

しかし、もし「洗礼者ヨハネ」という名の寿庵の正体が近代フリーメイソンではなく、本当のフリーメーソンだったら、なぜ、奥州の隠れキリシタンたちが、「月と太陽」が描かれているマリアとイエスの画を隠れて拝んでいたのも理解できる。なぜなら、「月と太陽」が本当に象徴するのは「日+月」で「明」、つまり「明けの明星」でイエス・キリストのシンボルだからである!

(中略)

しかし、「明けの明星」には2つの意味がある。イエス・キリストとサタン、堕天使ルシファーである。「ヨハネの黙示録」では、イエス・キリストが自らを指して「明けの明星」だと述べている。もし、寿庵が伊達政宗から渡された「ヨハネの黙示録」を読んでいたのなら、生き延びた先の奥州南部で新たな宗教としての「大眼宗」を始めたとしてもおかしくはない。



 寿庵は「ヨハネの黙示録」を隠し持っていたのだろうか。それとも生き延びた先で弾圧を受ける前に、誰かに「ヨハネの黙示録」を託したのだろうか。もし、そうなら、それは幕府の手が伸びない相手で、さらにキリシタンでないとまずかったはずである。そんな人物がいたのだろうか。考えられるのは一人だけ。それは伊達政宗正室・愛姫の間に生まれた娘「五郎八姫」(いろはひめ)である。五郎八姫はキリシタンだったのである!

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12837348677.html


「奥の細道」謎解き紀行 その17

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12837186972.html

伊達政宗はキリスト教への改宗の意を親書で示していた。政宗は既存の神社仏閣を手厚く保護し、キリスト教を信仰しようとしたとされる傍証は存在しないため、親書の内容は貿易のための方便であったか、スペイン語で書かれた内容を政宗自身が把握していなかった可能性もある。のちに政宗は幕府の方針に従ってキリスト教を弾圧したため、結果的に虚偽の内容の国際文書を発行したことになったのも事実である。



 だが、それは後世の話だ。

(中略)

常長らが日本を離れている間、キリシタンは徹底的な弾圧を受ける。政宗は常長らに帰国してはならないと命じたが、彼らはそれに逆らって帰国。捕らえられることになるが、彼らはそこまでして帰国しなければならない理由があった。それこそが「ヨハネの黙示録」を日本に持ち帰ることだったのである!

(中略)

◆伊達藩と『聖書』をつなぐ、もう一つの可能性

 実は、伊達藩に『聖書』をもたらせた可能性のある人物がもう一人いる。

(中略)

政宗は藩の者たちに寿庵の行方をあえて深く追わせなかったのではないだろうか。あるいはその後の消息は、ごく一部の人間は知っていたかもしれない。しかし、表向きには「一切不明」とした。そのようにして、寿庵を「もはや存在しない人」とすることが、寿庵に生きる道を残し、「ヨハネの黙示録」を隠すための方法だった。それこそが政宗の「内意」だったのである。

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12837186972.html


「奥の細道」謎解き紀行 その16

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12837011466.html

ルイス・ソテロは、本国スペインの国王や宰相に宛て、日本の現状に関する報告記した書簡を送っている。この記述がなんとも恐ろしい内容で、日本を征服するにはどうすべきかを提案している。それは、キリスト教の布教である。

 「スペイン国王陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難です。よって福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に悦んで臣事するよう仕向けるしかありません」


 当時のスペインは平然と奴隷売買をするための船に宣教師を乗せて、アジア各国へ送り込んでいたのである。「宣教」とは表向きの話で、要はスペインの宣教師というのは、カトリックを隠れ蓑にしたスパイなのである。さらにルイス・ソテロは日本語を自在に操ったとされ、家康をはじめ日本人との太いパイプを作った人物である。昔も今も日本語が上手い外国人に日本人は弱い。「日本通」とか「親日家」などと思ってしまうが、実際はその真逆な場合が多い。


 ルイス・ソテロは、伊達政宗についての報告もしている。

(中略)

◆伊達藩と「ヨハネの黙示録」 

 『奥の細道』の旅の重要な目的の一つは「ヨハネの黙示録」を手に入れることであった。だが、前提として、当時「ヨハネの黙示録」は“禁書”であった。さらに、その存在を知っていたのは、限られたキリシタンだったはずである。もちろん、キリシタンたちにとっても極めて重要な文書だったはずだ。よって、その原書は既に日本に持ち込まれ、その訳本も既に完成していたと推測できる。だが、それはいったいどこに隠されていたのか。考えられるのは、伊達藩である。



 伊達政宗はキリシタンを虐殺したのではないのか。だが、どこかの村の一人のキリシタンが保管していたというのは考えにくい。なにせ禁書の「ヨハネの黙示録」である。そして、伊達藩(仙台藩)には「松嶋」があり、それが「奥の細道」の冒頭の「松嶋の月先心にかゝりて」で、月はカトリックの象徴でもあり、“月の浦”をかけた言葉でもあるのだ。



 「月の浦」とは、伊達政宗の命を受けて、ヨーロッパに派遣されたキリシタン藩士・支倉常長(はせくらつねなが)が、通訳のソテロを伴い、1613年にサン・ファン・バウチスタ号で出航した港なのである。

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12837011466.html


「奥の細道」謎解き紀行 その15

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12836945535.html

水戸光圀が松尾芭蕉を連れ立って『奥の細道』の旅に出た理由は3つある、と故・川尻徹博士は指摘した。1つ目は諸国の現状視察である。2つ目は当時のキリスト教で禁書扱いだった「ヨハネの黙示録」を手に入れること。3つ目は諸国の隠れキリシタンを押さえると同時に、山伏や産鉄集団などの地下組織を支配下に置き、「影のネットワーク」を完成させることであった、と。

(中略)

『奥の細道』には不可解な点が多い。同行者であった河合曾良は、行く先々で大層なもてなしを受けている。表向きは芭蕉の弟子であるにもかかわらずだ。曾良は様々な料理を楽しんでいたことが『曾良日記』に記されており、なぜ、そのような金のかかる旅が可能だったのかは、もちろん曾良が水戸光圀だったからである。なにせ『曾良日記』に残された各地で食した料理というのが、まさに光圀の大好物ばかりだったのだ。

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12836945535.html


「奥の細道」謎解き紀行 その14

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12836802623.html

さて、日本にいつ「ヨハネの黙示録」がもたらせられたのだろうか。表には決して出さなかったが、それをもたらしたのは原始キリスト教徒「秦氏」である。「秦氏」は古神道=ユダヤ教であったこの国に「原始キリスト教」を持ち込み、それを「神道」としてこの国の根本に据えた。但し、それはあくまでも「神道」としてであって「(原始)キリスト教」ではない。



 秦氏は「失われたイスラエル十支族」の大王にしてユダヤ教徒であった初代天皇・神武天皇にバプテスマを授けた。絶対神ヤハウェを奉ずるユダヤ教徒から改宗して、新しい神イエス・キリストを皇祖神として受け入れたことで、その諱を「応神」とした。そして、応神天皇にバプテスマを授けたのは原始キリスト教徒「秦氏」の頭にして、レビ族の王であった「武内宿禰」(たけのうちのすくね)である。それを伝えているのが「五月人形」である。

(中略)

空海がもたらした「新約聖書」もまた、表には出されなかった。それはひっそりと伝えられただけである。では、松尾芭蕉と河合曾良こと水戸光圀は、どうやって、どこで「新約聖書」の「ヨハネの黙示録」を手に入れたのだろうか。

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12836802623.html


「奥の細道」謎解き紀行 その13

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12836617263.html

楠木正成公は後醍醐天皇の勅命を受け、鎌倉幕府の勢力や新たに武家の政権を立てようとする足利高氏と戦って正義と忠誠を示されました。しかし延元元年(1336)に、この湊川の地での足利軍との戦(湊川の戦い)で自刃されました。その後地元の人々によって、この地に葬られていた正成公の塚(お墓)は大切に守られてきましたが、江戸時代に入り、正成公を非常に崇敬された徳川光圀公によって立派なお墓が建立されました。
 このお墓の建立後は正成公を慕い、その精神を拠り所とするため、多くの人々が参詣し、特に幕末には吉田松陰や坂本龍馬など、志士達が訪れました。明治元年に明治天皇がこの地に神社創祀の御沙汰を下され、明治5年に創建されました。



 ここにもまた南朝の末裔であった明治天皇が創祀に関わっているのである。

光圀の尊敬の念は、水戸藩内に尊公ゆかりの地を数多く残した。その一つが茨城県鉾田市の「楠木神社」であり、「楠公の功績を祀ることで、水戸藩に忠義や正義といった心意気を養うため」と社記にある。神社の参拝者は、楠公だけでなく後醍醐天皇以下の南朝方の天皇とその忠臣たちも遙拝している。



 光圀→大日本史(水戸学)→南朝正統説→幕末維新→南朝復活=明治天皇。全ては一本の線で結ばれていたのである。そして、その裏にいたのは「八咫烏」である。 

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12836494941.html


「奥の細道」謎解き紀行 その12

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12836494941.html

水戸光圀の「大日本史」の編纂方針において最も重要だったのは、「南朝正統論」を唱えたことであるが、それは忌部氏(三木家)に育てられた光圀もまた、南朝こそ正統だということを知っていたのである。

(中略)

しかし光圀は、こう述べている。

(中略)

御三家の水戸藩主が「自分が全責任を追う」と言っているのである。そこまで言われたら史官たちも逆らうことはできない。さらに光圀が凄いのは、「北朝の持っていた三種の神器は、偽物だから北朝は正統では無い」と言い切ったのである。これを教えたのは幼少期の光圀を育てた三木家だったはずである。三木家=忌部氏は北朝成立して(第三代から)以降、江戸時代最後の孝明天皇まで天皇が皇位継承に際して行う宮中祭祀「大嘗祭」(だいじょうさい)に必須の麻織物「麁服」(あらたえ)を献上していない。つまり足利氏の血が入った北朝を天皇家として認めていなかったのである。


 南北朝正閏論に関わる難問に、水戸学は正面切って取り組んだが、光圀がとりわけ重んじたのは、南朝の忠臣・楠木正成についてであった。しかし、南北朝統一後、北朝の世が江戸時代まで続いているわけで、この問題を考察するための史料を集めるのは、大変な苦労を擁した。光圀が考察の決めてになると考えた楠木正成の墓さえ、当時は見つかっていなかったのである。

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12836494941.html


「奥の細道」謎解き紀行 その11

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12836369472.html

 鹿島神宮に残されている芭蕉の句碑に記されている「鹿島詣」の句をもう一度見てみよう。



 枯枝に 鴉(からす)のとまりけり 穐(あき)の暮



 ここにある「鴉」(からす)とは「烏」の暗号であるとしたが、ここには「八咫烏」が待ち受けていたということだ。さらに「穐」の字だが、この字の意味は「あき。とき。大切なとき。大事なとき。」である。つまり、枯れ枝には裏祭司氏族の頂点にいた「烏」がおり、その烏との会見は非常に大事な時だったのだ、と伝えている。

なぜ「烏」との会見が大事だったのか。その一つは『奥の細道』の旅に出よという司令である。そしてもう一つは原始キリスト教徒となった、という暗号である。祭祀氏族の象徴は”鳥”であり、その頂点にいるのが八咫烏のトップ3人で構成される「金鵄」である。天使に翼があるように、「鳥」は天界からのメッセンジャーの意味がある。



 ノアの箱舟からは「烏」と「鳩」が放たれ、鳩は戻ってきたが、烏は戻ってこなかった。野に放たれたのである。ここにこそ、なぜ光圀が自身の隠れ蓑の名前を「曾良=空」とした意味が込められており、光圀は「烏」との会見によって「鳥」となったのである。原始キリスト教徒としてのバプテスマを授けられたのである。それを示すのが鹿島神宮の「御手洗池」である。

「御手洗池」は下鴨神社にもある。前回、徳川光圀とは、表の武家社会における「裏天皇」の役割を担うため忌部=賀茂氏と八咫烏に選ばれた存在だったとした。そして、それこそが「天下の副将軍」と呼ばれた裏の意味で、秦氏系の忍者の里の伊賀出身の松尾芭蕉が光圀をサポートした理由だったのだと。



 光圀を養育した三木家において、光圀は忌部氏による神道の奥義を授けられた。そして、選ばれた存在となったのだ。だからこそ次男坊の光圀は水戸家の跡を継いだのである。「天下の副将軍」となるために。

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12836369472.html


「奥の細道」謎解き紀行 その10

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12836359547.html

光圀の父親は水戸藩主・徳川頼房(よりふさ)で、頼房は徳川家康の十一男として生まれた水戸徳川家の祖である。母は家臣・谷左馬之助の娘・お久である。頼房は生涯正室を持たなかったが、江戸と水戸に数人の側室がおり、11男5女をもうけ、光圀はその三男であった。

(中略)

光圀の回想によれば奥付の老女(侍女)の娘であった光圀の母は、後ろ盾がおらず徳川頼房の子である頼重と光圀を懐妊すると、頼房により堕胎を命じられたという。これに憤慨した水戸藩家老三木之次はあえて藩主の命に反して光圀を養育したというのだ。この時代、藩主の命に逆らうというのはただごとではない。だが、三木之次は敢えて藩主の命に逆らってまで光圀を育てたのである。



 実は、光圀が祀られている「常磐神社」の末社として、光圀を養育した三木之次夫妻を祭神とする「三木神社」がひっそり祀られている。1965年(昭和40年)に創建された神社である。水戸藩の礎を作った名君である義公こと光圀が生まれたことを思えば、まさに彼を養育した三木之次夫妻は水戸藩の救世主であったといえる。そんな三木神社は義公と烈公を祀った常磐神社の奥にひっそりと彼を見守るかのように建っているのだ。

問題は誰が光圀を祀る「常磐神社」を創建したかである。実は「明治天皇」なのである!光圀の神号は「高譲味道根命」(たかゆずるうましみちねのみこと)といい、さらにこの「常磐神社」にはもう一柱である水戸藩第九代藩主「徳川斉昭」(とくがわなりあき)も祀られている。神号は「押健男國之御楯命」(おしたけおくにのみたてのみこと)という。



 徳川斉昭は、諡(おくりな)を「烈公」(れっこう)といい、光圀以来の水戸の心を受け継いで、国史を貫く日本の道を明らかにし、「弘道館」(こうどうかん)という名の藩校を創設。また幕末の黒船来航に際しては幕府の海防参与という役職について難局の処理にあたった人物である。

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12836359547.html


「奥の細道」謎解き紀行 その9

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12836241152.html

 逆に考えれば、誰にも邪魔されず、スムーズに旅の目的を遂行するために、光圀は忍者の世界の「影武者」のテクニックを使ったのである。だからこそ光圀の随伴者は、伊賀出身で忍者の血筋の松尾芭蕉である必要があったのである。


 不思議なことに、天和二年(1682)に発生した駒込の大火で、深川の芭蕉庵が焼失すると、なぜか芭蕉は諏訪へ向かっている。諏訪は曾良の出身地である。おそらく、芭蕉は光圀に命じられ、諏訪に光圀の落とし胤(だね)として、成人しているはずの「曾良B」の調査に行ったのではないだろうか。

すると、曾良が江戸に下る前に、突然に長島藩を辞めて浪人となり、神道の勉強をしたり、歌の道に入ったりと自由に振る舞えた理由も分かるのだ。元禄当時は天下平定で戦いもなく、忍者も一般人も就職難の時代であり、こうした行動に出られたのは、強い後ろ盾があったからに他ならない。やがてこの曾良Bは、光圀の命により江戸の芭蕉庵を訪ね、貞享元年(1684)頃に、芭蕉の門下に加わったのだ、と考えると全ての辻褄が合う。



 さらに諏訪には物部氏の古社である「諏訪大社」がある。どうも鹿島といい、諏訪といい、曾良に関係するところには物部氏の影が見え隠れする。後述するが、実は、ここに深い意味が込められている。

(中略)

曾良の本名は河合惣五郎(かわいそうごろう)という。「イソウロウ(居候)」のような者だという暗号である。光圀は曾良になりすまし、実子を曾良Bに仕立て、旅に出られるよう影武者にしたのである。いかに光圀といえど勝手に諸国行脚はできなかったからだ。光圀は「天下の副将軍」と呼ばれる実力者であった。幕府の制度の正式な官位に「副将軍」という位はないが、徳川御三家の中でも、水戸だけは定府の特別扱いで、その権威は将軍さえ上回っていた。



 光圀が芭蕉を連れ立って「奥の細道」の旅に出た理由は3つあると川尻博士は考えた。

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12836241152.html


「奥の細道」謎解き紀行 その8

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12836061999.html

『奥の細道』の旅の本当の主役が水戸光圀公だった場合、出だしの文句である「月日は百代(ひゃくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆき)かふ年も 又旅人なり」は、一代20年で2000年となり、それを「イエスの磔刑から2000年」と解釈するなら、「ヨハネの黙示録」が示すような終末の日の「預言」が隠されているのではないのかと書いたが、それを解き明かすには、もう一つの冒頭部分を読み解く必要がある。

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12836061999.html


「奥の細道」謎解き紀行 その7

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12835921176.html

 『奥の細道』を「オクの細道」と考えると、“オク”は数の単位の「億」で、十の八乗という数字になり、八はヤ、十はソと読むことで、「ヤソ=耶蘇」となり、それは当時のイエス・キリストの呼び名で、「奥の細道」とは「イエス・キリストの細道」ということになる。もし「奥の細道」が、芭蕉の書いた原文を元に「ヨハネの黙示録」の内容を盛り込むための操作が加えられたのならば、「奥の細道」とは日本版の「ヨハネの黙示録」となる、とした。

 こう考えた場合、原作者は松尾芭蕉となるが、問題は誰が編集者であり、実質の『奥の細道』の作者なのかということである。

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12835921176.html


「奥の細道」謎解き紀行 その6

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12835757069.html

「奥の細道」の旅における重大な使命の一つとは、「隠れキリシタン」たちが保管していた「ヨハネの黙示録」の訳本を探し出し、入手することだったと故・川尻徹博士は読み解いた。なぜなら、当時「ヨハネの黙示録」は禁書扱いで、隠れキリシタンしか持っていなかったからである、と。

(中略)

厳しい禁教のなか、日本に密入国した10人の宣教師が捕らわれ、1644年には最後の宣教師・小西マンショが殉教。宣教師と日本人との交流による宣教は途絶えたが、潜伏したキリシタンのひそかな信仰によってキリスト教の灯し火は消えることなかった。

表向き日本にはキリスト教徒はいなくなった。だが、彼らは生き延びて全国各地で密かに信仰を続けた。実は芭蕉が名付けた『奥の細道』というタイトルには、意味が込められている。なぜ芭蕉は「オクの細道」というタイトルをつけたのか?



 “オク”を数の単位の「億」と解釈した場合、十の八乗という数字になる。八はヤと読み、十はソと読む。「ヤソ」とは「耶蘇」であり当時のイエス・キリストの呼び名である。当時のキリスト教のことを「耶蘇教」と呼んだのはこのためである。つまり、「奥の細道」とは「イエス・キリストの細道」ということになる!



 「奥の細道」の旅は元禄二年、1689年のことだが、実際に執筆されたのは、4年後の元禄六年、1693年である。なぜ4年もかかったのかといえば、芭蕉の書いた原文に色々と手を入れ「ヨハネの黙示録」の内容を盛り込むための操作が加えられたからに他ならない。そうした隠されたメッセージとしての性質を持たせて完成させたのが、「奥の細道」なのである。つまり、「奥の細道」とは日本版の「ヨハネの黙示録」だったのである。

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12835757069.html


「奥の細道」謎解き紀行 その5

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12835627499.html


https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12835452771.html

秦野河勝、聖徳大使、八咫烏について詳しく記述されていた箇所を引用させていただきます。

◆「裏天皇」聖徳太子と呪術組織「しのび」

大伴細人の伝説によれば、あるとき細人は不思議な老人から忍術に関する巻物を与えられ、その教えを受ける。聖徳太子は大伴細人に物部氏の調査を頼み、さらに物部守屋を甲賀の地におびき出させる。守屋の討伐に成功した太子は細人の働きを評価、「良き情報の入手を志す者」という意味の「志能便(備)」の名称を与えたとする。

太子は志能便に朝廷内の不穏な動きや政敵の動向を調査させ、敵の情報を把握したとされる。なぜなら太子は女帝・推古天皇の摂政であり、実態は日本初の「裏天皇」だったからである。太子は細人を使って国内状況や民衆感情を把握、政治や訴訟判断の参考にしたとする。中国や朝鮮では早くから兵法書『孫子』において、情報入手が忍術の重要任務であると記述されていた。『日本書紀』では、百済(くだら)から「遁甲術」(とんこう)と呼ばれる忍術の一種が伝えられたとあり、新羅(しらぎ)の間諜(うかみ)と呼ばれるスパイを対馬で捕えたことも記録されている。


 聖徳太子は、太子の舎人(とねり)を務めた秦河勝(はたのかわかつ)と服部氏の一族も志能便に登用していたともされる。この服部氏とは秦氏の一族であり、この一族から有名な忍者の服部半蔵が出ている。秦氏は大陸から渡来した殖産豪族で、土木工事や機織物を手がけたことで有名だが、各地の祭礼などで芸能の披露や露店の出店といった商業活動にも従事していた。この秦氏の族長だったのが秦河勝で、太子のブレーンでもあったといわれている。

秦河勝は秦氏の族長である「太秦」(うずまさ)であり、秦氏は山背国(現在の京都市)の太秦を根拠地とした一族である。秦河勝は聖徳太子に強く影響を与えた人物とされ、『上宮聖徳法王帝説』では「川勝秦公」と書かれる。筆者のこれまでの連載でも書いてきたが、秦河勝とは聖徳太子その人でもある。



 秦氏の一族である「服部氏」は伊賀地方(三重県)に住み、伊賀や伊勢の神社に仕えたとされる。聖徳太子は伊賀や伊勢の情報を服部氏に集めさせ、服部氏はのちの伊賀忍者の祖にまでなったという。もしこれが事実であれば、太子は甲賀忍者と伊賀忍者の両方の祖を作ったことになる。さらに古代から日本を裏側から呪術で支配してきたとされる裏陰陽道の秘密組織「八咫烏」を作ったのも聖徳太子と言われている。

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12835452771.html


「奥の細道」謎解き紀行 その3

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12835369134.html


「奥の細道」謎解き紀行 その2

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12835320788.html


「奥の細道」謎解き紀行 その1

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12835225434.html

一部引用させていただきます。

川尻博士のユニークな視点は、ノストラダムスの予言を信じるのみでなく、それが的中しているように見えるのは世界史を裏で操る「影の組織」が予言通りに行動しているからだ、とする独自の解釈を展開したこと。そして、その組織は神道に関わっているところまで見通していた点だ。川尻博士はその存在は知らなかったようだが、この「影の組織」とは「八咫烏」のことである。そして、世界の裏側を操っていた闇の組織はフリーメーソンになりすましたイルミナティである。



 この時代、まだ飛鳥昭雄氏が「八咫烏」の存在を表には出していない。よって、川尻博士はうっすらとその存在には気付いていたが、「八咫烏」やロスチャイルドに乗っ取られた「後期イルミナティ」の核心には迫れなかった。だからこそトンデモ本にされてしまったのであるが、博士はノストラダムスの予言以外に、『奥の細道』や歌川広重の『東海道五十三次』にも予言のメッセージがこめられているとした「解読」を行っており、『奥の細道』については『芭蕉隠れキリシタンの暗号』(徳間書店)として発表されている。

https://ameblo.jp/nijiokun/entry-12835225434.html


noteで「奥の細道」検索

noteで「奥の細道」検索してみました。
素敵な記事をたくさん見つけることができました。
自分の記事に保存させていただき、ゆっくり拝読していきたいと思います。

https://note.com/search?q=奥の細道&context=note&mode=search

こちら(↑)から記事タイトルなどで独自の判断によりピックアップさせていただきます。

「あらかわの風景~お江戸最初の橋が架かる・千住大橋」

https://note.com/mueprj/n/n45f29ac14949


謎石考察 #02『滋賀・石山寺』

https://note.com/verite1816/n/n3b337446a056


#347 松尾芭蕉は忍者だった?

https://note.com/shakaikakoneta/n/nc4e9eca431a3


達谷巌毘沙門堂

https://note.com/shinonome55asahi/n/n1dd4dba5b373


『かごめかごめ』の考察

https://note.com/ghirga_tae/n/nf1e8d6494f53


文章の読みやすさの底にある根源的なるもの

https://note.com/eikichichizuya/n/ne1df878820f8


なぜ木曽義仲の墓の隣に松尾芭蕉の墓があるの?


【アジア横断&中東縦断の旅 2004】 第24話(最終話) エジプト

https://note.com/mata1976/n/ne12af8687082


九尾が風に靡くとき

https://note.com/kabocya_batake82/n/nb1238c7e5674


文化について

https://note.com/nishio_knot785/n/n637c2e4d612d


「オクノホソミチ」

https://note.com/marry015/n/neb707aa09a71


松尾芭蕉「おくのほそ道」ドナルドキーン英訳

https://note.com/club_orfeo/n/n91afd5ecbd4d


#3 平泉への旅-「芭蕉翁の"みちのく"行脚」を辿る!-

https://note.com/nice_rekitan/n/n32d9214a00aa


丸谷才一『輝く日の宮』

https://note.com/siwasawa/n/nfdb869701df3


夢は枯野を駆け巡る

https://note.com/gifted_eagle983/n/naf73d064868b


古池に蛙は飛びこまない【読書メモ】

https://note.com/akki_kji/n/n1d60936a8dcc


「光る君へ」緊急便乗企画 光源氏のお墓へ行ってみた

https://note.com/perepichi/n/n6fdaddb09368


【中尊寺金色堂×STEAM】菩薩の役割、仏教における神々とは?

https://note.com/koedo_project/n/n0aa04911ca60


えんぴつで奥の細道

https://note.com/h50061422/n/n888fc097ff87


冬の夜の芭蕉【その2】。『雪丸げ(ゆきまるげ)』現代語訳

https://note.com/mo_okazaki/n/n7260aec26111


400字で分かる落語:「荒海や」

https://note.com/kanohsey/n/n608c6e908642


松本清張『松本清張推理評論集: 1957-1988』を読んで

https://note.com/yamaga_fu/n/nbea4333eb630


岩手に行きたい 〜おくのほそ道・夏草やつはものどもが夢の跡〜

https://note.com/hove_maru/n/n30a79725d5a5


始まりの地、沖縄で来たるべき世界を見つめる3選

https://note.com/eikichichizuya/n/nfc64fdb920a0


松尾芭蕉も敦賀を旅しました。敦賀滞在についての芭蕉の文・現代語訳

https://note.com/mo_okazaki/n/n9a2ef377c6fa


俳句のいさらゐ ✿◎✿ 松尾芭蕉『奥の細道』その十一。時間の奥行きを詠む

https://note.com/postcard/n/n74825003e16c


読書日記/私は図書館派〜奥の細道に迷い込む〜

https://note.com/shima_shima736/n/ne826dccb03fa


追記です。

「徳川」検索

GTOこと後藤正成さまの「奥の細道」の謎解きの記事で「徳川」も出てきました。

最近閲覧するようになった高校生のブログ様の記事で「徳川」でヒットする記事が複数ありました。ここでその一部である記事をご紹介させていただきます。


https://blog.goo.ne.jp/j4goocast/e/4d490f44eba1f0586f494618494700ea

一部引用させていただきます。

<死のカルト>

明治維新はフランス革命方式です

タレイラン(外相)がダントンとマラーを英国で訓練してフランスに呼び戻したことです◀︎同じです

もちろん資金と戦術(英国からもです)をその都度与えました(白人研究者)◀︎ロスチャイルドが指揮していたことが分かってます

英国スパイの徳川慶喜(ロスチャイルド李家と私は判断しています)あたりじゃ〜ないですかね

田布施の川のそばでお生まれになり育った秦郁彦率(ひき)いる東大史学の連中はい〜加減な話しを歴史だとして本当にあったように書いてますからね 我々も騙されるわけだわさっ‼️

マトリックス(幻想)なんですね キリスト教のね

なお、私は秦郁彦の後継者が林千勝であると断定しています

https://blog.goo.ne.jp/j4goocast/e/4d490f44eba1f0586f494618494700ea

神功皇后について

GTOこと後藤正成さんの記事では神功皇后について、
『「陰=女性」の姿に変えてあるだけで、実態は応神天皇である』と書かれていましたが、

日本の黒い霧さんの記事では、
『神功皇后は14代天皇の仲哀天皇の皇后でした。』と書かれていました。

この違いは何なのでしょう?と思いました。見識の違いなのか、それともどちらかが間違っているか何かなのでしょうか? 私には判断できません。

次の記事は日本の黒い霧さんの記事です。

https://daiwaryu1121.com/post-55504/

https://daiwaryu1121.com/post-55504/より拝借


八咫烏について

GTOこと後藤正成さんの記事では八咫烏についての記述が多くされている印象でした。秦氏についても多くの記述がありました。そのため、秦氏と密接に結びついていると思われる八咫烏についても、多く記述がされることとなったのだろうと想像します。

その八咫烏ですが、GTOこと後藤正成さんの記事においても、八咫烏の残虐性を思わせる記述がされていました。それをここに再掲させていただきます。

『実際、江戸時代までは、中途半端な知識で奥義を知ろうとした者には容赦なく、八咫烏は目を潰す、耳を切り落とす、口が聞けぬようにする、ということをやっていたらしい。これが八咫烏の「見ざる言わざる聞かざる」の鉄則である。』

八咫烏というのは、ある目的のためであれば、極悪非道で残虐なことも、何の躊躇もなくやってのけるのですね。それは犯罪と呼ばれている悪事です。子どもでもわかることです。許されることではないはずです。悪魔の所業です。それをそうと思わない人が一般人(?)の中にいるということも恐ろしいことだと思いました。

八咫烏は目を潰す、耳を切り落とす、口が聞けぬようにする、ということをやっていたらしい」でふと思い出されてきたのは、あの事件です。

神戸連続児童殺傷事件です。この事件について私は記事を書き現在公開中ですが、その記事にも「八咫烏」について記述している箇所があります。それを今思い出しました。真犯人は一体誰(物語の構想を練った主犯格は誰?)だったのでしょうか? 疑問を多く感じさせる事件です。

GTOこと後藤正成さんの記事では、八咫烏は京都から出られないという記述があったようにも記憶しています。その記事に書かれている通りであるとするなら、八咫烏はその行動半径が限られるということですね。ですから八咫烏が何か事を起こしたいと思っても、その地で実行できなければ、傘下の僕たちに依頼するであろうことは容易に想像できます。となると、まさか神戸連続児童殺傷事件というのも実は……?

神戸連続児童殺傷事件では、事件後も断続的に元少年Aに関して色々な出版社が色々な情報を出していました。騙しの画像を出してくるほど、この事件の真相に気が付かれないように汚い工作をしていたと私は見ています。

GTOこと後藤正成さんの記事に書かれていた『奥の細道』では、素性を隠し、俳諧を利用して読み物に暗号を忍ばせて、一般大衆には気が付かれないまま、ひそかに目的を達成していったようなことが書かれていたと私は解釈しておりますが、神戸連続児童殺傷事件もこれと全く同じ構図ではないかと思っています。今も昔も、メディアというのは国民を騙していくものなのですね。そして、今も昔も一般大衆というのは思考停止している馬と鹿ばかりで、メディアが出してくる情報を鵜呑みにし、捏造目的、真相攪乱目的で出版された関連本で感動すら覚え、騙されていることに気が付けないというマトリックスの住人がどれ程多いことでしょうか。神戸連続児童殺傷事件は、一般大衆をまんまと騙し込んだ『大劇場型凶悪殺人事件』であったと私は見ています。

『奥の細道』での俳諧の役目は今は主には芸能人、低俗週刊誌、テレビやラジオなどの洗脳番組、YouTube動画などでの工作員による動画配信、高度な工作によるネット記事が担っているのでしょうか。ありとあらゆるメディアが該当しそうです。

八咫烏の傘下にいる組織などについても書かれた記事がありましたので、ここでも改めてご紹介させていただきます。

https://daiwaryu1121.com/post-86083/

引用させていただきます。

皇室をバックアップする「八咫烏」という組織があります。

皇統護持の役割を持つ日本最古の秘密結社が「八咫烏」です。

八咫烏の中核組織に五龍会があり、そのうちの黄龍会の会長が創価学会の前身の大日本皇道立教会の会長で光格天皇の孫の中山忠英さんでした。


大日本皇道立教会のメンバーに創価学会創設者の牧口常三郎さん、戸田城聖さん、児玉誉士夫さん、頭山満さん、中華民国最高顧問の中村天風さんなどがいました。


創価学会や統一教会、幸福の科学、立正佼成会、霊友会、日本基督教団、真言宗、日蓮宗、曹洞宗、神道、同和、暴力団、朝鮮総連、民団、日本会議などは八咫烏の傘下にあります。

https://daiwaryu1121.com/post-86083/


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