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古池に蛙は飛びこまない【読書メモ】

長谷川櫂氏の著書『古池に蛙は飛びこんだか』を読んだ。

夏井いつき先生のバラエティ番組のファンでなくとも、松尾芭蕉の名前は、日本人なら一度は耳にしたことがあるはずだ。その著書『奥の細道』は、優れた紀行文の一つとして、序文や「平泉」の章が現行の国語教科書に掲載されている。

松尾芭蕉の名句「古池や蛙飛びこむ水のおと」を中心的な題材として取り上げた本書では、なぜその句が名句と称えられるのか、また、その句の誕生によって文字通り「開眼」した俳聖・芭蕉の奥義とはいかなるものか、丁寧に解説がなされている。

いわく、「古池に」ではなく、「古池や」であるところが、この句のキモである。「古池に蛙が飛びこんだ」というだけなら、それは目の前で起こった出来事を五・七・五で表しただけの、凡庸な句に過ぎない。「や」という切字によって区切られているのは、現実の世界と芭蕉の心の中に広がった「もう一つの世界」である。

蛙が水に飛びこむ音を聴いて、芭蕉の心の中に「古池」が想起された。一つの現実を手がかりとして生まれでた心の世界の情景を芭蕉は詠んだ。

それにしても、「古池」という日本語の持つ語感、その言葉の持つイメージに、私たちはなんとも名状しがたい趣深さを感じる。芭蕉のそのワードチョイスそのものからみた、言語感覚の鋭さという点は、本書では触れられていないが、その点に俳聖の俳聖たるゆえんを感じるのは私だけではないはずだ。

心の世界を詠んだ句は他にもある。たとえば、平泉で詠んだ「夏草や兵どもが夢の跡」。目の前に広がる平泉の実景を手がかりに、義経主従という「兵」たちの影を芭蕉は見、栄華を極めた藤原氏の「夢の跡」を心に描いた。

目の前の現実を描きだすとともに、心の世界を詠んだ句が、「蕉風」と呼ばれ、それらの句が他に類を見ない「芸術作品としての俳句」として後世まで称えられる。

個人的に本書の白眉は、本編の「あとがき」の、なぜこの国の文化は「間」を大事にするのか、という問題提議の箇所である。たとえば、俳句における切字は、句のなかに「間」を作りだす機能をもつ。なぜ「間」が重要か。

筆者は、その答えを、「日本の夏が極端に暑いから」としている。

「日本の文化は、万事このとおり、夏の暑さによって試され、選ばれ、改められる。衣食住や人付き合いで「間」を重んじるのも、夏を涼しく過ごすための方策だろう。物と物、人と人とが近すぎては暑苦しい。」

本書 P.220〜

なるほど〜。

内容の重複している箇所が少なくない本書では、その点こそ、もっと深く論じてほしいという気がしないでもない。

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