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なぜ木曽義仲の墓の隣に松尾芭蕉の墓があるの?

木曽義仲の墓をたずねると松尾芭蕉もいたよ

note最初の投稿です。木曾義仲きそよしなかの墓がある「義仲寺ぎちゅうじ」を取り上げます。
滋賀県大津市の膳所ぜぜ駅から徒歩5分です。小さなお寺なのですが、木曽義仲の墓があることで広く知られているようです。
同時にこの寺には松尾芭蕉の墓もあります。芭蕉の強い希望で、木曽義仲の隣に自分の墓を作らせた、と考えられているようですが、調べてみると必ずしも芭蕉の強い意志ではなかったようです。
ではなぜこの場所だったのでしょうか?

「え?なんで松尾芭蕉まつおばしょうの墓があるんですか?」
義仲寺の受付で「芭蕉の墓もある」と言われ、思わず聞き返しました。
松尾芭蕉は亡くなる間際、「木曽義仲の墓の隣に埋めてくれ」と弟子たちに遺言をしたそうです。弟子たちは家族に黙って遺体を大阪から滋賀県大津の義仲寺まで運んでしまいます。

この話を聞いて私の頭がバグりました。
「誰に断ったの?」「家族より義仲なの?」「誰も反対しなかったの?」
そして、「なぜ木曽義仲?」と、多くの人が持つ疑問につまずきました。

なぜ木曾義仲なのか? 違うんじゃないか?

ネットを探すとやはり、同じ疑問を持つ人が結構いました。
でも、「なぜ木曾義仲だったのか? 義仲のどこが好きだったのか?」について納得のいく説明は見つかりません。
そもそも、いくら好きな武将だからといって、いきなり墓を隣に、はないはずです。いや、ないですよ。
そこで視点をいったん変えて芭蕉側から調べなおすことにしました。

芭蕉の義仲の句は二つ

芭蕉は木曾義仲について二つ句を残しています。

義仲の 寝覚めの山か 月悲し

元禄2年8月14日敦賀にて『荊口句帖』

木曾のじょう 雪や生えぬく 春の草

元禄4年1月義仲寺の草庵にて『芭蕉庵小文庫』

この二句以外には、木曽義仲への思いを記した芭蕉の言葉はみつかりませんでした。「なんだ、これだけか」と、いささか拍子抜けします。

源義朝、義経にも句がある  源平の物語が好きだったのでは?

木曾義仲以外では、頼朝の父親の義朝よしともの句(義朝の心に似たり秋の風)があり、義経よしつねの句(夏草やつわものどもが夢の跡)が一句あります。
有名な「つわものども」の句は、義経自身と、義経に親しかった藤原秀衡ひでひらなど奥州藤原氏一族の句でもあります。
そもそも「奥の細道」の旅の目当ての一つは、義経最期の場所である奥州平泉であったと言われています。

木曽義仲以前に、平家物語や源平合戦が好きだった、のは間違いないのですが、「なぜ木曾義仲だったのか」その答えはやっぱり見つかりません。

芭蕉の実際の遺言とは?

芭蕉の遺書に「義仲の墓」の指示はない

「そういえば、遺言は正確にはなんと言ったのか?」
と、根本のところを確認することにしました。

芭蕉が亡くなったのは大阪です。享年五十歳。
生まれ故郷は、伊賀国つまり三重県で、本来の生活拠点は江戸の深川です。兄弟や家族も江戸と実家の伊賀にいました。
あちこち旅した人なので、この時も、故郷の伊賀に行き、そのあと関西を回って奈良から峠をこえて大阪で宿泊しています。
実家や故郷から離れた大阪で体調を悪化させてしまいました。

芭蕉は大阪で亡くなる二日前に遺書を残しています。この遺書は指示が細かく、数えたら全部で十五項目もありました。
ただ不思議なことに、肝心の「自分の墓をどうするか」については、書かれていません。

遺書とは別に遺言があった

遺書に義仲寺や墓の話がないとすると、芭蕉が死の二日前10月10日の時点で決めていなかった可能性すら出てきます。けれども、そこにいた10名の門弟が何の迷いもなく大津まで芭蕉の遺体を運んでいます。
「義仲の墓の横へ」という遺言に少しでも疑いがあれば、当然、弟子たちは揉めたはずです。

つまり遺書を二日前に書き留めてから亡くなるまでの短い間に、墓に関する遺言があったのかもしれません。
確認すると「芭蕉翁行状記おうぎぎょうじょうき」や「芭蕉翁終焉記しゅうえんき」にそのやりとりが残っていました。その日付は遺言を書き留めた翌日、10月11日です。

偖(サテ)からは木曾塚に送るべし。爰(ここ)は東西のちまた(巷)、さゞ波きよき渚なれば、生前の契深かりし所也。懐しき友達のたづねよらんも便(たより)わづらはしからじ

「芭蕉遺語集」( 著者 荻原井泉水)

私なりに超訳します。

それなら(滋賀県大津の膳所にある)義仲寺に送ってくれ。あそこは東西の間で、琵琶湖のさざなみがいい場所だ。生前関わりの深かった場所でもある。懐かしむ友だちが訪ねてくるにも、面倒がなくて便利だからね。

この記録には気になることが書いてありました。この門弟は、芭蕉がこれを「たはぶれ(たわむれ)」に語ったと記録しているのです。
「たはぶれ」だったけど、「敬して約束たがはじ」と、約束は必ず守ります、と弟子の一人が(真面目な顔で)うけ負ったと書き残しているのです。

やりとりはこんな感じ?

ここからは私の妄想です。

弟子「先生、そのお….言いにくいんですが、亡くなったあとはどうしましょう? 江戸まで運ぶのはあれですし….」
芭蕉「うーむ。いろいろ迷惑がかかる、やっかいだな」
弟子「大阪にどこか墓を探しましょうか?」
芭蕉「(しばし考えて)それなら義仲寺に送ってくれ。(中略)どうだ?あそこならなにかと便利だ」
弟子「わかりました!必ずや義仲寺にお運びします。絶対に約束します」
 弟子の乙州(おとくに)のまじめな返事に一同が笑う

死ぬ直前にしては、和やかすぎまするでしょうか?
芭蕉の言い方はやや軽目で、弟子の方はやっかいな問題を前にクソ真面目なので、そのコントラストで弟子たちに笑いが起こる感じです。
そして、ここでも、
「オレ木曽義仲めっちゃ好きだから、ぜったい義仲寺に埋めろ」
とは一言も言ってません。それどころか、自分の墓について考えていなかった、とも思えます。

義仲より芭蕉と大津のつながりに注目

芭蕉と近江、その深いつながり

遺言を繰り返し読むうちに、私の印象も大きく変わりました。
言葉をそのまま解釈すれば、義仲寺を選んだ理由は「その場所が一番都合がよいから」となります。
「場所」は近江の大津膳所です。あらためて近江と芭蕉について調べてみることにしました。


門弟には近江滋賀県の人が多く、36俳仙とよばれる門弟のうち3分の1の 12名が近江の人でした。近江蕉門と呼ばれる最大勢力です。
芭蕉の句を地域ごとに数えると、全部で980句あるうち、1割近くの89句から106句(諸説に幅がある)が大津地方で詠まれています(ちなみに「奥の細道」は52句)。
近江の人々とのつながりを感じさせる素敵な俳句もありました。

行く春を 近江の人と 惜しみける

元禄3年3月。『去来抄』

義仲寺はじめ大津に何度も滞在した芭蕉

実際、晩年の芭蕉は多くの時間を近江で過ごしています。先ほど少なくとも96句以上が近江で詠まれたと書きましたが、その99%が40代以降です。近江への訪問回数は8回以上です。

芭蕉は「膳所は旧里ふるさとのごとく」と書き残しています。
江戸と大津の二拠点生活ですね。気に入った要因は、風景に加えて人のつながりもあったのです。その中で芭蕉が定宿にしたのは義仲寺です。

木曽義仲に入れ込んだ理由

遺言からは肝心の「木曽義仲」への思いは読み取れません。あくまで弟子たちのため琵琶湖に近い大津のこの場所がよい、と言っています。
ただ、大津ならどの寺でもいいわけではなく、やはり「木曽塚」がある義仲寺を指名していますので、芭蕉が義仲推しなのは間違いありません。
木曽義仲のどこがよかったのか、そこも考察してみます。

芭蕉が惚れそうな萌えポイント2つ

繰り返しになりますが、芭蕉は2つの句以外にヒントを残していません。ですから、ここは推論をひねり出すしかありません。
木曽義仲の萌えポイントは大きく以下の2つと考えました。

  • 三年半に凝縮された活躍期間

  • 最期まで義をつらぬいた生き方

三年半に凝縮された活躍期間

木曽義仲(正式名は源義仲で源頼朝とは従兄弟です)を調べると、その活躍期間の短さに驚かされます。木曽義仲が歴史上名前が上がり、源頼朝に追われて亡くなるまで約三年半、有名な人なのにかなり短いです。

わずか三年半で目まぐるしく立場が入れ替わります。
賊軍→官軍→将軍→朝敵→討ち死に
と目まぐるしくアップダウンして人生が終わります。
奢れる平氏に反逆したスタートは賊軍です。その平氏との戦いに勝って京都に入ったときは、朝廷に歓迎され堂々の官軍です。
ただ、「次の天皇を以仁王の息子に」と皇位継承に口を出して、後白河法皇や朝廷と対立します。後白河法皇が「京都での乱暴狼藉」に言いがかりをつけ、義仲打倒の兵を集めはじめます。
とうとう後白河法皇軍と小競り合いになり、仕方なく法皇を捕縛幽閉して自身は将軍になります。
源頼朝の命を受けた鎌倉軍に惨敗し、最期は朝敵として討ち死にします。
短期間に栄光と悲劇が凝縮された人生で、短い俳句に思いを込める芭蕉の心を揺さぶったのではないでしょうか?

最期まで義をつらぬいた人生

短い期間に、義仲は徹底して義をつらぬきます。胸熱エピソードがいくつかあります。

義仲のデビューも天皇のために義をつらぬいた行動でした。
平氏は天皇をないがしろにした政権でした。義仲は平氏を打倒し、正しい天皇親政を実現しようと考えていました。

義仲は死の直前も義を貫きます。
源頼朝軍に負けて追い詰められた義仲は、わざわざ幼少時期を一緒に過ごした腹心の部下今井兼平のもとに行きます。
「別々に死ぬより、お前と一緒に討ち死にするほうがよいのだ」
というのがその理由です。

木曽義仲は、巴御前ともえごぜんに愛されていました。
最後まで義仲の側で戦い続ける巴御前に、義仲は告げます。
「自分はここで討ち死にする。最期まで女を連れていたとあっては聞こえが悪い。だから俺から離れて逃げるんだ」
これ巴御前を逃がすためのやさしい嘘ですよね。カッコいいです。

木曽義仲の生き方に惹かれる芭蕉

木曽義仲の評価は「めっぽう強いが粗野な田舎侍」です。
けれども実際は「義をつらぬき正しいことを主張した人」に見えます。
このタイプは、地位や権力にしがみつく上司から確実に嫌われます。上役から、「礼儀知らず」「常識を知らない」と排除されるパターンですね。

いつの時代でも、義仲タイプの生き方は魅力的です。
定宿に義仲寺を選んだこと、最期は弟子たちのためにとこの寺を選んだこと、確かに何割かは義仲に心酔していたから、と言えそうです。
ただ、やはり木曽義仲が第一の理由ではなかったと思えるのです。

まとめ

第一印象で、「死ぬなら木曽義仲の隣」と芭蕉が強く頼んだ、と思いこんでいました。
しかし、遺書から死の直前の弟子たちの会話までの流れを知ると、実際には遺書に残すような、計画的な志ではなかったようです。
それどころか墓をどこにするか考えていなかったフシがあります。
そして、自分よりも弟子たちに対する配慮が強く感じられます。

大阪で倒れた芭蕉は、高名な医者を呼ぼうとする弟子を制しました。故郷や実家から離れた地で死ぬ運命を、静かに受け入れたのかもしれません。

さざ波の意味するところ

遺言の中で「琵琶湖のさざ波」という言葉を芭蕉は口にしました。この点も気になります。
柿本人麻呂が「楽浪さざなみの志賀の」ではじまる句を残しています。かつて大津にあった都=大津の宮の廃墟を詠んだ句です。「楽浪=さざ波」は歌の歴史からみても大事な言葉だったようです。

「さざなみ」は、なにげなく出た言葉ですが、弟子たちにとっても重要な意味を含んでいたかもしれません。
「よし琵琶湖沿いの義仲寺まで師匠を運ぼう」
弟子たちが心をひとつにする作用があったのではないでしょうか?

迷いなく大津まで芭蕉を運ぶ弟子たち

弟子たちに迷いはありませんでした。芭蕉が息を引き取ったあと、その遺体を琵琶湖畔の膳所にある義仲寺まで運びます。

  • 10月12日 申の刻。今の暦で11月29日夕方4時 相当寒いです。門弟10名が、芭蕉の遺体を長櫃ながびつに入れて、淀川を船で遡ります。

  • 10月13日 京都伏見着。そこから陸路で20km弱、約5時間の行程です。東海道沿いの義仲寺まで運んでいきました。かなり大変です。

  • 10月14日 義仲寺の木曽義仲の墓所木曽塚の右に埋葬し、冬枯れした芭蕉を植えました。弟子の妻たちが浄衣を縫って芭蕉に着せます。住職を導師として葬儀が行われました。

知らせを聞いた人々が、続々と集まりはじめます。会葬者の数は300余人と記録されています。身分、年齢、職業の違う人々が、芭蕉を見送るため、狭い義仲寺の外まで溢れたはずです。
日本中を旅した芭蕉が、最後に選んだ地は、琵琶湖のさざ波がある滋賀県大津でした。
私も近江が好きでよく訪れますが、行くたびに思いが深まります。

行く春を 近江の人と 惜しみける

元禄3年3月。『去来抄』


以上

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