のりこーね 日本史とデータ分析

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京極高次はなぜライフゼロから出世できたのか?

前回の記事で、京極高次の「蛍大名のレッテルは、最近のもので、当時は呼ばれていなかったのでは?」という仮説を書きました。 京極高次は、戦国大名で、関ヶ原合戦当日まで大津城籠城戦を繰り広げ、東軍勝利に大きく貢献します。その後若狭国小浜の城主になりますが、今や妹や妻、女のおかげで出世した「蛍大名」と揶揄されてきました。 今回は高次に張り付いた「蛍大名」のバイアスをいったん剥がした上で、京極高次の出世の道筋を探ってみます。 ここで「京極高次は蛍大名なんかじゃなくて立派な武将だ」と、

    • 戦国武将 京極高次は本当に「蛍大名」と呼ばれていたのか?

      戦国大名の京極高次はなぜ蛍大名と呼ばれているのか?戦国武将の京極高次は「蛍大名」と呼ばれています。必ずと言っていいほど「蛍大名と呼ばれた京極高次は….」などと書かれます。 今回はこの「京極高次=蛍大名」が本当なのか?を探ってみます。 「蛍」の意味は、「女の尻の光のおかげで出世した」、つまり実力で出世したわけでなく、妹や妻のおかげで出世したヤツということのようです。 京極高次は滋賀県の琵琶湖沿いにあった大津城の城主として活躍します。えらい人なのに、あんまりな言われようです。

      • なぜ木曽義仲の墓の隣に松尾芭蕉の墓があるの?

        木曽義仲の墓をたずねると松尾芭蕉もいたよnote最初の投稿です。木曾義仲の墓がある「義仲寺」を取り上げます。 滋賀県大津市の膳所駅から徒歩5分です。小さなお寺なのですが、木曽義仲の墓があることで広く知られているようです。 同時にこの寺には松尾芭蕉の墓もあります。芭蕉の強い希望で、木曽義仲の隣に自分の墓を作らせた、と考えられているようですが、調べてみると必ずしも芭蕉の強い意志ではなかったようです。 ではなぜこの場所だったのでしょうか? 「え?なんで松尾芭蕉の墓があるんですか?

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