見出し画像

戦国武将 京極高次は「蛍大名」と呼ばれていたのか?

戦国大名の京極高次はなぜ蛍大名と呼ばれているのか?

戦国武将の京極高次きょうごくたかつぐは「蛍大名ほたるだいみょう」と呼ばれています。必ずと言っていいほど「蛍大名と呼ばれた京極高次は….」などと書かれます。
今回はこの「京極高次=蛍大名」が本当なのか?を探ってみます。

「蛍」の意味は、「女の尻の光のおかげで出世した」、つまり実力で出世したわけでなく、妹や妻のおかげで出世したヤツということのようです。
京極高次は滋賀県の琵琶湖沿いにあった大津城の城主として活躍します。えらい人なのに、あんまりな言われようです。

大津城は、ひっそりとこの石碑しか残っていません

私が見た参考資料はこちらのnotionに記載しています。あくまで私的に作成したものなので、間違いもあるでしょう。その点はご指摘ください。
今回のメニューはこんな感じで進みます。


京極高次とはどんな人でなぜ蛍大名と呼ばれるのか?

あらためて京極高次の解説をさらっとやります。ご存知の方はスキップで。

西軍を裏切り関ヶ原戦の東軍勝利に貢献

京極高次は戦国時代の大名で、関ヶ原の戦いの時は数えで38歳です。
関ヶ原戦の直前に、滋賀県の大津城に籠城し、徳川家康の東軍勝利に貢献します。小早川秀秋の裏切りは有名ですが、高次も西軍を裏切って家康側についた大名のひとりです。

もともと京極高次は秀吉政権下で大津城主まで出世し、「大津宰相」と呼ばれました。秀吉に多大なご恩があります。
さらに、滋賀県大津は京都に近く、琵琶湖の水運と東海道、中山道、北陸道が交わる軍事と物流の要衝です。
ところがその大津宰相が、関ケ原合戦の直前に徳川家康に寝返るわけです。石田三成や淀殿は、ひっくり返るほど驚き、西軍の精鋭部隊が大挙して大津城に押し寄せました。
当時の人も驚いています。「醍醐寺日記」の慶長5年9月5日に

大津城敵に成る(中略)、前代未聞の義、驚き入る者なり

醍醐寺日記 慶長5年9月5日

京極高次は大津城で籠城戦を展開します。
この大津城籠城戦は、関ヶ原戦の当日朝に京極高次の事実上の敗北開城で決着します。

まあ、負けるのは致し方ない面があります。
激怒した石田三成が、大量の兵を大津城に送り込んだのです。
その数、1万5千(通説だが毛利軍のみか)あるいは、3万7千(大津籠城合戰記など)、4-5万(西讃府志など)という記載まであります。
この部隊は精鋭部隊でもあり、中心は戦国最強の立花宗茂です。対する京極高次は3千ですから、敗戦は時間の問題でした。
ただ、敗けても十分に貢献しました。なにしろ、この西軍精鋭部隊を大津城に引き留め、関ヶ原戦合戦に参戦させなかったのです。
京極高次は、非常にコスパよく敵兵を釘付けにしたと見ることもできます。

もし、大津城を攻めた西軍精鋭部隊が、関ヶ原合戦に間に合っていたら、「己は負けていたかもしれないのだ」と、家康は愕然としました。
敗戦の将にもかかわらず、家康はその貢献度を高く評価し、若狭国主(後に近江国高島郡の一部も追加)として9万石余を与えます。
家康はもっと多い加増を提示しましたが、高次が「敗将にそれはないです」と断った、という逸話も残されています。

「蛍大名」と呼ばれダメダメな大名として描かれる

今や小説やテレビで、京極高次はダメダメな男として描かれています。
極めつけは大河ドラマ「江 〜戦国の姫君たち〜」です。正室になる初(水川あさみ)は、京極高次(斎藤工)のことを「男の風上にも置けませぬ!」とプンプン怒っています。まあ、イケメンなので許しちゃうわけですが。

それもこれも、彼が「蛍大名」であり、女の力で出世した男というイメージが強いからです。
高次の妹(姉の説あり)の竜子(龍子)が秀吉の側室でした。
また、高次の奥さん正室のはつ(常高院)が、やはり秀吉別妻の淀殿(茶々)の妹でした。ついでに言うと、徳川家康の息子秀忠の正室がおごう(崇源院)で、ここもつながっています。

浅井三姉妹のめくるめくゴージャスなネットワークの一部なのです。
京極高次は、秀吉の跡継ぎ豊臣秀頼ひでより名代みょうだいをつとめるなど、ほぼ秀吉の身内の扱いだったようです。
高次が大津城主まで出世できたのは、妹と妻のおかげだと噂されます。女の尻の光で出世した「蛍大名」というわけです。

ダメなくせに出世して、弱いくせに裏切って、戦が下手なくせに籠城戦をしかけて、結局負けてしまった「蛍大名」。
私は、こうした強いバイアスがかかった人は、無性に調べたくなるのです。

いつから誰が蛍大名と呼んだのか? え、石田三成も!?

蛍大名の引用元は誰も明示していない

「いつ誰が蛍大名と呼びはじめたのか?」
その点を調べはじめますが、戦国時代や江戸時代のどの文書にも、蛍大名の記載がある史料が見つかりません。

もともと京極高次に関連する同時代史料は限られています。
江戸時代の京極家の「家譜」や関ヶ原戦の「戦記」が中心です。当時の手紙や日記なども確認していますが、戦国時代当時から江戸期にかけて、「蛍大名=京極高次」と記載した文書は見つかりません。

一方で、現代の歴史解説や小説には「蛍大名」があふれています。ただ、どれも出典元の記載がありません。
むむ、これは怪しいぞとなってきます。

京極高次の小説は3編のうち2編が蛍大名を記載

ひょっとして、「京極高次=蛍大名」は昭和以降に出てきたのかなと疑い、次に関連する小説数編を読みました。そのうち影響力がありそうな長編3編が以下です。

  • 水上勉 「湖笛(こてき)」(1966年3月)・・・・蛍大名の記載なし

  • 秋月達郎「火蛍の城(旧題「蛍の城」)」(2011年2月)・・・・蛍大名の記載あり

  • 今村翔吾「塞翁の盾」(2021年10月)・・・・蛍大名の記載あり

これ3編とも名作です。この3作を読むと、新しい小説ほど、京極高次がダメダメな感じで描かれています。

意外だったのが、1966年の水上勉氏の小説です。水上勉の小説に「蛍大名」の文字はありません。京極高次はダメ武将ではありません。

一方、2011年の秋月達郎氏の小説「火蛍の城」では、蛍大名のダメダメ成分がかなり増加しています。石田三成と徳川家康の板挟みになって、フラフラと迷い続けます。
さらに、2021年の今村翔吾氏の直木賞受賞作「塞翁の盾」では、さらにダメキャラが振り切って描かれます。悶絶するほど愛らしいキャラです。

水上勉が蛍大名と書かずに、秋月達郎と今村翔吾が「蛍大名」と書いたので、1966年から2011年の間のどこかで「蛍大名」のレッテルが貼られはじめたのではないか? そんな仮説が浮かびました。

国会図書館のデジタルライブラリでは1970年代以降に出現

ここから国立国会図書館の出番です。
今やデジタル化された書籍や雑誌がかなり増えています。書籍全体から見ればまだまだ網羅性は低いのでしょうが、ある程度の傾向はつかめます。

デジタルライブラリを「蛍(螢、ホタル、ほたる)大名」「尻蛍(螢)」のキーワードで検索します。

「蛍大名」や「尻蛍」と京極高次が結びついた一番古いものは、1975年11月発行の「近江歴史紀行」(びわ湖放送)で「ホタル大名」がありました。
その後「歴史と旅」(秋田書店)という雑誌の1981年1月号で「尻蛍」が登場します。ただ、どちらも出典元の記載はありません。

一方で、京極高次以外の人を、「蛍大名」と揶揄する文章が、検索にひっかかります。明治初期から延々と出てきますので、「蛍大名」は、どうやら京極高次の専売特許ではなかったことがわかってきます。

そして、明治期の小説から昭和初期まで、「蛍大名」は石田三成なのです。
「え?京極高次の敵の石田三成が蛍大名!?」
これ驚いていいですよね。

身分の低い石田三成が、秀吉の男色(戦国時代は「衆道しゅどう」とも)の相手として気に入られて出世した、という取り上げ方です。
明治時代の芝居や小説に、石田三成を「蛍大名め!」とこらしめるものが数編ありました。石田三成は嫌われていたんですね。

戦国、江戸、明治時代に京極高次を「蛍」と書く文書は見つかりませんが、その逆に昭和以降は石田三成を「蛍」とする記述はまったく見かけません。
まるで「蛍」が、石田三成から京極高次に入れ替わった錯覚を覚えます。

戦後に出てきたのは、それ以前、京極高次がマイナーだったから、とも考えましたが、検索ワード「京極高次」は明治からヒットします。関ヶ原戦の脇役として、古くからそれなりの知名度はあったようです。ただ、「蛍大名」は、昭和のある時期1960年代まではまったく見当たりません。

蛍大名は石田三成以外は、江戸期に多く出現し、春日局や徳川家光周辺に使われています。いずれも男色を揶揄する記載が多いようです。
尻が輝く「蛍大名」は、多くは男色の意味で使われていた。だとしたら、妹と妻のおかげで出世した京極高次は、「蛍=男色」で揶揄された可能性は低いはずです。
男色=衆道も戦国時代は当たり前です。同時代に蛍大名と呼ばれる可能性はさらになさそうです。

昭和で京極高次が蛍大名になったのは、誰の影響でどのように広がったのか?

司馬遼太郎も井上靖も「蛍大名」とは書いていない

国会図書館の検索でヒットした一番古い「近江歴史紀行(1975年)」の影響がそれほどあるとは思えません。より影響力のある書籍や雑誌が1975年前後に出てきたはずです。

有名作家として、井上靖が「淀どの日記(1961年)」という小説を書いていて、京極高次が頻繁に出てきます。ただし、蛍大名の記載はありません。

司馬遼太郎か? と疑いましたが、司馬氏の「関ヶ原(1966年)」に京極高次は出てくるものの、「蛍大名」とは書かれていません。ただ、以下のように書かれています。

閨閥けいばつの点からいえば(京極)高次ほど豊臣家に縁のふかい男もいないであろう」(ふりがなは私)

「関ヶ原」 司馬遼太郎 1966年

高度成長期は「閨閥」大名として取り上げられた

1960年代は、京極高次に「蛍」は使われていませんでしたが、60年代以降は司馬遼太郎の関ヶ原をはじめとして、京極高次に「閨閥けいばつ」と書く雑誌記事などをいくつか見つけました。

「閨閥」の「閨(けい、ねや)」は夫婦の寝室や婦人のことで、婚姻などを通じて、派閥を形成することになります。
閨閥そのものは古くからある言葉ですが、高度成長期の日本で、新たな含みを持って使われた時期があります。

たとえば小説やドラマで有名な山崎豊子の「華麗なる一族」は、富裕層の閨閥結婚をめぐる家族の葛藤が物語の軸になっていました。
戦後の高度成長期に能力主義になった日本も、政界、財界は依然、閨閥が支配している、とその辺を揶揄して使われました。

司馬遼太郎の影響はともかく、「閨閥」に対して揶揄する雰囲気が時代にあり、「蛍大名」のレッテルを貼りつけた人がいるかもしれません。

もうひとつ気になる点があります。水上勉の「湖笛」の前半に、虫の蛍が舞う印象的な場面が出てきます。近江の夕闇を、「蛍」とともに美しく印象的に描いています。

無数の蛍がとびたって、夜更けまでピカーッ、ピカーッと線を描いて飛んでいた。源氏蛍であった。

「湖笛」水上勉  1966年

これ以外にも複数「蛍」の描写があります。京極高次を調べる人は、目を通す作品だと思いますので影響はありそうです。
この「湖笛」はテレビドラマでも、1970年8月から11月に放送されていました。ポーラ名作劇場で、主演は北大路欣也です。
残念ながら、今は見る手段がありません。ただテレビの影響は大きいので、「蛍」のシーンが印象付けられた可能性はありそうです。
先に紹介した「近江歴史紀行(1975年)」も再三「湖笛」を引用しています。

何の根拠もない推測ですが、60年代に「閨閥」の象徴として京極高次が印象づけられ、水上勉の「蛍」を「閨閥」と結びつけた歴史ライターなどが、「尻蛍」や「蛍大名」を京極高次に使いはじめた。
それが引用元不明のまま連鎖的に使われていき、やがて、2011年の秋月氏の「火蛍の城」という小説で決定的になった。

いずれにしろ「蛍大名」のレッテルは、(その史料がない限り)ごく最近 1970年以降に貼られたもの、ということになります。

まとめ

二つの論点があります。
ひとつ目は「戦国時代に京極高次は蛍大名と呼ばれていたか?」
ふたつ目は「いつから蛍大名と言われるようになり、それが定着したか?」です。
どちらも、私の稚拙な調査では限界があり、重要文書を見逃している可能性があります。もし、関連史料をご存知の方がいれば、ぜひ教えていただければ幸いです。

ひとつ目の「戦国時代に京極高次は蛍大名と呼ばれていたか?」

  • 戦国から江戸時代にかけての史料に「蛍大名」は見当たらない。

  • 江戸時代、明治時代、「蛍大名」は、多くは男色(衆道)を揶揄する言葉として石田三成や春日局や徳川家光の周辺に対して使われていた。

「京極高次=蛍大名」は、戦国から江戸期の史料に使われた形跡はなく、また、そもそも男色ではない高次に使われた可能性は低い、という結論になりそうです。

もうひとつの論点、いつどうやって蛍大名が広がったのか? 

  • 1970年代以前の京極高次にも「蛍」の記載は見当たらない。司馬遼太郎、井上靖、水上勉の有名作家たちも使っていない。

  • 1975年から「ホタル大名」「尻蛍」という記載が見られ、雑誌中心に少しづつ増えています。いずれも引用元は記載がありません。

  • 2011年の秋月達郎「火蛍の城」が書かれ、これで定着した感がある。

この状況から、あくまで推論ですが、「閨閥」を揶揄する時代雰囲気の中で、それを象徴する京極高次に「蛍大名」のレッテルが貼られ、引用元不明のまま連鎖的に広がった、と推測してみました。

戦国時代でも「閨閥」を揶揄する雰囲気があったのか、あるいは武将のブランド価値のひとつと見られていたのか、私はどちらかといえば後者であったように思います。

もし、明確な史料がないまま、戦後の価値観で、京極高次に「蛍大名」のレッテルを貼ったとしたら、それは一回綺麗に剥がしてあげましょう。
私も「蛍大名」バイアスのない京極高次として、改めて調べていきたいと思います。

今回は「京極高次は蛍大名とは呼ばれていなかった」となりました。
でも、高次が「実は勇猛果敢な武将だった」とまでは言えません。
別の記事で「京極高次はなぜ大津宰相まで出世したのか?」彼の出世の成分分析を行ってみたいと思います。

以上

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?