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京極高次はなぜライフゼロから出世できたのか?

前回の記事で、京極高次の「蛍大名のレッテルは、最近のもので、当時は呼ばれていなかったのでは?」という仮説を書きました。
京極高次は、戦国大名で、関ヶ原合戦当日まで大津城籠城戦を繰り広げ、東軍勝利に大きく貢献します。その後若狭国小浜の城主になりますが、今や妹や妻、女のおかげで出世した「蛍大名」と揶揄されてきました。
今回は高次に張り付いた「蛍大名」のバイアスをいったん剥がした上で、京極高次の出世の道筋を探ってみます。

ここで「京極高次は蛍大名なんかじゃなくて立派な武将だ」と、大逆転の文章が書ければ面白いのでしょう。ただ、結論ありきで意気込むのも本末転倒なので、ひとつひとつ確認していきます。どうなることやら。

さて、今回のメニューです。


京極高次の出世全体を俯瞰する

まず、京極高次の出世の道程を俯瞰してみます。
高次は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、この三英傑の元で、いずれも出世しています。この事実だけで、「蛍大名」って呼ぶなと言いたくなります。
一方で、最終着地が9万2千石なので、10万石に達していません。この石高だけ見れば、そこまで大出世とは言えない印象です。
でも、京極高次の面白いところは、この出世街道に2つの大きな谷があることです。この2つの谷でライフゼロのどん底まで落ちたのに、次の政権で復活しています。
生成AIでグラフを作成して、加工してみました。

京極高次 ライフゼロからの復活グラフ

最初に2つの谷底を見てみましょう。ひとつ目の谷は信長と秀吉の間です。
京極高次は本能寺の変で、あろうことか明智光秀に加担します。
秀吉留守の長浜城を襲撃し、明智方破綻と知ると、今度は柴田勝家の北ノ庄城に逃げ込みます。
秀吉は「高次を召し捕って殺せ」という指令を出します。高次は追っ手から逃れ、とうとう山奥の洞窟に逃げ込みます。二十歳で人生ドン底です。

ふたつ目の谷は関ヶ原合戦です。京極高次は秀吉に多大な恩があるのに、西軍を裏切り、東軍家康側に付き、大津城で籠城戦を繰り広げます。
大津城籠城戦を敗北で終えると、剃髪して高野山にこもります。アラフォーで、高次は人生を完全にあきらめます。
なんと、敗北が決まったその日は、関ヶ原合戦当日の朝でした。高次は東軍勝利の結果を知りません。あと一日だけ我慢していたら、ああ!

まあ、結果だけ見れば東軍でよかったね、なんですが……
でも、こんなに深い谷に二回も落ちたのに、ちゃんと次の政権で復活している。何と言いますか京極高次は、「結果オーライ」の人生なのです。
じゃあ、この出世街道は、彼の実力なのか? 
それを一つ一つ見ていきます。

三英傑それぞれの時代の出世を見ていく

信長時代 10代前半で近江5千石 - デビュー戦の報奨

京極高次は7歳で、織田信長の人質になりました。「信長公記」に、京極高次は二度登場します。
一度目は、元亀4年(1573年)7月、信長が足利義昭を槇島城(京都府宇治市)から追い出した戦です。このとき近江奥島の5千石を与えられています。

二度目は、天正9年(1581年)9月、織田信雄の伊賀国攻めですが、名前が登場するだけです。織田軍はつわ者だらけですから、名前が載れば立派と一定の評価はできそうです。

とはいえ、信長時代の5千石は、高次が11歳です。明らかに、若武者の初陣に対するご祝儀でしょう。とはいえ5千石ですから、11歳にしては立派だったとしておきましょう。
信長時代の出世成分は、以下のように分析しました。
1) 家柄  30%  2) 戦の功績 10% 3) その他(初陣ご褒美)60%

家康時代   再びライフゼロからの飛躍 - 大津籠城戦の多大な功績

順番から言えば次は秀吉時代ですが、家康時代を先に取り上げます。
先述の通り、関ヶ原合戦当日の朝に敗北、敗軍の将として髪を剃って高野山に入っています。
しかし、徳川家康は高次の大津城籠城戦を高く評価します。

史料によっては「軍功一番」と感謝され、もっと多い石高の申し出が家康から出されたと記す文書もあります。高次はこの申し出を断ります。「敗軍の将に報奨などとんでもない」と断ったとも伝えられています。家康家臣は、山を降りようとしない高次をなんとか説得して、ようやく加増が決まります。

  • 若狭8万5千石に加増転封 [慶長5年(1600年)]

  • 近江高島郡を加え9万2千百石に加増 [慶長6年(1601年)]

高次は、1608年に死去しますが、嫡男忠高(庶子)が京極家を継ぎ、こちらも出世して合計26万石まで加増され、石見銀山まで与えられます。
さらに先の話ですが、息子の忠高が死去し、その時点で嫡子がいなかったので、本来なら改易つまりお取り潰しとなるはずでした。
ところが京極家の嘆願を受けた幕府は、無理やり甥の高和を持ってきて、播磨龍野6万石大名として存続させます。
いずれも、高次の徳川家への貢献を高く評価した結果と記されています。それだけ京極家への信頼は厚かったようです。

家康時代の高次出世の成分分析は以下のように評価しました。
1) 戦の功績 100%

ただ、その戦も負けているんですよね。さらに、京極軍の仕掛けた戦いはことごとく西軍の立花宗茂たちにつぶされています。
それでも西軍1万5千または4万(諸説あり)に対して、京極家側は3千です。5倍から13倍の差で、相手は最強武将の立花宗茂でした。
おそらく高次は、はじめから勝つ気はなく、「とにかく徳川軍が来るまで持ちこたえる」だったでしょう。
この困難な状況で、戦の巧拙は測れません。東軍についた決断と籠城戦の覚悟、両方合わせて「胆力」と言えばいいでしょうか、評価できるのは唯一その点だけです。

秀吉時代  ライフゼロからのスピード出世

ここからが本論です。「蛍大名」と揶揄される大出世は秀吉時代の話です。秀吉時代の高次は、ライフゼロからはじまります。
本能寺の変で明智に味方したので、毛利攻めから猛スピードで帰国した秀吉は、「見つけ次第殺せ」と指示を出しました。高次は山奥の洞窟にじっと隠れていたと言われています。

しかし、ここから京極高次の復活劇がはじまります。太字が重要な出世で、それぞれ史料上にある出世理由を下に書いています。

  • 近江国高島郡 2千5百石 従五位上・侍従 [ 天正12年(1584年) ] (A)

    • 石田三成等の建白書(推薦状)あり

  • 近江国高島郡 5千石に加増 [ 天正14年(1586年) ](B)

    • 理由は私の推測を後述 

  • 近江国大溝城主 1万石大名 従四位下 [ 天正15年(1587年) ](C)

    • 秀吉の九州平定に従軍、豊前馬ヶ岳城を落とした功績

  • 近江八幡山城 2万8千石 従四位下 [ 天正18年(1590年) ](D)

    • 秀吉の小田原征伐に従軍した功績

  • 近江大津城主 6万石  従四位・左近衛少将 [ 文禄4年(1595年) ](E)

    • 秀吉の唐入りで九州名護屋城をまかされ明の使者謁見に尽力

  • 大津宰相と豊臣姓 従三位・参議 [ 文禄5年 / 慶長元年(1596年) ](F)

(B)だけ、理由が見当たりませんが、それを除けば史料にも理由が明記されています。ひとつひとつを見ていきましょう。

秀吉時代の出世の成分分析

近江国高島郡 2千5百石(A) -  美女龍子と石田三成らの後押し
まず(A)です。秀吉に殺されるはずが加増されたので、ここはとても重要なポイントです。
妹の龍子が絶世の美女だったため、秀吉は龍子の夫を殺して妾にします。絶世の美女=龍子は、ここで秀吉に対して、京極家復活の嘆願をし、妹のおかげで命拾いした、と言うのが通説です。

一方で、「石田三成等が高次復活の嘆願書を出した」という記録もあります。
石田三成は、京極家に仕えていた国人だったとする説もあります。近江で京極家は名門(佐々木源氏、かつ室町時代の侍所長官で四職)なので、三成がかつての上司を助ける理由はありました。
ただ、三成が秀吉の意に反して嘆願するとは考えにくいです。
秀吉が、京極家復活の大義名分作りを三成に依頼した、と考える方が自然でしょう。
もしかしたら、迷った秀吉が「龍子が京極家復活と言っているが、どう思う」と三成に聞いたかもしれません。そこを、三成が後押ししたかもしれません。

成分分析は以下のように評価しました。
1) 家柄 10% 2) 三成の後押し 10% 3) 美女の妾 龍子のおかげ 80%

近江国高島郡 5千石に加増(B) 近江国大溝城主 1万石(C)  -  初との結婚
(B)と(C)、この二つを一緒にいきます。
この1586年前後で、茶々、初、江の浅井三姉妹の嫁ぎ先が次々に決まっていきます。秀吉が茶々を妾(別妻=第二婦人格)として迎える際、茶々は「妹二人の嫁ぎ先を決めてほしい」と条件を出しています。
浅井三姉妹の次女「初」の嫁ぎ先として、京極高次が決まります。ここで「なぜ、初の相手が謀反人の京極高次だったのか?」という点は、興味深いので、別途考察してみようと思います。

妹龍子の嘆願で復活したとはいえ、初の嫁ぎ先が、2千5百石というのは、いくらなんでもショボすぎます。姉の茶々は、初の嫁ぎ先の高次を出世させろと、依頼したと思います。
龍子と茶々の猛プッシュは、北川景子(NHK大河 どうする家康で茶々役)と富士純子(フジTV 大坂城の女で龍子役)に迫られるわけです。いくら秀吉でも断れるわけがありません。
とはいえ秀吉も、謀反人をいきなり何万石にするわけにもいきません。
なので、ここは自身の九州平定に連れて行って、体裁を整えた上で、5千石、1万石とあげて、さらに大名格にして城も与えます。
この時代、城持ち大名は3万石が標準という説もあります。だとすると、1万石の城持ち大名は、最低ラインでしょう。
この(B)と(C)の出世は、初の輿入れのため、龍子と茶々が猛プッシュしたから、と推察します。
成分分析は以下のように評価しました。
1) 九州従軍の功績 10% 2) 茶々と龍のおかげ 90%

近江八幡山城 2万8千石(D)から大津宰相(F)まで  -  秀吉の身内
この3つの出世はまとめて考察します。
「小田原攻め」「唐入り」という言葉があるので、戦に貢献したように見えますが、実態はどうなのでしょうか?
まず、小田原城攻めです。この時の戦いは、小田原城に籠城する北条軍を徳川、前田、上杉など含め21万の大軍で包囲しました。本格的な実践は少なく、高次の率いた兵も約500ですから、目立った功績は無かったでしょう。従軍に参加した参加賞のように見えます。

次に「唐入り」です。このとき高次が率いた兵は800名です。しかも、九州肥前名護屋城に出向いたものの、朝鮮に渡海していません。高次の役割は、秀吉不在時の代行と、明の使者をもてなす配膳役でした。

私は、八幡山城主から大津城主、そして参議=大津宰相になった3段階の出世は、秀吉の身内として信頼を得たからだと考えています。
龍子や茶々を妾と捉えると、「身内」という説明はピンとこないかもしれません。しかし、茶々と龍子は妾よりもっと重要度の高い「別妻」だったとする歴史家が増えています。
特に、初の姉である茶々は主筋の織田家の血筋であり、秀吉の子を産んでいます。2番目の妻としての地位は十分です。また、龍子は茶々に次ぐ3番目の妻だったと言われています。
二人を秀吉の第二第三夫人と捉えると、高次は両者の親戚筋であり、秀吉の身内と考えられます。

京極高次は、初と結婚したことで、第二第三夫人の身内になっています。
そうはいっても、最初は謀反人なので秀吉も慎重でした。それが小田原城攻めを終えたあたりから、地位が上がっていきます。
最終的に、大津城をまかされるまでになります。大津城は秀吉にとって重要な要衝でした。大坂と京都に近く、琵琶湖の北陸流通ルートの基点となる城です。琵琶湖船団もあり、本当に信頼できる人間しかまかせないでしょう。
さすがにこのレベルの出世を、女性のおかげだと笑うのはフェアでないと考えます。

小田原攻めを終えたあとの秀吉政権は、武力と同等かそれ以上に、実務能力や政治的力量、何よりも信頼が求められたのではないでしょうか?
この時期の高次は、実力で秀吉の信頼を勝ち得て出世していったのだ。そう考えてもいいでしょう。

近江八幡2万5千石から大津宰相までの成分分析は以下のように評価します。
1) 小田原攻めや名護屋城での功績 10% 2) 第二第三夫人の身内 40%   3)秀吉からの信頼  50%

なんだ京極高次ってやっぱり蛍大名じゃないか?

ここまで読んでいただきありがとうございます。
見ていただければわかる通り、家康時代を除けば、戦国武将としての戦の功績は20%以下、ほぼ10%程度と見積もっています。

一方で特に秀吉時代は、妹の龍子、妻の初、初の姉の茶々の影響が大きくなっています。特に、明智光秀に加担したライフゼロからの復活劇は、3人の女性たちの貢献度が大きいようです。
「なんだじゃあ、やっぱり蛍大名じゃないか?」
そう言いたくなりますよね。
私自身は、一次資料が出てこない限り、当時「蛍大名」と呼ばれてはいなかった、という仮説は維持します。でも、「その呼び名がぴったりはまるじゃん」「蛍大名でもいいじゃん」と思う気持ちは理解できます。

ただですね、「蛍大名」というレッテルは、ダメ武将というニュアンスです。このレッテルのおけがで、小説だけでなく歴史書でも高次は、始終ダメ武将として書かれています。
仕方ないと思いつつも、「フェアじゃないぞ」と、(なんで彼の肩を持つのか我ながらよくわかりませんが)言いたくなります。

京極高次の出世街道の評価

では高次は周囲からどう評価されていたのか? 
「蛍大名」とする史料が見つからない一方、残念ながら、彼を高く評価する記録も見つかりません。
唯一「大津籠城合戦記」に、以下の記載を見つけました。
  「高次は智謀武勇の名将なり」(大谷吉継)
西軍の大谷吉継が、高次の籠城を知り、「京極高次は智将であり、家臣の結束も固い。少兵といえど鉄壁の籠城になる」と警戒したと書かれています。ただですね、この「大津籠城合戦記」は江戸時代後期(1805年)に京極家家臣が書いた軍記物です。史料価値は低いです。

史料がない中、高次をどう評価するか?
客観的には「評価不能」という判定になると思います。なぜ「評価不能」なのか? その理由は、おおよそ以下のように考察しています。

  • 秀吉は謀反人の高次に、重要な機会を与えなかった

  • 後に秀吉は高次を信頼したが、身内なので危険な役目は与えなかった

そもそも秀吉時代の前半は、飼い殺しの扱いだったと推測できます。何しろ、明智光秀に加担していますからね。
一方、高次の立場に視点を変えて見ると、「余計なことをしない」「無理に手柄を取りに行かない」と考えたはずです。当時、秀吉の意向に逆らった織田信雄などは、たとえ織田家の筋目があっても、ひどい目にあっています。
高次が賢ければ、姿勢を低くして粛々と目の前の仕事をこなしていったでしょう。身内になったことで、秀吉との距離が中途半端に近づいています。それしか生き延びる手立てはなかったと考えられます。

しかし、秀吉時代の後半は違います。明確な記録にこそありませんが、秀吉から信頼を得たのは間違いないと思います。
何よりも大津城という要衝をまかされたことが、その信頼の証に思えるのです。当時の大津と琵琶湖の水運を担う船団は、秀吉にとってとても重要でした。繰り返しますが、さすがにこの出世が、女性のおかげとは思えません。
さらに、秀吉留守の名護屋城もまかされ、秀吉の晩年には、大津城で高次に何事かを相談した、という記録も残っています。

まとめ

秀吉政権下で、じっと姿勢を低くしていた京極高次は、天下分け目の関ヶ原合戦で、人生を賭けた決断をします。西軍を裏切り、東軍家康に味方し、大津城に籠城します。この決断に、周囲も驚きます。
同時代の日記「時慶卿記」や「義演准后日記」にも、「大津の義に世上騒し」「前代未聞の儀」などと書かれています。
大河ドラマなどでは、ほぼ描かれない大津城籠城戦ですが、東西両陣営にとって、彼の決断の影響は大きかったと思います。

出世の過程をたどっても、戦闘能力で京極高次を評価することは難しそうです。しかし、謀反人のライフゼロの立場から復活し、秀吉の信頼を得たのですから、武以外の実力があったと考えていいでしょう。
安定した豊臣政権下では、剣や槍で相手を倒す武力よりも、実務能力や人柄が高く評価された側面はあるでしょう。

私は、京極高次を、信長、秀吉、家康のもと、難しい時代、難しい立場にあって、着実に信頼を得た武将と評価したいと思います。
女性たちの影響が大きいのは事実ですが、逆に言えば茶々や初、そして北政所など女性たちからも信頼を得た人物だったと言えそうです。

次の記事では、その大津城籠城戦を高次がどう決断していくのか? その点を掘り下げてみたいと思います。
彼の決断を分析することで、京極高次の実力をもう少し深く理解することができそうです。

以上

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