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#347 松尾芭蕉は忍者だった?

「奥の細道」の作者として知られる松尾芭蕉。
俳諧を確立したことで知られる元禄文化の代表的な人物だ。

「松尾芭蕉は忍者だった」という都市伝説がある。
もちろん俗説だが、そう思われる原因がたくさんあるのだ。

①出身が「伊賀」

松尾芭蕉は、1644年、忍者の里として知られる伊賀で生まれた。
両親は直接忍者と関りがあったかどうかは分かっていないものの、母親が伊賀流忍術の祖の子孫なのではないかとする説もある。

②足腰が強靭すぎる

松尾芭蕉が奥の細道の旅を始めたのは1689年。45歳の時である。
東北~北陸~美濃をめぐる旅の旅程は2400kmとも言われている。
1日40kmほど、多い日は60km歩いたという。
強靭な足腰を持っていなければなかなか歩けない距離だ。

③移動が自由すぎる

藩が今でいう国家のような役割を果たしていた江戸時代、藩をまたいだ移動はそもそも難しく、通行するには関所を通るための通行手形が必要だった。
現代で言うパスポートのようなものだ。
また、5か月にもわたる旅費は莫大なものだった。
このような手形や資金は、実は松尾芭蕉に密命を与えていた藩や幕府が準備していたのではないかという説がある。

④日記と奥の細道の食い違い

奥の細道を製作する旅には、弟子である河合曽良が随行した。
曽良は、旅程を細かく日記にまとめており、現代に伝わっている。
しかし、奥の細道の俳諧と日記の旅程には、約80か所の食い違いがあることが分かっている。
このことから、松尾芭蕉には俳諧をつくることとは別の密命があったのではないかと言われいるが、実際は芭蕉の演出上の都合だったのではというのが有力な説だ。

また、実は弟子の曽良が忍者だったのではないかとの説もある。

⑤外様大名を監視するのが任務だった?

松尾芭蕉がめぐった藩は、仙台の伊達、越後の上杉、加賀の前田など、有力な外様大名が治めていた藩が多い。
このことから、外様大名の情報収集が真の目的だったのではないかとの説もある。

こうした理由から、松尾芭蕉が忍者だったのではないかという都市伝説が生まれた。信憑性は低いので、授業で使うかどうかはあなた次第です。

【目次】

【参考】


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