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岩手に行きたい 〜おくのほそ道・夏草やつはものどもが夢の跡〜

岩手県平泉町。
ここは世界遺産として認定されており、中でも中尊寺がポピュラーだ。

中尊寺金色堂

おくのほそ道って何?

20歳になるまでは岩手県なんて失礼を承知で言うと「田舎・山・地味」なイメージだった。
が、歴史を学び、おくのほそ道を習うととたんに平泉に行きたくなった。

そもそもおくのほそ道とは何か?
簡単に言うと芭蕉の旅日記。
とはいっても、文学性>正確性
俳諧を広めることも本書の目的の一つなので、面白く脚色してあることもしばしば。

芭蕉は古人の足跡を辿るため(今でいう聖地巡礼ですね)、旅に出ます。
この時芭蕉は46歳。決して若くはない年齢。相当の覚悟が必要だったはず。
しかしどーーーーーしても旅に出たい芭蕉は、ついに決意を固めた。そして曾良とともに東京から東北、北陸・岐阜まで2400キロの道のりを旅します。
歩いては一句、目的地に着いては一句。芭蕉のおくのほそ道旅、楽しかっただろうなぁ…。

ということで、俄然芭蕉と弟子の曾良の足跡を追いたい気持ちが強まり岩手に行きたくなりましたとさ!笑
今年の春にでも行こうかと考えているくらい。

さて、おくのほそ道 平泉の段の本文はこちら。

三代の栄耀(えいえう)一睡のうちにして、
大門の跡は一里こなたにあり。
秀衡(ひでひら)が跡は田野になりて、
金鶏山のみ形を残す。
まづ高館(たかだち)に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。
衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。
泰衡(やすひら)らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、蝦夷(えぞ)を防ぐと見えたり。

さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の草むらとなる。
「国破れて山河あり、城(じょう)春にして草青みたり。」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。

夏草やつはものどもが夢の跡 

卯の花に兼房見ゆるしらがかな 曾良

おくのほそ道は大体本文+一句の構成です。

しかしまぁ…
正直何言ってるかわからない。笑笑
わたしも初めはそうだったなぁ

簡単に言うと、
「義経が亡くなった場所・高館へ来た。かつて勢い盛んだった義経や藤原氏はもういない…あれほど栄えていた建物は夢のように消え、今では田んぼや野原になっている…。世の中や人の栄光は儚いものだなぁ〜涙。」みたいな感じ。

先程聖地巡礼と言ったように、芭蕉は歴史上の人物の足跡を巡っています。だから、さても、義臣〜より前は芭蕉と曾良が見ている平泉の景色の説明ですね。
景色の説明は難しく感じます。ただでさえ聞きなれない言葉が多いというのに。


最低限読解に大事なのは「さても〜しらがかな 曾良」のところだから安心してください。


夏草やつはものどもが夢の跡

夏草や、の「や」は切れ字と言い、感動の中心を表します。
栄華は儚く消え、夏草となっているもの寂しさや儚さが芭蕉の感動ポイント。
つはものは強者のこと。ここでは義経やその家臣、武士たちを表すでしょう。
「夢の跡」は義経や藤原氏の夢の跡。夢は一睡のうちに覚め、消えてしまったかのよう。

直訳すると

かつて栄えた平泉も、今となっては夏草が生えて物寂しい。この地で戦っていた義経や栄華を極めた藤原氏の夢の跡ようだ。

みたいな感じかな。


義経や藤原氏の関わり

なんで義経や藤原氏ばかり話にあがるかって?
それは平泉で義経が死んだからです。

もともと源平合戦ののち、兄・頼朝と義経は喧嘩して仲違いしました。
その時義経をかくまったのが藤原氏(藤原秀衡)でした。

「三代の栄耀」とは藤原清衡、基衡、秀衡を表します。この3人の時に藤原氏は繁栄し、美しい平泉の地を作り上げます。

しかし義経をかくまっていた秀衡と、頼朝がついにバトル…
結果的に義経・秀衡は負けてしまいます。
その時、義経が死んだところが本文にも出てくる高館(たかだち)ってわけ。(高館は別名「義経堂」とも言う)

高館 義経堂


ここで義経は負けを確信し自害。義経の子供、奥さんを殺したのは兼房(義経の家臣)。兼房もその後自害。


卯の花や兼房見ゆるしらがかな

曾良の句はこの兼房に想いを馳せて創られたものでしょう。
義経のために最後まで白髪を振り乱しながら戦う姿を、卯の花に見立てて詠んでいます。

卯の花

義経や藤原氏の聖地巡礼が済んだところで、次の一句は
五月雨の降り残してや光堂 です。

ではまた〜!

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