「僕は震災を知らない」
こんにちは。採用Gの田中です。
2011年3月11日に発生した東日本大震災。地震が起きたまさにそのとき、自分が何をしていたか、鮮明に覚えている方も多いのではないでしょうか。私もその一人です。12年が過ぎた今も、読売新聞の記者たちにとって、この震災は大きな取材テーマの一つです。今回は、地方支局に赴任した若手が、このテーマにどう取り組んでいるか、ご紹介したいと思います。
震災の時は日本にいなかった
震災、そして復興に向けた動きについて多くの記事を執筆している盛岡支局(岩手県)の広瀬航太郎(ひろせ・こうたろう)記者(2020年入社)です。神戸市の出身で、東日本大震災が発生したときは、父親の仕事の関係でドイツに住んでいました。「阪神大震災の後に生まれ、東日本大震災の時は日本にいませんでした。震災について語れないもどかしさやコンプレックスを感じていましたが、自分でも驚くくらい、震災報道に全力を注ぐようになっていました」。
国際部志望の広瀬記者、当初は、地方支局では、外国人労働者などの問題を取材したいと考えていたそうです。盛岡支局は、配属先の希望にも入れていませんでした。行き先が盛岡と告げられ、思いあたったのは宮沢賢治ゆかりの土地ということだけ。そして、しばらくして、好きだったNHK連続テレビ小説「あまちゃん」(2013年度放送)の舞台だったと気づきました。
赴任直後、当時の支局長にドライブに誘われ、陸前高田市の沿岸部を見て回りました。「更地に、家がぽんぽんと建っているだけという景色に衝撃を受けました。そこで、初めて被災地に来たという実感がわいてきたというか」。そして、新人の頃から、震災関連の取材のチャンスがあると、徐々に「やらせてもらえませんか?」と手を挙げるようになっていったそうです。
「震災に限らず、どんなテーマでも同じだと思うんですけど、知らないからこそ、もっと知りたいという気持ちが、モチベーションになったと思います。自分が経験してないからこそ、実際に(現場を)見た人の体験談を聞いて、それを文字に起こすことでしか私には、当時を再現できないので・・・。だからこそ、もっと教えてくださいという気持ちはすごくあったと思います」。
光る階段に込めた思い
震災でなくされた奥さんへの思いを胸に、長時間光る蓄光塗料を開発した塗装店社長・佐々木謙一さん(岩手県一関市)を取り上げた記事(2022年5月11日付)をご紹介したいと思います。
岩手県山田町の沿岸部にある光る避難階段。太陽光を明るいうちに蓄え、日暮れ後にほのかに光を放つ「蓄光塗料」が使われています。従来の製品よりも、長時間光る優れものですが、その開発をしたのは、東日本大震災の津波で奥さんを亡くされた、佐々木さんでした。次の災害が起きたとき、「一人でも多くの命が助かるように」との思いが込められているといいます。
取材のきっかけは、広瀬記者が山田町の避難階段について報じた記事を見かけたことでした。その記事では、塗料開発バックストーリーには触れられていませんでしたが、広瀬記者は手がけた塗装店を取材に訪れてみました。「岩手って、寡黙な人が多い印象があるんですけど、佐々木さんは周囲を巻き込むエネルギーがある方で。熱く語る姿に、一気にファンになってしまいました」。取材は4時間にわたり、しびれを切らしたデスクが電話をかけてきたほどだと言います。掲載された記事は、震災が起きたことへの無念さや、奥様への思いを込めつつも、前向きな内容になっていると、読んでいて私も感じました。
「震災の経験があったからこそ、今があるという人たちのストーリーはやっぱりすごく力強いです。ただ、その一方で、前を向いている人たちばかりではない、ということも忘れてはいけないと思っています」。記事が出た反響で、別の地域の塗装階段も、佐々木さんが手がけることになった、といううれしいおまけもありました。
テレビのニュースも手がけることに
23年3月、テレビ岩手のニュース放送でも、佐々木さんの蓄光塗料が取り上げられました。撮影やナレーション、そして編集までを担当したのは、もちろん・・・広瀬記者でした。
実はテレビ岩手は読売新聞と友好関係にあり、読売新聞・盛岡支局は、テレビ岩手にもニュースを提供しているんです。広瀬記者は企画書を書き、ビデオカメラで様々な素材を撮影。編集をして5分間のニュース映像にまとめ、ナレーションを自ら吹き込んでいます。大変だったことは何でしょう?
「やっぱり取材・撮影にとても時間がかかることです。5分のニュースですが、カット数は約300、延べ5時間分くらいを撮影しています」。ちなみに、新聞では、静止の写真を一つの記事につき、1、2枚使うのが一般的です。「ただ、その分、取材相手の様々な場面に立ち会うことになりますし、多くの時間を過ごしますので。新聞の取材もこれぐらいしっかりやりたい、頑張りたいなと、思う部分もありました」
初挑戦ながら動画での取材にも手応えを感じているようです。動画のニーズが増えていることから、読売新聞では近年、新人向けの研修でも必ず動画の撮影や編集方法について、取り上げています。
「あまちゃん」ファンとして
広瀬記者には着任当初から、温めてきた企画がありました。それは、自分が一ファンとして楽しんでいたNHK連続テレビ小説「あまちゃん」についての記事を書きたいということ。取材で沿岸部に出かけると、ドラマゆかりの場所に出くわしたり、ゆかりの人に出会うことがあります。そうしたエピソードは、少しずつノートに書き留めておきました。そして今年、あまちゃんは放映から10周年を迎えました。このタイミングを逃したら、書くチャンスはなかなかないかも、ということで、広瀬記者を始めとする若手3人で手がけたのが、「元気だべ!北三陸 『あまちゃん』10年」という連載です。5月に全5回にわたって、岩手県版に掲載されました(リンクからも、お読みいただけます)。
「あまちゃん」は劇中で東日本大震災が描かれますし、復興に向けた東北地方への思いが込められた作品です。撮影に協力し、登場人物のモデルとなったと言われる人、ドラマをきっかけに、主人公のように県外から岩手にやってきた人。地元を盛り上げ、復興につなげようと懸命に取り組む様々な人たちを、「あまちゃん」を横糸としてつなげました。取材した広瀬記者たちから、岩手県の人たちに熱い送るエールとも、感じます。
連載に登場した宮本慶子さんは、JR八戸線の食堂列車に、沿線から大漁旗を振って出迎える活動を発案した方です。もちろん、列車に乗って上京する主人公・アキを、祖母が大漁旗を振って見送るドラマの名シーンが元ネタになっています。「宮本さんとは、全く別の取材で知り合ったのですが、この活動の話はいつか、記事に使えるなと思っていました。連載の取材の時は、僕も列車に向かって旗を振らせてもらいました。何よりの思い出になっています!」
連載のテーマは、あまちゃんが残したレガシー、としました。「撮影の裏話だけで終わってもいけないけれど、ファンとしてはそういうエピソードも読みたいはず。一方で、放映から10年が経ったときに、このドラマが岩手に何を残したのか、というのをしっかり書こうと思いました。どちらか一方だけにならないようにと、バランスに気を使ったつもりです」。取材班に参加した若手の記者もドラマの大ファンで、取材はとても楽しかったそうです。
広瀬さん、記者のやりがいはどんなところにあるでしょう。
「取材相手は、肩書のある人たちばかりではありません。肩書はなくても、すごいバックグラウンドやストーリーを持っている人に出会うことがあります。その人たちの生々しい話を聞けるのが、本当に楽しみです」。
広瀬記者とは今回、初めてお話ししましたが、地方で取材すること、記事を書くことを楽しんでいることが、その口調からしっかり伝わってきました。だからこそ、地元の人たちにも受けいれられ、様々な話題が集まってくるのかも知れません。これからも、人事部一同、岩手発の原稿を楽しみに待っています!
若手のシゴト③
(取材・文 田中洋一郎)
※所属、肩書は公開当時のものです。
23年入社の新人記者2人が、読売新聞ポッドキャスト「記者ここだけの話」に登場しました。記者を目指している方は、ぜひお聞きください。読売新聞のイメージや記者を目指したきっかけなどについて、語ってくれています!