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だからわたしは、ズボンを履いた


#ゆたかさって何だろう 』というお題について向き合ってみたい。

公式noteのイメージ書いてあること。

・自分が心地よいと感じること
・自分にとっての特別な時間、場所、もの
・これから「ゆたかさ」「幸せ」の基準になっていくと思うもの、こと

あぁ、ゆたかさってなんだろう。


ものがあれば、ゆたかなのかな。
ほしいものがある。必要なものがある。
ものを持っていたら、誰かと分けることもできるかもしれない。

お金があれば、ゆたかなのかな。
ほしいものが買うことができる。なくては生活ができない。
嗜好品を楽しんだり、贅沢することだってできる。


だけれど、なんとなく自分の中でゆたかさに繋がらない気がしてしまった。
もちろん、ないよりはあった方がゆたかではあるのかもしれないけれど。

それなら、わたしの思うゆたかさってなんだろう。


そんなことを考えているうちに、ひとつ思い出したことがある。

中学3年生のころ、わたしは少しだけ不登校の時期があった。

不登校と言っても、なにか気を病んでいたわけでもなく、勉強がきらいだったわけでもなく、ただたんに制服が着たくなかった。
部活動を引退してからは、頑張って学校に通う理由を感じられなくなってしまった。

思春期まっただ中の、多感な時期だった。
言い換えてしまったら、そんな一言に集約されてしまうけれど当時は必死だったんだと思う。

制服はわかりやすく、「学生」であることを示していて、さらには「男性」であること「女性」であることを表現してくれる。
わたしは学生だったし、女性。
それを制服を着ることで誇示している気持ちになってしまって、制服を着るとうまく笑えなくなってしまった。

LGBTとかではなくて、女性であることに少しだけ疲れた時期だった。
まだ女性にもなりきれていなくて、女の子だった学生時代の少女は弱かった。そんな弱い自分がつらかった。


中学2年生のころ、これまた多感というか、好奇心が芽生えた男子学生が更衣室を覗いたり、下品な言葉を言っていることに心底うんざりしていた。

こころの中ではいくらでも抗える。
だけれど、実際は持ち合わせている力も違う。身長の小さなわたしにとっては、男性はこわい存在だった。少女である時代は、きっと赤ん坊とご老体の方々の次に弱い存在だった。


そんな中で、ある時なにを思ったのか「男の子と同じスラックス」を履いて登校してみた。

生真面目な性格だったこともあって、校則や生徒手帳を確認してみると『男子生徒と同じものであれば、女子生徒のズボン着用を認める』という一文を見つけた。

すでに卒業している1つ上の先輩に連絡をして、中学生時代に履いていた制服を譲ってもらった。
丈は長すぎたため、アイロンで糊付けできるタイプのもので自分で裾上げをした。

教員には嫌な顔をされて、近所では不思議な視線を向けられた。
信号を渡っていると、視線が絡みつくのを感じた。
それもそうだよね、当時はまだランドセルだって赤と黒しかなかったんだもの。
男らしさもない顔つきと体つきで、ズボンの制服を着ているのはきっとちぐはぐに見えたんだと思う。

それでも、不登校からは脱出した。
卒業式は教員から懇願されて、スカートで出席することになったのだけれど、それ以外はずっとズボンを履いて過ごした。


わたしの感じている「ゆたかさ」は、きっとここにある。

それを言葉にするのであれば、「自由」であったり「多様性」や「こころの安定」なのかな、きっと。

制服をスカートからズボンにしたところで、わたしの力が強くなるわけでもなければ、身長が伸びるわけでもない。
なにも変わらない。なにも変われない。

それでも、わたし自身が感じていた弱さを誇示している感覚がすこしだけ抜け落ちていく心地がした。
すこしだけ胸を張って生きられるようになったことで、明らかに見ることができる景色がちがっていた。


学生という限られた時間で、学校という限られた空間で、わたしは自分で息をしやすくなる方法を見つけた瞬間だった。

だれかの言う正解は、いつも自分にとっての正解とは限らない。

自分で考えてみること。自分で試してみること。
一歩踏み出すことは周りから好奇の目で見られることもあるけれど、自分が大丈夫と胸を張れたらこわくないということ。
経験して、はじめて気づいたことだった。


「ゆたかさ」も「しあわせ」の基準も、きっと自分で見つめていくことで編み出すことができる。

そして少しずつ、周りの人に分けていくことができるもの。
その基準を押し付けるのではなくて、だれかの話を聞くことだったり、声をかけることだったり。そっと寄り添っていけるもの。

日々、世界が広がっていく中で、共通の正解はきっと存在していない。
ここにあるのは規則であって、正解は示されていないんだよね。

どことなく違和感を感じるなら抜け出したっていいはずだし、目の前に広がる景色だけしか存在していないわけではない。
きっと幸せも、不幸せも感染していくものだから、自分のことを幸せにすることで世界に生まれてくるゆたかさがきっとある。

抱えていた荷物がすこし減らすことができたら、となりのあの子を手をつなぐことができる。
その時に生まれたぬくもりが、きっと「ゆたかさ」。
自分の中に生まれた心地よさを、誰かと育んでいく。やさしく。

それがきっと、自分にとっての特別な場所になって、心地よさを感じるんじゃないかな。


ゆたかさってなんだろう。

それはきっと、毎日の何気ない暮らしの中で築いていくものなのかもしれない。


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Aina ☺︎
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