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過去の自分にもう一度出会ってみた


昔に書いていたブログを読み直したり、昔のnoteにある誤字を修正しながら最近はゆったりと過ごしている。

自分が体験したうえで綴ったことなのに、案外忘れていることがあるものだなぁなんて思う。
あんまに落ち込んだり、あんなに悩んでいたことも、忘れてしまっていたこともたくさんあって、嬉しかったことや乗り越えたあとに笑ったことの方が覚えていたりもする。まぁ、それさえも忘れてしまっていることも多いけれど。


オーストラリアのワーキングホリデー2年目に突入した時、かねてより決めていた「メルボルンでバリスタになる!」という夢を掲げて仕事探しをしていた。

バリスタになるためには「経験がある」ことと「証明書」がある2つが必要なんて話を聞いていた。
そのため、1年目は「証明書」をとるために1ヵ月学校に通って基礎を学んだ。

振り返ってみるとその時は大都市のシドニーに住んでいたので、仕事を探すことはできたはずだった。
それでも「まだ証明書がないから」と、自信がないことを差し置いた言い訳を盾にして仕事探しをしなかったんだよね。
そして証明書を手に入れた時は安易に、「これで仕事が見るかるはず」と探していなかった仕事に対しても「証明書がないから仕事がなかったんだ」と自分のことを正当化した。

実際のところ、証明書があったとしても経験不足かつ英語力も足りなかったわたしは、仕事を見つけることに1ヵ月もかかった。履歴書は300枚印刷したものがほとんど手元に残らない状態だった。

経験不足も英語力が足りないことも、自分自身わかっていたことではあったけれど「証明書を取った」ことが変な自信になっていた。
その状態で仕事が見つからないことは、自分自身に足りないことがある照明になってしまう気がしてこわかった。そんな現状を見つめ直したくなくて、毎日仕事を探していた。


自分の人生にとって、すごく大きな出来事だったからもちろん覚えてはいる。

だけれど、そんな1ヵ月に思っていたことや何気ない日常までは覚えていなかった。
仕事がないことの焦りや、お金の不安から毎日$2のビスケットを食べて過ごしたこと。仕事が見つかっても朝早い&夜遅いため、ルームメイトに嫌な顔をされたこと。アルバイト先のイタリア女性がいつも厳しくて口も悪いのに、打ち解けたらめちゃくちゃいい人だったこと。

こんな日常の忘れたくないことを忘れてしまっていた。
頑張っている過程のことや、頑張った先にあった景色が、自然に溶け込みすぎて当たり前に感じていた。だけど、そうじゃなかったなぁ。


過去を遡ると、いつも過去の自分が背中を押してくれている気がしてしまう。

頑張ったこと、だれが認めてくれなくても、だれも褒めてくれなくても、ちゃんと自分の中にあるんだよね。
忘れてしまっても、たしかにあった。
だけれど、忘れたくないから今日もnoteを書いている気がする。

あの時の自分、ちょっとかっこよかったな。
そんな風に思えたら、その先にいる今日の自分も好きになれる。
かっこよかったあの日の自分が、いつだって隣にいてくれたんだ。

この先どうなっていくかわからない未来でも、自分だけはいつまでも一緒にいて、いつまでの自分のこと見ている存在なんだ。

今日頑張ったことが、1年後の自分の背中を押す瞬間があるのかもしれない。

なんのために頑張るかわからなくなった時、きっとこれは未来の自分のためなんだと思って、あと少しだけ頑張ってみたい。
過去の自分ともう一度出会うことで、そんなことを思えた日。


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