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夜明け

ここは船の上。荷物は船室に置いてきた。今が何時だかわからないが、部屋を出たときは既に三時を回っていた。月も星も見当たらない。周りにはただ、船の灯りが映るばかりの黒々とした海が、どこまでも続いていた。

***

二泊三日の帰省を終えて船に乗り込み、八時間以上が経過していた。
久々に帰省した私を、母は温かく迎えてくれた。父は出張でいなかった。
元気にしていたか、仕事は順調かとの問いに、うん、大丈夫だよ、それよりお母さんたちはどうしてた、と問い返す。元気よ、この前お父さんがね、なんて母が顔をほころばせながら深夜まで語り続け、私は相槌を打ちながら耳を傾けていた。

もう帰っちゃうの、あっという間ねえ、体に気をつけなさいね、と船着き場で見送られ、お母さんもね、と別れた。

とうとう言い出せなかった。
本当は、言わなければならないことを言うために帰ったはずだった。でも、いざ母を前にすると、口に出すのが憚られた。

***

はあー…
「ずいぶんと深いため息ですね。幸せ逃げますよ。」
こんな真夜中に甲板にいるのは私くらいのものだろうと気を抜いていたので、驚いて振り向くと、私と変わらないくらいの男性が悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらを向いていた。
「あなたに関係ないでしょう。」
「関係ありませんね。気分を害されたようでしたらすみません。」
素直に謝られ、面食らってしまう。
「ここいいですか。」
「別に、私だけの場所じゃありませんので、どうぞ。邪魔なら戻ります。」
「邪魔だなんてとんでもない、どうぞそのまま。ここは、この船で一夜を共にするみんなの場所ですから。」
「はあ。」
どっかりと隣に腰を下ろし、それっきり彼は何も言わない。ただだだっ広い海を見つめるばかり。
私も海を眺める。

どれだけの時間そうしていただろうか。
暗い海に吸い込まれそうな気持ちになっていると、声が掛かりはっとした。
「僕、カメラが趣味なんです。」
「へえ。」
「この船でも何度も撮りました。でも、一度たりとも同じ景色は写らないんです。同じ航路でも、天気も、気温も、潮流も、何もかもが違う。だからいつも新鮮な気持ちでカメラを構えます。」
「こんなに暗くても、何か写るんですか。」
「見てみますか。ちょうどさっき撮ったばかりの。」
逡巡していると、ほらっと、カメラを差し出される。ずっしりとした重みを感じる。ここを押してくださいと言われたボタンを押すと、真っ暗なはずの空に小さな星がいくつか光り、漣が立つ海が写っていた。
「星、出ていたんだ。」
「ええ。」
「仕事を始めてからどんどん視力が落ちて、この前測ったら眼鏡がないと運転できなくなってました。夜空を見上げても星なんて見えなくて、悲しくなるからもうずいぶん夜空なんて見ていなかった。」
「ファインダー越しに見える景色は、普段より鮮やかなんです。夢中でシャッターを切って、とっておきの一枚を撮れたときの喜びは何にも代えられません。」
「そんな趣味を楽しむ気持ち、もうずいぶん昔に置いてきました。夢だった仕事をやっと任されて、嬉しかったはずなのに、仕事に追われ、成果も上げられずどんどん辛くなって、気づけば七年続けた仕事を辞めていました。就職先も見つからないまま、アルバイトで生計を立てながら、私何やっているんだろう、これからどうなるんだろうって。親に報告するために帰省したのに、言えずに帰りの船に乗ってしまったんです。ごめんなさい、こんな話。」
それっきり、彼は黙り込んでしまった。ああ、初対面の相手に何を言っているんだ私は。船室に戻ろうと腰を上げた。
「待って。」
「え。」
「他の写真も見ませんか。月が出てたときとか、満天の星空のなんかもあります。」
「でも。」
「眠かったらいいんです。眠れないなら、見ていきませんか。」
そう言うと、おもむろに鞄からアルバムを取り出した。
「これ全部、この船から撮ったんですよ。行きのライトアップされた橋も綺麗なんですけど、僕は街が全く見えなくなった海の上の景色が好きなんです。まるでたったひとり、僕だけがこの世界を独り占めしてる気分になるんですよね。」
彼が捲るアルバムには、確かにどれ一つとして同じ写真はなくて。月明かりに照らされた海も、天の川が流れる空も美しかった。
「凄いですね。本当にみんな違う。どれも綺麗で素敵なんですけど、私、最初に見た今夜の一枚が目に焼き付いていて、好きだな。」
「嬉しいな。迷惑じゃなければ、現像したら送りますよ。あ、見知らぬ男に住所教えるなんて」
「欲しいです。ペンと紙ありますか。住所書くので。」
「いいんですか。」
「お願いします。」
「必ず送ります。」
「待っています。」

***

「あ。」
彼の指差す先は、いつの間にか白み始めた空に、太陽が昇るところだった。
「綺麗。」
なぜだか涙が出て、慌てて拭う。
「いつ見てもやっぱり綺麗です。」
そう言うと、シャッターを切り始めた。夢中でシャッターを切る彼が眩しく見えたのは、太陽のせいだけではなかった。

「そろそろ支度するので。」
「そうですね。お邪魔しました。」
「こちらこそ。写真、楽しみにしていますね。」
「待っててください。」

***

自宅に戻り毎日郵便受けを覗くが、入っているのはチラシや公共料金の知らせだけ。

今日も来てないかなと半ば諦めながら摘まみを捻ると、二通封筒が入っていた。
一通目は母から。
そして、もう一通目は。
「船上の君へ」

急いで自宅に戻り封を丁寧に切る。
そこには三枚写真が入っていた。
あの夜空と海。
海から顔を出す朝日。
そして三枚目は…こんなのいつの間に撮ったんだろう。手すりに凭れ佇む私。
裏に文字があった。
「初めて人を撮りました。
 あの夜を、あの朝を、僕は忘れません。」

母からの手紙にはこう綴られていた。
「あなたはがんばり屋さんで、ひとりで溜め込みがちだけど、何かあってもなくてもいつでも帰ってきなさいね。ここはいつまでもあなたの家だから。」

熱くなる目頭を押さえながら、筆を執った。

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