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『弱者的思想』 -DaiGo炎上に思うこと-


DaiGoがとんでもない炎上をしている。

私的制裁の是非はともかく、各種団体から抗議が来るのは当然だし、間違ってもDaiGoが可哀想だとは思わない。

今回の発言にたいして、よく「優生思想」という言葉を見る。優生思想の意味を書く気はないが、まァ、弱者はくたばれ、という思想、とでもいえばいいか。

しかし私の感想は違う。むしろDaiGoは「弱者的思想」ではないかと。
これはよくいわれることだが、気の弱い者ほど攻撃的である。私もいろいろな人間を見てきたが、気が弱い人間がもっとも傷つくのは「あなたは気が弱い」と指摘されることなのだ。そこだけは死んでも避けたい。

だから反転したように「自分は気が強い人間である」と見せようと躍起になる。

気が強い=攻撃的、ではないのだが、どうも、その辺の発想が幼稚というか、他人に攻撃的でさえあれば気が弱いと悟られないと思っているのか、それはわからない。

しかしDaiGoであったり、名前は出さないが某芸人や某元社長、某掲示板管理人もそうなのだが、彼らに共通する特徴として、異様に「まくし立てる」ように喋る。

とにかく隙を作るのが怖い。ツッコまれるのが怖いのかもしれない。


ただ、本質的に異常なほどセンシティブなので、軽い「からかい」が彼らには通用しない。あからさまなジョークであっても、そこから「自分を見下しているのではないか」という箇所を見い出し、そこをあげつらってしまう。
いや、あげつらうくらいならまだいいのだが、ここで「つい」本性が出てしまう。つまり、攻撃性を発揮してしまうのだ。

はっきりいえば彼らは矛盾の塊である。自分はセンシティブで傷つきやすいのだから他人の傷にもセンシティブにもなってもよさそうなのだが、他人の傷には異様にインセンシティブで、口汚い言葉を平気で発してしまうのだ。

これは某掲示板でよく見る意見だが、自分が気が弱いというのを「優しい人間である」と都合良く解釈している人が結構いる。

しかし私の考えは逆だ。気が弱い人で優しい人をほとんど見たことがない。私が接した本当に優しい人は、みんな自分をちゃんと持っていて、常に精神的な余裕がある。

考えてみれば当たり前の話なのだが、自分に余裕があるからこそ他人に優しくできるのだ。常に自分にいっぱいいっぱいで、誰かが攻撃してこないかアンテナを張ってるような気の弱い人物が他人に優しくできるわけがないのである。

つまりはこういうことである。

DaiGoに限らず気の弱い人は、自分は常に攻撃される側の弱者だと考えているフシがある。いくら口汚い言葉で罵ろうが、まさか、自分が攻撃してるなどとは思うわけがない。あくまで自己を守るための行動でしかないのだから。

たしかにDaiGoの今回の発言内容だけを取り出せば優生思想に近いかもしれないが、日頃の彼らの言動を見ると、これは「自分は弱者だ。弱者なのだから何をいっても構わない」という思想を濃厚に感じるのである。

世間的にはDaiGoは強者に属する。いや、これは自身の努力によってだろうが、自らの力で強者にのし上がったのだ。

しかし人間、根本は変わらない。あいも変わらず中身は弱者のままである。気の弱さからどうしても自分を強者だとは思えず、弱者の立場から発言してしまう。弱者の立場=弱者の人たち全般の立場からならいいのだが、結局は弱者=自分でしかないわけで、自分のことしか考えていないということを考えれば「ただのわがまま」なだけかもしれない。

私から何かいえることがあるとするなら、ただ一言、もうバレてるよ、と。気の弱さを隠し通そうとするなんて無理だし、ましてやDaiGoほどの著名人ならなおさらだ。

そこを頑張るのはおよしなさい。自分がボロボロになるだけなんだから。



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