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江戸時代の身分制度は、ほぼ建て前?

今、『服部半蔵 天地造化』という作品で、室町時代(戦国初期)を書いています。
ゴールは、半蔵の主君徳川家康が天下を取る江戸時代ですが、その百年前、初代半蔵保長の誕生から描きたかったためです。

室町時代についてはあまり詳しくありませんでしたが、いくらか知るうちにとても驚きました。家柄主義、血脈主義がすごいということです。
江戸時代ももちろん、将軍家や大名家は血統を重んじましたが、何となく違う気がします。

室町時代の、源氏を中心とした家柄主義、貴族主義は異様に思えます。私はダブル源氏(父方も母方も源氏)ですから、あまり源氏のことを悪く言いたくはありませんが、それでも肯定はしづらいのです。

武士はもともと公家などに対してひどいコンプレックスをもっていました。しかし、武家による実力支配が続く中で、将軍や一部の大名が貴人と化し、今度はその身分を振りかざすようになったと考えられます。

典型的なのが、室町時代に頻繁に起きた足利将軍の流浪です。足利家は御家騒動を繰り返し、敗れた側の将軍は一時的に都から逃げ、他国の大名などを頼りました。つまり、将軍はもはや武力では、全国最強の存在ではなくなったのです。それでも、彼らは将軍であり続け、機をとらえてまた都へ戻ろうとしました。
由緒正しい源氏の血統さえあれば、力や特別な才能がなくても、自動的に将軍になるという発想が生まれていたのです。

平安貴族に加え、一部の武士までが貴族と化し、既得権益にしがみついた。この状況を打開しようと、民衆が立ち上がったのが戦国時代だ、という考え方があります。戦国の混乱は、ある種の民主化闘争でした。
人間は皆、平等である。源氏の子でも庶民の子でも、武力や知恵さえあれば、同じように国を盗り、治めることができる。そんな夢に向かって皆が野心的に戦いました。

織田信長が出てきて、室町幕府がついに滅びました。京都や上方周辺の人々にとって、これは大きなショックだったと考えられます。
しかし、信長はまだ武士でした。農民や商人に比べれば、織田家という大きな武家の跡取りでしたし、それなりの英才教育も受けていました。
織田家は平氏を称していますから、源氏の天下が終わり、また平家が台頭してきたのか……。
そのくらいのインパクトだったかもしれません。

ところが、次に驚くべき人物が現れました。豊臣秀吉です。秀吉は完全な庶民であり、その彼が全国統一を成し遂げたのです。
秀吉は都で、様々な強権を発動しました。信長のように遠慮することはありません。京の町を大改造し、自分流に、言い換えれば甚だ合理的に、都の再構築を計りました。
武士の力を恐れる公家などは、なすすべもなく従ったのだと想像できます。秀吉を関白、太政大臣にして、かなり自由な政を許しました。

しかし、もう一つ重要なことがあります。この時代、源氏や平氏といった名門の武家が、すべて豊臣家の家臣になったということです。足利一門も、室町政権を取り仕切った細川家などの名族も、すべてです。
秀吉は、いわば大統領のような存在だったと思います。選挙戦ではなく、全国民を巻き込んだ本物の戦いで天下を取った人物でした。実力と人気があれば、家柄など関係ないのです。

ビフォー秀吉とアフター秀吉で、日本人の価値観は大きく変わったと思います。
源氏や平氏などのように特別視され、尊ばれてきた人々……彼らも、負けることもあれば、庶民に頭を下げることもある。そんな現実を、皆が知ってしまったのです。
「血統」と「有能さ」が必ずしも一致しないことを、全国民が認識してしまいました。

その後、江戸幕府を開いたのが徳川家康です。徳川家は源氏を称しましたが、怪しいところがありました。足利将軍の子などでないことは、誰でも知っていたでしょう。
家康が、秀吉に頭を下げて臣従していたことも、世には明らかでした。

徳川家康は「神君」と呼ばれましたが、それは別に、特殊な生まれや血統の貴人という意味ではありません。「非常に素晴らしく、信じられないほどすごい人物」というような意味でしょう。

そういう観点では、秀吉も「神」でした。現代の若者がいうところの「秀吉、マジ神!」とか、「家康、マジ神!」という感覚に、近いものがあるかもしれません。

江戸幕府は徳川将軍家の権威を高めるために様々な工夫や努力をし、何とか政権を安定させました。多くの大名達もこれに従い、協力します。
しかし、皆、腹の中では知っていたのです。これは建て前に過ぎないのだと……。

庶民も、実はよく分かっていたと思います。
例えば、江戸時代の商人の中には、もともと武士で、戦国時代に侍をやめた人も多くいました。近江商人などはその例だといわれています。彼らは、自分達が江戸の武士より劣るなどとは、考えていなかったでしょう。

今、近江商人の「三方よし」の精神が世界的に注目されています。「ステークホルダー資本主義」などという大層な名がついているようですが、要するに「売り手よし、買い手よし、世間よし」です。
これまで、ビジネスの世界ではwinwinという言葉がよく使われていました。しかし、それはまだ狭い考え方でした。winwinだけの関係なら、時代劇に出てくる悪徳武士と越後屋でも築けます。

「三方よし」の要、「世間よし」という考え方は、どこから生まれたのでしょうか。彼らには思いやりの精神に加え、物事を長期的に見る賢明さがあったと思います。
これを育んだ土壌は近江という国にあったと、私は考えます。
近江国は京の都の隣に位置します。室町将軍とも密接に関わっていた土地です。近江の人々には古くから、どこか「公」の感覚があったのではないか。そんな風に思うのです。

織田信長の時代には安土城が築かれ、近江は天下に号令を下す拠点ともなりました。

近江商人が武士の末裔だとすれば、彼らには誇りがあったはずです。自分達はただ商いをするのではない。ただ金を稼ぎ、暴利をむさぼるのではない。社会に貢献する「公儀」の役人と同等の人間だ、という意識で仕事をしたのでしょう。

徳川幕府は「家」を重んじましたが、血統に関しては抜け道だらけでした。譜代大名の分家筋に優秀な子がいれば、大名本家の養子とし、幕府の重職に取り立てたりしました。身分はなくとも、優秀な学者などがいれば、招いて意見を聴いたりもしました。
女性は庶民の娘でも、側室として貴人に嫁ぐチャンスが多いため、芸事や礼儀作法を身につけようと躍起になった娘や、その親たちがいました。

江戸幕府は、室町幕府とはかなり違っていたのです。
そして、最後も……徳川将軍は、非常にあっさりとした態度を示しました。幕府の武力で全国を平和に治め切れる、という確信を失った途端、大政奉還をしたのです。自ら国権を手放したのでした。
将軍の子孫だ。徳川家康の直系だ。これが自動的に、将軍の権益を保証するものではない、ということを徳川将軍は知っていたのです。

この世は皆のものである。それが、家康以来、徳川将軍が大事にしてきた考え方でした。
自分がもつ身分や、社会的役割などは、常に変化し得るということです。
すべては建て前であり、方便ということでしょう。

ただ、江戸時代も二百六十年以上続くと、その家柄主義を本気で信じる人々が、また増えたと考えられます。
これが近代以降、崩れ去りました。
日本の民主化、近代化が非常に早かったのは、戦国時代の記憶と精神がうっすらと残っていたおかげかもしれません。
ただ、江戸時代の良さを忘れ、好戦的になってしまったのは残念なことでした。

今後、日本は……そして世界は、どのような建て前や制度をつくって世の中を治めていくのでしょうか。
「人間は皆、平等だ」と、地球上の人みんなが知ってしまったこの世界で……。

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