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行間への想像を道草で促す創作の技術

「エモい」「情緒がある」「味わい深い」と評されるエッセイ、詩、歌詞、小説で使われる定番の表現技法があります。それは、本筋から逸れて具体的な物事を簡潔な語句にすることで、情景や心情に奥行きを生み出し、読者に想像を促すという表現技法です。「チェーホフの銃」と逆です。この記事の前半では魅力的な文学作品・音楽作品の例を上げて解説し、記事の後半では魅力的な作品を書く方法を解説しています。約6900字の全文が無料です。名乗り遅れましたが、街河ヒカリと申します。

さっそく例を読んでみましょう。最初の例は文月悠光さんの本『洗礼ダイアリー』です。文月悠光さんは詩人ですが、『洗礼ダイアリー』はエッセイ集です。収録された「日記帳のわたしへ」というタイトルのエッセイでは、日記が未来の自分に宛てた手紙のようなものであることと、日記を読むことで過去と再会することを書いています。文月悠光さんは十歳のときから日記を書くことを習慣にしています。

 最初の日記は、二〇〇一年八月三十日。左手の形を鉛筆でなぞり、手形をとっている。
 今、手のひらをあてがうと、その手形から二センチほど指がはみ出る。十歳の手と、二十四歳の手がひたと重なる。
<ど~でもいーけど今日から日記をかくことにした。たぶん、ぜったい三日ぼうずになると思う>。砕けた一文で始まった文章は、抜き打ちの漢字テストのことや、プールの授業で好きな男子にからかわれたことなどをイラスト付きで語っている。Bの鉛筆で刻まれた字は、くっきりと力強い。

文月悠光「日記帳のわたしへ」『洗礼ダイアリー』p.178-179、ポプラ社、2016年

ただの「鉛筆」でなく「Bの鉛筆」と描写しています。Bの鉛筆で書いた字は、HBよりは濃い黒色になるでしょうし、2Bや4Bよりは薄いでしょう。直後に「刻まれた字は、くっきりと力強い」と続いています。この文脈があることで、読者は文字の色と形を想像することができます。鉛筆を紙に当てたときの感触や、鉛筆を握る十歳の小さな手にまで想像が膨らみます。

エッセイ「日記帳のわたしへ」は、鉛筆についてのエッセイではありません。「Bの鉛筆」を書かなくてもエッセイが(一応は)成立します。しかし「Bの鉛筆」と具体的に描写することで、身体性を伴った実際の行為として感じることができます。行に書かれた情報を文字通りに受け取るだけでなく、行間まで味わうことができます。

洗礼ダイアリー

画像:『洗礼ダイアリー』の表紙

せっかくなのでリンクを貼ります。『洗礼ダイアリー』の出版社のページはこちら。Amazonページはこちら。文月悠光さんの公式サイトはこちら

次の例はBUMP OF CHICKENの楽曲『記念撮影』の歌詞です。『記念撮影』は日清カップヌードルのCM「HUNGRY DAYS アオハルかよ。」に起用されました。サザエさん、アルプスの少女ハイジ、魔女の宅急便、そしてONE PIECEが、元のアニメとは違う絵柄と違う設定でCM化されました。

『記念撮影』には、夢を見ているような浮遊感があります。

目的や理由のざわめきからはみ出した 名付けようのない時間の場所に
紙飛行機みたいに ふらふら飛び込んで 空の色が変わるのを見ていた

遠くに聞こえた 遠吠えとブレーキ 一本のコーラを挟んで座った
好きなだけ喋って 好きなだけ黙って 曖昧なメロディー 一緒になぞった

BUMP OF CHICKEN『記念撮影』

「遠」という字が2回も書かれています。おそらく「君」と「僕」は遠吠えをする動物の姿を見ていないでしょうし、ブレーキの音源である乗り物を見ていないでしょう。しかし二人の間の「一本のコーラ」は視野に入っているはずです。遠くと近くの対比で、情景が彩り豊かになります。しかもコーラ。具体的です。ビールでもコーヒーでもタピオカでもなく、コーラ。

あれほど近くて だけど触れなかった 冗談と沈黙の奥の何か
ポケットには鍵と 丸めたレシートと 面倒な本音を つっこんで隠していた

BUMP OF CHICKEN『記念撮影』

「丸めたレシート」がお見事です。折り畳んだレシートでなく、財布の中のレシートでもなく、「丸めたレシート」。コーラを買ったときのレシートでしょうか。「つっこんで」もお見事。もしかしたら、「僕」は「本音」を声に出せず、どうしていいのか分からず困惑してしまい、思わずポケットに手を入れて鍵とレシートを触ったのかもしれません。しかしこの解釈が正しいか、わかりません。

「僕」は一体どんな気持ちなのでしょう。

『記念撮影』の歌詞の本筋は、「君」と「僕」の関係と時間の流れであり、ほとんどが抽象的に表現されています。しかし「遠吠えとブレーキ」「一本のコーラ」「鍵」「丸めたレシート」という具体的な語句が宝石のように鏤められたことで、一気に味わい深く、情緒豊かになっています。しかもそれらの語句は『記念撮影』の本筋ではありません。無くても(一応は)歌詞が成立しますが、あるか無いかでは大違いです。

次の例は洛田二十日(らくだはつか)さんのショートショート集『ずっと喪』(ずっとも)に収録された「つきのうら」です。洛田二十日さんは独特の感性の持ち主です。私(街河ヒカリ)の知人でもあります。

「つきのうら」の登場人物は、主人公の「僕」と宇多川さんです。二人はまだ子どもですが、小学生か中学生か高校生か、本文中では明かされていません。「三時間目を控えた廊下」で「僕」と宇多川さんは、今日の夜に学校のプールに行って一緒に月を見る約束をしました。

もし夜に学校のプールに忍び込んだ、まして宇多川さんを連れていったなんてことが親や先生にバレたら僕は死刑、よくて終身刑、最も怖いのはケバブみたいに体の肉をナイフで削られるやつだ。 

洛田二十日『ずっと喪』p.152、キノブックス、2018年

それでも「僕」と宇多川さんは月を見るため夜八時のプールに忍び込みました。BUMP OF CHICKENの『天体観測』かよ。

 宇多川さんが不安そうに空を見上げる。なんだか夜が腫れている。満月の表面には、お母さんや先生、それに風邪で休んだ時に観た教育テレビの恐竜に教わった通り、ウサギが餅をついていた。雲がじわじわと満月で待ち合わせしようとしている。
「ほら、雲で隠れちゃうから!」
 宇多川さんが焦っていたのはこのためらしい。

洛田二十日『ずっと喪』p.155、キノブックス、2018年

「晴れている」でなく「腫れている」と書き、「雲がじわじわと満月で待ち合わせ」と擬人化する表現もお見事ですが、私はそれより「教育テレビの恐竜」に笑いました。恐竜って何だよ!とつっこみたくなりました。がんこちゃんか?

先に引用した箇所でも「僕」は「ケバブ」を想像していましたし、どうやら「僕」は落ち着きがない性格の持ち主で、次から次へと何かを想像し、何かを思い出す癖があるようです。だから「僕」は「お母さん」から「恐竜」まで結びつけたのでしょう。

「僕」は「お母さんや先生、それに風邪で休んだ時に観た教育テレビの恐竜に教わった」と想起しています。「恐竜が言っていた」でなく「恐竜に教わった」と捉えるところから、「僕」の真摯な性格が感じられます。

しかもわざわざ「風邪で休んだ時に観た教育テレビ」とまで詳細に想起しています。この想起は生活感に溢れていて、「僕」の生身の体験として伝わってきます。

「つきのうら」のストーリーは<夜のプールで一緒に月を見る「僕」と宇多川さんの関係>を軸に進んでいます。二人が満月を眺めた場面で、作者の洛田二十日さんは、満月の美しさや、「僕」から宇多川さんへの想いを書くこともできたはずです。しかしそうは書かずに「風邪で休んだ時に観た教育テレビの恐竜に教わった」と書きました。

「僕」の想起を具体的に、しかもピンポイントに描写することで、ギャグのようにもなり、「僕」の個性が表れ、直接は書かれていない「僕」の人生が行間からにじみ出ています。

ずっと喪

画像:『ずっと喪』のカバー

『ずっと喪』のAmazonのページ、洛田二十日さんのnoteTwitterへのリンクを貼っておきました。洛田二十日さんは放送作家でもあります。プロフィールはこちら

一見すると余計にも思え、唐突にも思える「具体的な語句」が、行間に光を当て、読者の心を動かすことがあります。

作品に書かれた言葉(=行)は、その作品の、ほんの一部でしかない。読者の知らないところ(=行間)で作者と登場人物たちは生きていて、世界(=行間)は読者が知っているよりもずっと広く、深い。行間の余白の「わからなさ」と「生命力」が読者の想像力を刺激したとき、作品を「エモい」「情緒がある」「味わい深い」と感じるのではないでしょうか。

さて、ここまで解説した具体的な語句を使う表現手法は、それほど特別なものではありません。ある程度の実力がある人であれば、ほとんど何も考えずにこのような語句を活かして表現しています。この記事を読んだ皆様の中には「この記事を書いた人は、こんなに平凡なテクニックをすごいテクニックだと思っているの?」と呆れた人もいるかもしれません。とはいえ、実は意外と知られていないのでは、と考えたので、私(街河ヒカリ)は記事にしました。

分かりやすくするために、これらの効果的な語句に名前を付けたいと思います。

しかし困りました、名前を思いつきません。そこで私はこの記事を下書き保存し、気分転換も兼ねて近所のミニストップへ歩いて行き、郵便ポストに封筒を入れ、また自宅へ歩いているとき、道路に生えていたエノコログサが目に留まりました。

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これが、私が見たエノコログサです。

私は記事を書いてたのに、道草を食っている。目の前に、本当の道草がある。

これだ。

道に生えている草のような、なにか具体的な言葉を書いただけで、その作品が一気におもしろくなることがあります。本筋から逸れるときに「道草を食う」と言う。「道草」にはたくさんの意味が掛かっている。この記事で私が解説した言葉は、まさに「道草」だ。

そこで私は名前を付けました。「道草ワード」です。

「デジタル大辞泉」によると「道草を食う」の意味は「馬が道端の草を食っていて、進行が遅れる。転じて、目的地へ行く途中で他のことに時間を費やす。途中で手間取る。」です。

元の辞書的な意味では、道草を食うと手間を取って進行が遅れます。しかし「道草ワード」では手間を取りませんし、進行が遅れません。「道草ワード」の力でどんどん前に進みます。

「道草ワード」の定義を私が決めました。

「道草ワード」は、次の4件すべてを満たす語句である。1件目に、言語によって表現される作品で使われる語句である。2件目に、作品の本筋ではない具体的な物事を簡潔に指す。3件目に、直接的には言語化されていない意味を受け手に想像させ、作品への多様な解釈を促す効果がある。4件目に、作品の価値を高める効果がある。

これが「道草ワード」の定義です。

文字化されるエッセイ、詩、小説などの文学作品だけでなく、スピーチや落語のような文字化されない(音声だけの)表現でも「道草ワード」を使うことはできます。

ここまで私は読者の側から「道草ワード」を解説しました。一方、もしも私たちが作品を生む側だったら?私たちが「道草ワード」を使って魅力的な作品を生むためには、どのような工夫が必要で、どのようなことに注意すればいいでしょうか?私なりにまとめてみました。

「道草ワード」を書くポイント1

そもそも「道草ワード」が必要か?行間が必要か?を考える。

その作品において、文字通りそのままの意味だけを書くべきか?行だけを読ませるべきか?それとも行間を読ませるべきか?多様な解釈の余地を残していいのか?慎重に考えましょう。もし行間が不必要なら「道草ワード」を使ってはいけません。

「道草ワード」を書くポイント2

本筋と脇道を区別する。

読者を困らせてはいけません。本筋が明確であれば、脇道に脱線しても、読者は「これは脱線だ。脇道だ」と区別できるので、混乱せずに読み続けるこができます。作品全体を通して最も伝えたいことを脇道で書いてはいけません。本筋で書きましょう。

「道草ワード」を書くポイント3

スケールが小さい物事を書く。日常性がある物事を書く。

嘉島唯さんは、「エモい文章」を<「固有名詞」×日常性で作れる>と解説しました。

エモい文章の作り方

たしかに「Bの鉛筆」、「コーラ」、「鍵と丸めたレシート」、「風邪で休んだ時に観た教育テレビの恐竜」には日常性があります。固有名詞なのかは微妙ですが。

一方、「世界人口は77億人」などのスケールの大きい物事は、たしかに具体的ですが、日常性がありません。スケールの大きい物事が効果的に活きるケースもありますが、今回私が注目している表現とは異なります。

道に生えている草のような、スケールが小さい物事を言葉にしましょう。

「道草ワード」を書くポイント4

「チェーホフの銃」と混同しない。

「チェーホフの銃」の説明をWikipediaから引用します。

ストーリーの早い段階で物語に導入された要素について、後段になってからその意味なり重要性を明らかにする文学の技法。この概念は、ロシアの劇作家アントン・チェーホフに由来している。
チェーホフ自身は、『ワーニャ伯父さん』でこの原理を利用しており、早い段階で一見ありふれた小道具として舞台に持ち込まれた拳銃が、劇の終盤に向かうにつれ、重要なものとなり、ワーニャは怒りに駆られて拳銃を掴み、殺人を犯そうとする。
「誰も発砲することを考えもしないのであれば、弾を装填したライフルを舞台上に置いてはいけない。」アレクサンドル・セメノビッチ・ラザレフ(Aleksandr Semenovich Lazarev)(A・S・グルジンスキ(A. S. Gruzinsky)の変名)に宛てたチェーホフの手紙、1889年11月1日

以上の出典はすべてWikipedia「チェーホフの銃

さらに単純化して「チェーホフの銃」を「伏線」と解釈する人もいます。

「道草ワード」は脇道であって本筋ではありません。「道草ワード」には日常性があります。だから「チェーホフの銃」のような役割はありませんし、伏線に使うものではありません。「チェーホフの銃」と「道草ワード」は、機能が逆です。

「道草ワード」を書くポイント5

道草を食っていることを説明しない。

「道草を食ってしまった」「脱線しますが」「ちなみに」「豆知識ですが」などと書いてはいけません。

「道草ワード」を書くポイント6

「道草ワード」では事実だけを書く。「道草ワード」で意見・感情・評価を書かない。意見・感情・評価を伝えたいのであれば、本筋で伝える。

BUMP OF CHICKENの『記念撮影』を例にすると、「コーラからは青春の味がした」と書いたら台無しです。「コーラ」だけでいい。

「道草ワード」を書くポイント7

その具体性に注目した理由を説明しない。

エッセイの「Bの鉛筆」を例にすると、「大人になった今では2000円の高級なボールペンで書いているが、小学生だった私はBの鉛筆を使っていた。筆記用具の変化からも、私が歳を取ったことを感じた。」などと説明してはいけません。「Bの鉛筆」だけでいい。

「道草ワード」を書くポイントは以上です。

最後にオマケです。

「道草ワード」の条件として必須ではありませんが、身体性を持った語句や、五感を活かした語句であれば、さらに効果的です。「Bの鉛筆」であれば、視覚によって鉛筆の黒色の濃さを捉え、触覚によって鉛筆を紙に当てた感触を捉えるので、二つの感覚を動員しています。「風邪で休んだ時に観た教育テレビの恐竜」であれば、風邪を引いたときの熱、鼻水、だるさというように、生身の身体を伴った体験として表現することができます。『記念撮影』の歌詞には「コーラ」があります。コーラの味、炭酸が舌に触れた感触。冷たいコーラを買ってから時間が経ったらぬるくなるでしょうか。「道草ワード」の中でも特に食品は効果的です。読者が自分の体験と重ね合わせて想像できるからです。

以上です。ありがとうございました。街河ヒカリを今後もよろしくお願いいたします。

本記事の見出し画像には「みんなのフォトギャラリー」から木村篤志 / Atsushi Kimura さんの写真を使いました。ありがとうございました。

私は映画や音楽や本の解説記事を書いています。こちらの記事も皆様にお読みいただけたら幸いです。

君の名は。がヒットした理由である状況重視と非論理性と無個性を「カタワレ系」と名づけた。

参考文献

今回の記事で引用はしなかったものの、私が影響を受けた文献を紹介します。

白饅頭日誌:12月12日「文章の読み方のコツ」

岸 政彦,石岡 丈昇,丸山 里美『質的社会調査の方法 他者の合理性の理解社会学』有斐閣、2016年

有斐閣の四竈佑介さんが編集を担当されました。

以上です。ありがとうございました。

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