なぜ見聞色の覇気か?『ONE PIECE FILM RED』ウタの逃げと血と歌詞を考察
見聞色の覇気と血が重視された理由、ウタとファンの逃げと救い、歌詞の意味を考察する。Adoと尾田栄一郎の発言を参照する。『スタァライト』、『まどマギ』、『ドラゴンボール』と比較する。これが本稿の方針だ。
私、街河ヒカリは公開初日の2022年8月6日に『ONE PIECE FILM RED』を鑑賞し、ネタバレを含まない感想文を note に投稿した。
本稿では、感想文を超えて考察を書くことにする。およそ9300字の全文が無料である。
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ここから先には『RED』のネタバレがある。『RED』を未視聴の方は読まないで欲しい。
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ここからネタバレになる。
まず、ウタをウタワールドの計画に駆り立てた原因をまとめ、そのうえでウタの思想とウタが目指していた世界とウタの喜怒哀楽について考えることにしよう。
ウタを駆り立てた原因その1 社会からの隔絶
エレジア壊滅の事件からずっとウタはゴードンと二人だけでエレジアで生活していた。社会から隔絶された場所にいたウタは人間関係の構築を学ぶ機会を持たず、とりわけ同年代の子どもと遊ぶ機会がなかったことで、社会とズレていった。
ウタはコビーがロッキーポート事件の英雄であることを知らず、世間知らずっぽさを醸し出していた。
その他にも『RED』ではウタの天然っぽさ、マジョリティとの感覚のズレが随所で描写されていた。
一方、ルフィは対照的だ。ルフィはエース、サボという同年代の子どもと共に幼少期を過ごし、ダダン率いる山賊という年長者から生活の術を学び、チームプレイを学んだ。大自然の中で猛獣と戦い、身体を成長させた。ゴア王国の街とコルボ山とフーシャ村で社会を学んだ。シャンクスたち赤髪海賊団と出会い、麦わら帽子を返すという明確な目標ができた。そしてルフィは海軍の英雄ガープに守られていた。将来の海賊王にとって、これほど良い環境はない。
ウタを駆り立てた原因その2 「アイドル」ウタを「推し」て祭り上げるファン
発信(配信)を始めたウタは自分の歌声を愛してくれる人々に気付き、生き甲斐としていった。孤独だった人生に他者との関わりが生まれた。暗かったウタに明るい笑顔が戻った。しかし大海賊時代に生きる人々から、悲痛な叫びと海賊への恨みが届いた。ウタを救世主扱いする人々が増えていき、ウタは期待に対する責任感を抱いた。人々から「海賊嫌いのウタ」として認識されたウタは、もう引き返せなくなった。こうしてウタは「アイドル」になった。「アイドル」は偶像であり、崇拝の対象であり、勝手に妄想されて作られた虚像である。
ウタは『RED』のライブで初めてファンの前に直接姿を現した。それ以前はずっと電伝虫を通して歌を配信していたのだ。ファンと直接会うことなく、直接対話をすることなく、ただ歌を配信するだけであり、ファンからの声をただ聴くだけだった。電伝虫の「念波」を通したやり取りに過ぎない。生身の体を動かした双方向な対話がなかったことが原因で、ファンはウタを救世主扱いし、ウタは独善的な思い込みを深めていった。
ウタを駆り立てた原因その3 シャンクスへの愛と憎しみ
ウタはエレジア壊滅の犯人がシャンクスたち赤髪海賊団だと思い込んでいたが、その後、ウタはエレジア壊滅の原因が自分だったこと、シャンクスから助けられたことに気付いた。それでもなおウタはシャンクスから捨てられたんだというシャンクスへの恨みを消すことができなかった。その一方でウタはシャンクスに謝りたいという気持ちと、感謝を伝えたいという気持ちを抱いていた。
しかもシャンクスは海賊だ。ウタのファンたちは海賊から苦しめられている。
このごちゃ混ぜになった感情が、ウタを追い詰めていった。
以上の3件の原因が相乗効果を生み、ウタは自分の能力の強さと、子どものときに自分が起こした事件の深刻さを自覚したから、自分を中心とした大きな物語を妄想して夢想していた。こうしてウタはウタワールドの計画を開始した。
この記事の読者はウタワールドの計画を知っているはずなので、その内容をここには書かないが、しかしウタの目的と思想と喜怒哀楽を、Adoの発言、尾田栄一郎の発言、そして歌詞から考えてみよう。
ウタの視線その1 いらぬものを淘汰した世界に逃げる
邪魔者、嫌なもの、いらないものを消せば世界が良くなるんだというウタの思想は、短絡的であり安直だった。ルフィを初めとした『ONE PIECE』の主要な登場人物、中でも特に革命軍とは相反している。おそらく作者である尾田栄一郎とも相反している。
ルフィの父であり、革命軍を率いる革命家であるモンキー・D・ドラゴンはこう語った。
この回のタイトルが「おれは、逃げない」であることも興味深い。「おれは、逃げない」はエースのセリフだ。ウタは「みんなで逃げようよ」と歌った。
ウタの視線その2 みんなの願いを引き受ける
前述のように、ウタは幼少期から思春期に健全な成長をする機会がなかった。そのため自他の境界を学ぶことができなかったのだ。みんなと私を同一化してしまい、みんなが願っていないことまで「みんなの願い」だと勘違いしてしまった。ウタは最強じゃないのに「私は最強」と歌っている。ウタは「最恐」だ。
パンフレットには「私は最強」についてのAdoのコメントが掲載されていた。
ウタワールドの計画が進行する中、「ネズキノコ」の効果も加わってウタは凶暴化していく。
「純真無垢」は、ファンからの勝手な期待であり、ファンからの神聖視だろう。つまり「アイドル」だ。
こうしてウタは独善的になり、もう引き返せなくなった。ウタのライブに来たファンたちが現実に帰りたいと言ってもウタはその願いに応えようとせず、ファンたちをぬいぐるみに変えた。現実世界のウタはファンたちの体を操り、海軍と海賊と戦わせた。
みんなの願いを叶えるはずが、みんなの願いとは反対方向に進んでしまった。
ウタの視線その3 シャンクスに会いたい
映画の入場者特典である40億巻に掲載された、尾田栄一郎が書いたウタの設定を引用しよう。
ウタがウタワールドの計画を開始した目的は、シャンクスと会うためでもあった。40億巻を読まなくても、『RED』を注意深く観れば気づけるだろう。私は気づいた。しかし少し分かりにくかったのではないか。『RED』鑑賞後に40億巻を読んでようやく気づいた視聴者もいたのではないだろうか。『RED』の中で、シャンクスに会うためだったんだというウタの心情を、もう少し丁寧に描写すべきだったのではないか。
ウタの視線その4 救われたかった
ここまでに書いた解釈に比べると、ここからは私の主観がかなり入り込むこと、あいまいな解釈になることを先に断っておきたい。
ウタは自分も救われたかったのだ。
ウタはエレジア壊滅の原因が自分だと分かっていた。歌うことで自分がみんなに認められ、喜んでもらえた。「救われる」と言ってもらえた。「私のせいでたくさんの人が殺されてしまったけど、それでも今の私はみんなを救っている」と思えた。だから歌うことで自分も救われていた。自分を罪悪感から救いたかった。
それに加えてさらに、自分の能力でみんなをウタの夢の世界に閉じ込めれば、みんなをもっと深い段階まで救うことができる。
ウタの計画には自分の死まで含まれていた。ウタは自殺したかったわけじゃない。ウタは自分を死刑にしたかったわけじゃない。ウタは死を恐れていなかった。これは自己犠牲とは違う。
40億巻の中で尾田栄一郎は「ウタは肉体の消滅を死と考えてない。ちょっとズレてる。」と書いている(40億巻、p.76)。
そしてウタは最期にシャンクスに会うことで、救われたかった。
幼少期から思春期に他者と適切な愛着を形成できなかったことが、ウタに影を落としていた。だからウタはウタワールドの計画を開始したのだ。
『RED』全体を通し、「救い」の概念が反復されていた。ゴードンはルフィに「ウタを救ってくれ」と願いを託していた。対して海軍は「正義」を掲げている。これは『RED』に限ったことではない。『ONE PIECE』においては、「正義」と「救い」が対比されている。
一般市民はおいしいところだけ持って行ったのか?
ここまで述べたように、ウタの歌を聴いた一般市民(海賊でも海軍でもない)がウタを救世主扱いして祭り上げていたことが、ウタが暴走した原因の一つだった。一般市民に責任はあると言えるのかは微妙だが、原因は確実にある。責任と原因は違う。
ウタのライブに来て夢の世界に入った一般市民は、ウタからの呼びかけに応え、海賊に立ち向かい、海賊を捕まえようとした。その後、そこが現実世界でないと知った一般市民は、ウタに「帰りたい」と反論した。このように一般市民が自ら行動し意見を主張したのだが、一般市民は問題を直接解決したわけではなかった。
海軍は一般市民までも殺そうとしたが、しかし赤髪海賊団によって阻止された。終盤、海軍がウタを拘束しようとしたとき、シャンクスが海軍に覇王色の覇気を炸裂させ、藤虎が「市民の皆さんがいるってのに、戦争をおっぱじめるわけにゃあいきやせん。やめましょう」と言い、海軍が引き返した(藤虎の台詞はうろ覚えです。間違っている可能性があります)。
結局、一般市民は麦わらの一味と赤髪海賊団を筆頭にした海賊たちと海軍に助けられた。自分たちの力では問題を解決できなかった。強い力を持つ者が弱い者を助けるという構図だった。
ウタの死後、一般市民はトーンダイアルでウタの歌を聴いていた。トーンダイアルを通した歌は、録音された過去の歌であり、おそらくウタの能力が発動しないのだろう。
一般市民がおいしいところだけ持って行ってないか?フリーライドしていないか?
アラバスタ、魚人島、ドレスローザ、ワノ国の市民たちや侍たちは、自分たちの力で闘い、血を流し、国を動かし、未来を切り拓いていた。しかし『RED』の一般市民たちは、無辜(むこ)の庶民、か弱い存在、守られる存在として描かれていた。
ドラゴンボールのブウ編で地球人たちが気を悟空に送って元気玉でブウを倒したように、『RED』においても一般市民が能動的に行動して問題を解決する脚本にすることもできたはずだ。私の推測に過ぎないが、おそらく『RED』の制作者たちも「元気玉」のような展開を思いついたことはあったはずだが、意図的に避けたのだろう。
私は「元気玉」的な展開がなかったことを肯定的に捉えている。理由は2件あり、1件目に、「元気玉」的な展開にするとかなりの時間が掛かり、映画の尺が足りなくなるからだ。2件目に、こちらのほうが重要だが、「元気玉」的な展開がないからこそ、『RED』の全体を貫く軸を作ることができるからだ。映画の最後になって一般市民が活躍するのは、あまりにハッピーエンドすぎる。わざとらしくなる。『RED』全体を通して、一般市民は完璧ではないということ、一般市民はグレーゾーンだということを貫くから、作品に統一感が生まれる。
一般市民の原因と責任について考えるため、唐突だが、ここで別の論点を考えたい。その論点とは、「なぜ『RED』では、武装色の覇気ではなく見聞色の覇気に重きが置かれたのか?」である。
なぜ武装色の覇気ではなく見聞色の覇気なのか?
広範囲に渡る見聞色の覇気を得意としているコビーは、『RED』においてはルフィの「声」を聴いてルフィの居場所を見つけた。
夢の世界にいるウソップと現実世界にいるヤソップは、見聞色の覇気によって互いの視界を共有した。夢の世界のブリュレと現実世界のカタクリも、互いの視界を共有した。「景色が見えた」という台詞があったが、聴覚も共有していたかもしれない。
終盤では夢の世界にいるルフィと現実世界にいるシャンクスが行動をシンクロさせた。
『RED』では見聞色の覇気が何度も描写され、しかも広範囲の声を聴く見聞色の覇気、視界を共有する見聞色の覇気、未来を観る見聞色の覇気のように、見聞色の覇気の性質には幅があるということまで、わざわざ描写されていた。それに比べると武装色の覇気についてはほとんど説明がなかった。おそらく『RED』の制作者たちは意図的に見聞色の覇気を強調したのだろう。
コビーは第1巻でルフィと殴り合って血を流した。ウソップとヤソップには血縁があり、ブリュレとカタクリも血縁がある。シャンクスはルフィを助けるために腕を無くしたから、ルフィには血縁に近い縁がある。血を流した縁だから、血縁のようなものだ。『RED』の赤は血の色でもある。生身の体で関わったから、見聞色の覇気で繋がることができた。これがウタのファンたちとの決定的な違いだ。
『RED』の裏テーマは、「見聞」と血だ。
「見聞色の覇気」に留まらない。もっと辞書的な意味に近い、広義の「見る、聞く」までもが、『RED』の裏テーマだ。
ウタのファンである一般市民たちは電伝虫を通してウタの歌を見て聞いていた。ウタと実際に会って生身の体で関わったことがなかった。双方向な対話をすることがなかった。だからファンたちはウタを救世主扱いして祭り上げてしまい、ウタは自分一人ですべてを引き受けようとしてしまい、独善的な夢想を膨らませた。
「見聞」と対を成すのが、血だ。
銃で撃たれて血を流した人にウタが過剰に反応していたことが、ウタの性格を象徴していた。
ウタは人々をウタワールドに閉じ込めた。これは世界の転覆であり、その重大さは、客観的には明らかだ。客観的に見れば、ウタワールドの計画を進行する途中で、ウタ、一般市民、海賊、海軍が入り乱れて戦闘が起きること、死者が出ること、血が流れることは、十分に予想できたはずだ。
しかしウタは目の前で血を流した人を見て取り乱していた。何を今さら。血を流さないでほしいのなら、そもそもウタワールドの計画を始めなければよかったはずだ。ここでもウタの天然っぷりが溢れていた。ウタはネズキノコを食べて肉体的に死ぬつもりでいた。ウタは自分の死と、世界の転覆と、目の前で人が血を流すこと、それぞれに対する重みづけがちぐはぐで釣り合いが取れていない。
もう一度引用するが、40億巻の中で尾田栄一郎は「ウタは肉体の消滅を死と考えてない。ちょっとズレてる。」と書いている(40億巻、p.76)。
最期にウタはルフィに語り掛けた。
「私を殴らなかったね」
ルフィは応えた。
「おれのパンチはピストルより強いからな」
ルフィはウタを傷つけたくなかった、パンチの傷みが分かるから、血を流す痛みが分かるから、ウタを殴りたくなかった。
「見聞」と、血の通った身体の両方を大切にするから、心を通わせることができるのだ。片方だけでは足りないのだ。
これは映画を見て聞いている私たちにも当てはまる。なぜなら私たちはルフィやウタに直接会うことがないからだ。さらには現代の社会情勢までも想起させる。ウタの歌を唄うAdoは顔出しをせずにネットで活動している。Adoに限ったことではない。オンラインの配信によるクリエイティブ系の活動が強まっている現代は、生身の体による関わりが希薄化しているのではないだろうか。さらには新型コロナウイルスのパンデミックによって生身の体による関わりはますます制限されている。
『RED』で一般市民がか弱い存在、守られる存在として描かれたことは、私たちへの婉曲的な批判かもしれない。私たちはアイドルを「アイドル」にしていないか?私たちは「推し」を苦しめているかもしれない。「推し」を搾取しているかもしれない。私たちはおいしいところだけもらってないか?フリーライドしていないか?
私たちには、いったいどのような責任があるのだろうか?
残された展開
『ONE PIECE』はまだ続いている。『RED』とは異なる展開、つまり一般市民が能動的に行動して生身の体を動かして問題を解決する展開が、今後必ずやってくるだろう。
革命軍のベロ・ベティが一般市民を鼓舞して一般市民が自分たちの力で革命を起こすのだろうか?バギーがミスター・サタンのように盛り上げるのだろうか?
『RED』の謎
最後に、『RED』で解明されなかった謎について書きたい。
トットムジカとは何か?については、既に多数の人々が考察してネットに書いているので、私がわざわざここに書く必要はないだろう。
ローはロッキーポート事件の首謀者であり、コビーはロッキーポート事件の英雄だ。『RED』では二人が直接会って会話をして共闘したが、ロッキーポート事件については何も言葉を交わさなかった。ローとコビーからは知人であるような雰囲気を感じた。そもそもロッキーポート事件の詳細は現時点では説明されていないので、これ以上は考察しようがないが、ローとコビーはどのような関係なのだろう。
カリファはCP-0の一員としてウタのライブ会場に潜入していた。カリファとシャンクスが至近距離にいた場面があったが、二人の間では驚いたような反応がなかった。カリファとシャンクスはどのような関係なのだろう。
『RED』の冒頭で五老星が「フィガーランド家の血を引く」と発言した。直接的な説明はなかったが、文脈から「シャンクスはフィガーランド家であり、シャンクスの娘であるウタはフィガーランド家の血を引く」と読み取れるだろう。『RED』本編と40億巻それぞれから、「ゴッドバレー事件でロジャーが手に入れた宝箱の中に、赤ちゃんだったシャンクスがいた」という過去がついに明かされた。以上の2件から、『RED』以前からたびたび予想されていた、「シャンクスは天竜人の子ども」説がさらに濃厚になった。
これらの経緯から総合的に考えると、カリファとシャンクスが『RED』以前から関わっていたとしてもおかしくはない。
『まどマギ』と『スタァライト』
『RED』は『魔法少女まどか☆マギカ』と『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』へのオマージュまたはリスペクトなのだろうか?
『RED』のトットムジカが『まどマギ』の魔女に似ている、ということは既に多数の人々から指摘されている。姿が似ていることはもちろん、トットムジカと魔女はどちらも人のネガティブな感情から創られる、という設定が似ている。
『RED』のウタワールドの概念は『スタァライト』の「舞台装置」の概念に相当するのだろうか?
ウタとルフィは、直接殴る・蹴るなどの攻撃をしなかった。相手を肉体的に傷つけることを目的にしなかった。ウタのルフィの闘いは『スタァライト』の「レヴュー」に相当するのだろうか?
ウタのポジションは『スタァライト』の大場ななに相当するのだろうか?ウタと大場ななは、容姿と性格は似ていないが、二人とも自分が思い描いた理想的な世界に他者を閉じ込めようとした。
『スタァライト』ではデザイン的に赤が強調されていた。まず「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」というタイトルが赤だ。『スタァライト』においても登場人物が血(血のようなもの)に反応する場面があった。
名塚佳織は『RED』でウタの声優を務め、『スタァライト』で櫻木麗(担任教師)の声優を務めた。
津田健次郎は『RED』でゴードンの声優を務め、『スタァライト』でキリンの声優を務めた。
制作者たちにどのような意図があったのか、意図がなかったのかは分からない。いずれにせよ、『まどマギ』と『スタァライト』と『RED』の対比は興味深い。しかし、私はこれ以上深く考察できないので、ここまでにしておく。
以上です。ありがとうございました。
映画館では入場者に40億巻のほか、 ONE PIECE のマスクも配られた。「ワンピースレストラン」のクーポン券も配られた。クーポン券の裏側(表側か?)に『ONE PIECE FILM RED』のイラストがあったため、それをこの記事のヘッダー画像にした。
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