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『ナイン』(井上ひさし)読みの可能性


1 はじめに

 小説『ナイン』は1983年から1985年にかけて雑誌『IN・POCKET』に掲載された短編小説をまとめて単行本化し、1987年に講談社より刊行された短編小説集です。その表題作『ナイン』は、高等学校の現代文教科書に掲載される定番小説としておなじみの作品です。


 筆者と思しき放送業界の仕事をする語り手「わたし」は、18年前に3年間ほど2階を住居として借りていた東京四谷は新道にある畳屋の仕事場に立ち寄る。畳屋の主人である「中村さん」に迎えられ、懐かしい話を聞いているうちに、当時、西東京少年野球大会で準優勝した新道少年野球団のことに話が及ぶ。そこで、すでにほとんどが新道を離れ、30歳になったナインたちの意外な現在、中でも主将だった正太郎が寸借詐欺師に身を落とす残念な姿を知ることになる。やがて、当時ピッチャーだった中村さんの長男で、今は父親の後を継いで畳職人になった「英夫くん」に話し相手が変わる。「英夫くん」は正太郎を責めることのない英雄たちに理解を示そうとする語り手「わたし」に対し、正太郎が今でも自分たちのキャップテンとして生きていること、それはあの体験をした仲間たちにしか決して理解できないことだと強く抗議する。そして、彼が語ったのは、18年前の夏、9人ちょうどのぎりぎりのメンバーで戦う決勝戦、たった一人のピッチャーだった自分を休ませるために、日陰のない3塁側ベンチで、照りつける真夏の西日を自らの背中で遮り、日陰を生み出した正太郎の姿だった。


 20年ほど前にはすでに教材として教科書に掲載されており、私が教材として授業で初めて扱ったのもその頃です。恥ずかしながら、当時の私の個人的な感想は「高度経済成長期のノスタルジーを描いた、あまり興味の湧かない小説」といったものであり、「友情・絆」を生み出す少年時代の「共通体験」がいかに重要かを説く典型的な道徳教材で、国語教材としてはどうなんだろうと疑問にさえ思う始末でした。ところが、繰り返し教材として扱ううちに、なにやら当初の感想とは異なる読みの可能性をしだいに感じるようになっていきました。最近では、高校生に小説を読み方を教えるには、かなり適した作品だと思いはじめています。もとより、自らの読解力の乏しさが招いた事態ではあるのですが、そう思うに至った理由をまとめてみました。

 理由の柱は三つ、「メタファー」「時代」「隠れている物語」。高校生も楽しみながら、考えをまとめたり、知識として整理したりできると思います。もしかしたら、「21世紀を生き抜くために必要な読解技術の習得」みたいな大それた目標にも対応できるかもしれません。


2 「西日が差さなくなる」という暗喩


 この教材を定期考査に出題する際、最も一般的だと考えられるのが小説最後の一文「この十何年かのうちに、ここには西日が差さなくなってしまったようである」の「西日が差さなくなる」が何を暗示しているか、という設問です。ちなみに、教科書(第一学習社 標準現代文)にもその文に星印がつけられて「この表現にどのような効果があるか」という脚問がついていました。指導書には「彼らのような友情がこの球場からは生まれなくなったという諦念と、だからこそ彼らの心の中に生きる変わらぬものへの望みを感じさせる効果」という解答例が書かれていました。効果を問うのは、生徒の様々な解答を受け入れるためかもしれませんが、やや曖昧でテストでは使い難いと感じます。これは採点しにくくなるぞと思いつつ、それでも主題に迫る設問として、この一文にサイドラインを付ける教師は多いのではないでしょうか。


 正太郎によって生み出された「日蔭」は、ナインたちに結ばれたゆるぎない「信頼」や、彼らが力強く生きていくための「自信」を象徴すると考えられます。「自分たちは日蔭なぞあり得ないところに、ちゃんと日陰を作ったんだぞ。このナインにできないことは何もないんだ。」という英夫の言葉から、それを類推していくことができるでしょう。言うまでもなく、「西日」は「日陰」を生み出すために前提となるもの。彼らの「信頼」と「自信」は地域のコミュニティーに支えられて育った正太郎はじめナインたちが生み出した。つまり、「西日」は「ささやかにではあるが、しっかりと自給自足」して「小路全体に自信のようなものがみなぎっていた」新道商店街に根付いていたコミュニティーとしての力を象徴するのであり、その「西日」が差さなくなるのですから、ナインたちのような「信頼」「自信」を持った青年を育てるコミュニティーとしての力が失われてしまったことを暗示する文だと判断して良いでしょう。


 こうした読解は、前半部に詳しく描写される「当時の新道」と「現在の新道」の比較を読み取ることが前提となっており、学習の成果として生徒たちに作品の「主題」を考えさせる上でもふさわしい流れです。また、小説を読む楽しみの一つが、メタファーの読解であることを伝えるための好例にもなります。決して難解な隠喩ではないので、読書経験が少なくなっている現代高校生の教材としても扱い易いはずです。

3 時代を読む


 この小説では「回想されるあのころ」から「語り手の今」に至る「時代の変化」を読み取ることも重要です。しかも、戦後の「高度経済成長期」からオイルショック後の「安定成長期」を経て「バブル景気」の入口に至る流れを追いかけることになるので、21世紀の現在に至る時代の変遷を概観するのにも適した教材だと思います。


 登場人物によって回想される「あのころ」は、語り手「わたし」が「東京で五輪大会が開かれた年の暮れから三年間」中村畳店の2階を借りていたという記述から、また、クライマックスの新宿区少年野球大会が「こちらの仕事場の二階を借りて二度目の夏のことですから」という語り手の台詞から1966年と特定できます。教科書の脚注には東京オリンピックが1964年であることを示してあるので、生徒にも容易にたどり着くことができるでしょう。1954年から1973年に至る高度経済成長期、とりわけ1958年の東京タワー竣工、1964年の東京オリンピック、東海道新幹線の開通、1969年の東名高速及び名神高速の全通、1970年の大阪万博といった出来事は時代を語る上で欠かせません。西岸良平の漫画を実写化した映画『ALLWAYS 3丁目の夕日』(原作はビックコミックオリジナル連載)に描かれたのが1958年から1964年、誰もが成長期特有の夢や希望に満ちたノスタルジックな気分にさせられます。また、浦沢直樹の『20世紀少年』(ビッグコミックスピリッツに連載)も実写化されましたが、こちらも大阪万博当時の少年たちが主人公。デストピアとなった現代を生きるかつての少年たちが、当時の記憶をエネルギーとして再集結し、不明瞭で抗いがたい巨大な力と対峙していく。世紀末から様々なメディアに描かれた「懐かしい昭和」です。

 しかし、そこで何が起きていたかというと、経済発展に伴う負の側面、都市部への人口集中による住宅難と地価の急激な上昇であり、その解消を目指して1963年に始まる新住宅市街地開発事業、いわゆるニュータウンの建設ラッシュです。当然、四谷のような都心部の旧市街地は地価高騰のあおりを受けて、固定資産税を払うのが厳しくなり、地上げ屋がやってきて古い町並みを壊し都市再開発を行う計画が進められ、高層マンションが建っていきました。新道の古い住人たちは土地を手放して郊外に出ていき、新しいテナントが入り、地方出身の大学生や会社員が新たな住人となる。作者の井上ひさし自身も四谷にある上智大学の学生として東京に来たひとりです。結果的にドーナツ化現象が進行して、それまであった地域のコミュニティーが破壊されていったのでした。ナインたちが四谷を離れていったのはこうした時代背景からすれば当然で、むしろ新道に残って畳屋を継いだ英夫の方が特殊な例とさえ言えます。こうした事情の中で、ナインたちの多くは新道を離れて新たな土地で進路決定の季節を迎えました。そして、小説には出てきませんが、オイルショックによるインフレで経済成長が鈍化する時期に20歳になるのです。


 一方、「語り手の現在」は、中村さんが「王の新政権の発足を報じるスポーツ紙」を読んでいることから1984年と特定されます。こちらも、教科書の脚注に「王貞治が読売ジャイアンツの監督に就任したこと」と示されるので生徒たちにも容易にたどり着けるでしょう。1985年にはプラザ合意による安定成長期の終焉を迎え、翌年からいわゆるバブル景気が始まります。経済性、効率性優先の街づくりはここに極まり、やがて1991年のバブル崩壊に突き進むのです。語り手たちはまだそのことを知らない。にもかかわらず、小説最後の一文「この十何年かのうちに、ここには西日が差さなくなってしまったようである」は、バブル崩壊へと突き進む狂乱前夜の不安な予兆を感じさせます。また、バブル崩壊後の「失われた20年」に起きる「オウム事件」など様々な出来事を生み出すターニングポイントして、重要な節目を迎えようとしていました。この年、スティーブ・ジョブズ率いるアップル社が、現在のタブレットPCやスマートフォンの萌芽とも言える初代のマッキントッシュPCを発売した点も、時代を考える上で象徴的かもしれません。逆算すればナインたちは31歳。世間の現実という荒波にもまれ、壁に突き当たってもがき苦しみながら、必死に前進していく年代です。


 ここでもうひとつ、「読者の現在」という時代を設定してみましょう。2021年にこの小説を読むということは、どのような意味を持つのか。2012年に東京スカイツリーが東京タワーからその役目を引き継ぐ新たなランドマークとして出現しました。2013年には東京オリンピックの開催が決定、それに合わせて様々なインフラ整備が計画され、国立競技場の設計変更問題やオリンピックのロゴ問題などで大騒ぎ。2014年にはリニア新幹線の品川-名古屋間ルートが決定、首都圏と中京圏を最速60分程度で結ぶ2027年の区間開業に向け起工式が行われました。ついには2025年の大阪万博開催決定と来れば「ちょっと待てよ、これってデジャブー?」という錯覚に陥るのは私だけではないはず。

 2020年、半年後に東京オリンピック開催を控えるも、ここで思いもよらぬパンデミックが発生。予定は大幅に狂ってしまいましたが、長期にわたるマイナス成長デフレ時代を抜け出すために安倍政権が放った3本の矢は、周辺部を巻き込みながら過去の栄光を取り戻すべく「あのころ」と同じ道を繰り返しているように見えます。その志は東京オリンピック1年延期の決定後も管政権に引き継がれ、4回目の緊急事態宣言下でのオリンピック開催に突き進んでいきました。ちなみにナインたちが現実に生きていれば、安倍前総理と同じ世代になるはずです。


 さて、『ナイン』を読むことで見えてくる時代の鏡は、繰り返される地域コミュニティーの破壊という視点を写し出します。まさに今、リニア時代を見据えた新たな街づくりに直面している私たち、その担い手の中心的存在となる若者たちに、隠喩としての「西日が差さなくなる」街づくりが、地方に拡散していく危険性を示唆するという重要な問題提起を与えることになるでしょう。

4 隠れている物語を読む


 『ナイン』を教室で読んだ生徒たちの感想として、少なからず教師を悩ませるのが「いくら少年時代に強い絆を結んだからと言って、正太郎のしたことを果たして許せるのだろうか」という問いです。英夫から「建て売り五軒分」八十五万円の畳をだまし取った正太郎。「左翼の常雄」に至っては婿入りして自ら経営する自動車学校の「事務室の金庫から四百万円」を持ち出され、妻まで寝盗られたとなれば、窃盗罪、詐欺罪で告訴することこそが、正太郎を立ち直らせる唯一の友情というものではないか。こうした疑問は、たまたま読み手が私のようにスポーツ音痴で野球に全く興味がなく、クライマックスの「日陰」を生み出すシーンに今ひとつ感情移入できないからこその特殊なもの、として一蹴してしまうことはできません。では、どうすればこの疑問に答えることができるのでしょうか。


 ここで「隠れた物語」の検討をしてみたいのです。文芸評論家の平野芳信と斎藤美奈子は村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』について、望まれない妊娠をした女性をめぐる隠れた物語を指摘し、石原千秋がその論を肯定的に扱っています。石原が「小説を読むとは謎解きをすることだ。もしすべての謎がとかれたら、それは小説の死である。」(『謎とき村上春樹』光文社新書)と述べたように、小説を読む大きな楽しみのひとつが「隠れた物語」探しであることは、小説好きの皆さんならご承知ですね。教室で生徒の疑問に答えるべく、それを試みてみましょう。


 作品の中で、正太郎が寸借詐欺師になるまでの経緯は語られませんが、中村さんから「洗濯屋はしょっちゅうもめていたからね、大将の女出入りで。そのたびにものすごい夫婦げんかになり、そのたびに正太郎のやつは家出をしていたねえ。」とだけヒントが示されます。正太郎の思春期は揉め事の絶えない家庭生活の中で、順風満帆なものにはならなかった。悪い仲間とつるむようになり、正業につかないまま職を転々とする若者になったのかもしれません。不安定な経済状態の中で、昔の仲間を頼って、ちょっと貸しといてくれ、が続いた結果、寸借詐欺の噂は広がっていったのでしょう。また、正太郎の根っこには英夫が語ったような男気あふれるリーダーシップがあります。仲間から頼まれれば無理をしてでもなんとかするような優しさがあるのです。そうした義理堅い性情が裏社会とのかかわりの中でゆがんだ方向に進んだ可能性も否定できません。
 

 一方、英夫は父親の中村さんから「一目も二目も置かれる」理想的な息子のように描かれていますが、本人が語り手「わたし」に「正ちゃんに八十五万円、だましとられてからですよ、本気で仕事をするようになったのは。」と述べています。裏を返せば、それまでは本気では仕事をしていなかったということ。そもそも、仲間たちがそろって新道を出て行ってしまったのに、自分だけが新道に残ってクラシカルな家業を継ぐことに抵抗がなかったとは思えません。すると、目標もなく無気力なまま惰性で仕事をやっている英夫の姿が見えてきます。ひょっこり中村畳店に現れて怪しい口上を述べた正太郎は、どこかで英夫のそんな姿を聞き及び、少しでも力になりたいと思って畳五軒分の話を持ち込んだのかもしれません。口上にある「練馬にある不動産会社」は怪しげですが、正太郎としては本気で立ち直ろうとしていたのかも知れず、かつての仲間にいいところを見せようとして無理やり取ってきた仕事だった可能性もあります。常雄の事件にしても、事務員に雇われた正太郎が、「家つき娘を鼻にかけた高慢ちきな女」である妻に頭の上がらない不本意な日々を送っている常雄の姿を間近に見て、その妻を諌めているうちに逆惚れされたと考えてみてはどうでしょうか。これはまずいと自動車学校から逃げ出したのを、「高慢ちき」な妻が事務室の金を持って追いかけたのかもしれません。だからこそ、妻は「ぼろぼろ」にされて帰ってきたのです。


 昔の少年だった正太郎が立派なキャプテンだったから信じられるのではない。現在の正太郎の中に、今もキャプテンとして生きようとする姿が見えるから信じるのです。そう考えれば、「結局は、僕らのためになることをして歩いているんだ。」という英夫の言葉に納得もできるように感じます。12歳の彼らが「このナインにできないことは何もないんだ。」と思った「その気持ちは今でもどこかに残っている」と述べて正太郎をかばう英夫。つまりは「今」も正太郎の中に自分たちを思う気持ちがあって、それが悪くすると詐欺まがいの、いやあの日の正太郎を知らない者からすれば詐欺にしか見えない結果を生み出しているのです。おそらく、どんな言葉を労しても信用に足る説明はできません。「口に出すとなにもかも嘘に」なってしまう。結局「軽く唸りながら言葉を探す」英夫の口から語られたのは「あのとき」の正太郎の姿です。それは、隠れた物語を代替する「生み出された日蔭」の物語。「だから・・・」で省略される言葉の続きは、「これほどまでされても、僕らは正太郎を信じることができるのだ」ということになりそうですね。

5 授業での扱い


 3つの柱を授業でどのように生かすか。具体的に現在試みている内容をまとめておきます。基本は4人程度のグループを作って、グループごとの音読、話し合いと発表を繰り返しながら進めていきます。
 

① まずは「時代を読む」から。昔(1966年)と今(1984年)の新道商店街についての特徴的な記述を本文から抜き出してノートに書きだす。その上で、昔と今の決定的な違いは何かをグループで話し合い、発表させる。狙いとしては「コミュニティーの有無」に持っていきたいのだが、なかなか思うような意見が出ない。かろうじて「人と人との関係というか絆のようなもの」という意見が出てくる。そこで「コミュニティー」という言葉を説明しつつ、「その崩壊」という線でまとめる。

②  次に、背景としての「高度経済成長」に関する資料を読み、なぜ、「コミュニティー」が失われたのかを話し合う。本文に根拠の記述を探すと「ここの地価は高い。」「親たち競争で土地を処分してしまった。」などに気付く。

③  続いて「隠れている物語」。正太郎が英夫と常雄に対して働いた詐欺行為を確認させて、中村さんと英夫がそれぞれどのように思っているのか、記述から抜き出させていく。中村さんが「警察に渡しておけば」と悔しがるのに対し、英夫が「正ちゃんのおかげ」とかばう点を確認できたら、自分が英夫や常雄の立場になって「正太郎を許せるかどうか」話し合う。多くは「許せない」となるので、それでは「なぜ英夫や常雄は許せるのか。小説には1966年の夏の試合のことしか書かれていが、1984年の書かれていない物語があるのではないか」という設定で「今」に続く「正太郎の物語」を考えさせる。正解のない問いかけでもあり、戸惑うグループも多いのだが、巡回しながら各グループと対話を続けていくと「実は英夫も仕事に悩んで自殺をしかけた。それを助けるために正太郎が仕事を持ち込んだ。」「常雄の妻の態度があまりにひどいので正太郎がボロボロにした。」など物語の断片が出てくる。「過去の正太郎が素晴らしかった」だけではなく、「今の正太郎にも許せる何かが存在する」可能性があるという辺りでまとめる。

④   最後は「西日が差さなくなる」の隠喩を考えていく。これもグループごとに話し合って発表し合い、「だから・・・」の続きも考えさせる。まとめとして「時代を読む」に戻り、「読者の今」と比較。1966年に起きていたことと、今起きていることが相似形であることを確認したうえで、東京オリンピック開催後、リニア開通後の街づくりについて話し合う。

 これは、あくまで「こんな風に進めたい」という理想形です。実際には理想通りにいかない場合の方が多いですし、課題や問題点も少なくありません。しかし、『ナイン』という教材がこんな風に扱える可能性を秘めている、そう思いながら授業に向かうのはとても楽しいことです。そんな意味でも、この作品の教材としての「読みの可能性」はまだまだ広がりそうです。

6 まとめにかえて(英夫の激昂に関する考察)


 最後に、どうしても満足する答えにたどり着けない「英夫の激昂」に関しての考察を述べておきます。語り手「わたし」の話し相手が中村さんから長男の英夫に代わり、英夫の口から正太郎の事件に関する別視点の語りを聞き終えた後、「決勝戦までいっしょになって戦うと、そこまでチームメイトを信じるようになるのかな。うーん、分かるような気がする。」と理解を示した「わたし」に対し、英夫はなぜ激しく感情を高ぶらせたのでしょうか。「おじさんにはわかりません」と「わたし」を見据えていった言葉の「強い口調」は、「わたし」が「気圧され」て「身体を引く」ほどのものであり、その後に続く言葉を「軽く唸りながら」探す英夫の様子は、異常ともいえる興奮を伝えています。

 ヒントを「父にもわかりません。父は土手の木陰で試合を見ていただけですから。」に求めてみます。「土手の木陰」に対置する場所は、ナインが日陰を生み出した場所、つまり「日陰なぞあり得ないところ」でしょう。この「日陰」を「コミュニティー」と置き換えて考えてみたらどうでしょうか。父親世代の中村さんは既存のコミュニティーの中にあってナインを見守ってきました。しかし、今は既に機能しなくなったコミュニティーの中で、昔を懐かしむだけの存在。一方、英夫たちはそのコミュニティーに支えられ、「日陰なぞあり得ないところにちゃんと」日蔭を作り出すポテンシャルを獲得したうえで、今もコミュニティーの失われた世界で必死に戦っています。1984年の時点で31歳になった彼らは、まだ1966年の試合の続きを戦っているということです。それが、「正太郎を信じる」ことの本質であり、外部から来て「日陰」を通り過ぎて行っただけの語り手「わたし」はもちろんのこと、すでに戦うことをやめてしまった中村さんにも、決して理解できるはずのない真実なのです。「今」戦うことの苦しみを、外部から「過去」の表層だけを見て「分かるような気」になられても、不愉快なだけではないでしょうか。

 さて、この考察はいまだ十分にこなれておらず、授業でも曖昧にしたまま通り過ぎているのですが、時代を越えてこのような問いを繰り返し生み出せる作品こそが、教材としての「読みの可能性」を秘めているのであり、私が当初の考えを改めて、『ナイン』は授業で扱う価値が高いと考えるようになった理由でもあるのです。

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