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田舎の凡人が東大に受かるまで(前半)

概要

これは、地方出身でかつ一般的な東大生ほど優秀ではない凡才が東大に受かるまでの道程を記すものです。この優秀ではないというのは所属する大学院で、東大出身の教授に「普通の東大生に比べて論理的思考力が著しく足りない」と言われたことちなみます。

結論から言えば自分は1浪して東大文一に合格し、東大法学部を卒業しました。


出身

自分は1990年代後半に宮城県の大崎市の中でも5000人しか住んでいない一番小さな地区で生まれ育ちました。

日本の平均人口密度が337人/㎢であることを考えるとまあまあの田舎です。しかも自分の町には当時コンビニが2件しかありません。だからスーパーなんてある訳がありません。しかもその2件のうちローソンは中学生の時にエロ本読んでて出禁になってしまったので自分にとっては地元のコンビニは1件だけ。絵に描いたような田舎でした。

小学生編

僕の両親は教員で田舎では比較的厳しい部類に入る人でした。例えば、3年生までは9時までに就寝。ゲームも3年生まで禁止。小学生にとってはみんなの話題にキャッチアップできるかどうかは学校生活をする上での死活問題です。会話の中で当時人気だったごくせん2の話題を振られても笑ってるしかなかったこと、みんなDSで遊んでいる中ゲームを持っていなかったため土日の交友関係が狭まったこと、日曜にポケサン見ててもダイパを持ってないから楽しめない部分もあったこと。少し寂しい思いをしつつ、親に対して恨めしい気持ちを抱いていました。

そんな日々が続いた結果、僕は見事にグレました。小学校5年生以降2週間に一回は職員室に呼ばれて先生に怒られる日々。友達を泣かせたりして友達の家に両親と謝りに行くことも度々ありました。勉強が嫌いだから宿題はやるわけもなく、とにかく反発して自分は良い子ちゃんじゃない、周りのみんなと一緒の子どもだと示したかった。反抗期ってやつです。

そんな生活をしていれば学力なんかある訳なくて、全国学力状況調査を受けてみたら全国平均以下という悲惨さでした。しかし宮城県が学力全国最下位レベルで、かつ田舎で勉強という概念がない地域だったことから、学年順位は8/55という不思議な結果。東北大に合格するの人が現れるのも数年に一度のような地域なのですから仕方ないっちゃ仕方ない。

そんな不出来な小学生時代を送っていると転機が訪れます。自分が中学生に上がる年に宮城県では数少ない公立中高一貫校が新設されることとなりました。僕は隣のクラスの先生にも「洋平くんのようにはなるな」と言われるような残念な人間で、自分を嫌いな人もそれなりに多いだろうなと感じていたので、周りに見栄を張りたいのと環境を変えたいという気持ちで中学受験を決意します。

しかし受験に失敗。

勉強が嫌いで1ヶ月前まで勉強らしい勉強をしませんでした。しかも新設校とあって倍率は15倍。そりゃ落ちます。しかも練習が足りない面接で頭が真っ白になって途中から何も答えられずトラウマに。受験舐めてんのかって感じの中学受験でした。

しかし受験に失敗して地元の中学校に戻るのが恥ずかしいと感じていた自分は滑り止めで受けていた私立中学校に進学します。

中学校編

その中学校は「地の塩、世の光」というフレーズでお馴染みのところなのですが、入学後色々と衝撃を受けます。

  • 偏差値が40だったこともあり、学力差が上から下までアホのようにありました。お前名前だけ書いて受かったんじゃなかろうな?というやつからこいつには絶対勝てる気がしないって奴まで。ちなみに学年トップのやつは京大に現役合格した後、なぜか辞めて東北大医学部に主席合格したらしい。

  • スポーツ校だったのでとんでもなく運動できるやつがいました。県で一番足が速い奴から水泳でジュニアオリンピックで優勝する奴、自分がやっていたサッカーだと東北選抜に選ばれてた奴まで。こちらも絶対勝てる気がしませんでした。

  • グレるのレベルが自分とは違いました。他校のやつとの喧嘩でお礼参りにより他校の生徒が校門前まで来てるから3時間自習になるとか、漫画の世界かよって感じ。喧嘩は割とあるあるなのかもしれないですが、隣町の中学校まで5km以上あった地元では考えられないことでした。

  • 初めて本当のオタクを見ました。当時オタクというものは秋葉原にしかいないのだと思っていた自分は、目の前の席の奴が休み時間にハレ晴れユカイを踊り出し、クラスメイトにも担任にも引かれている光景を見てなぜか感動したのを覚えています。

井の中の蛙大海を知らず、とはまさにこのことで、そんな環境に揉まれ気づけば人より少し運動ができて人より少し勉強ができる、そして時々先生に怒られる単なるモブキャラになってました。また、個性の強い奴が部員に多かったこともあり、メンタルの弱かった自分はサッカー部を1年で退部します。退部した日には東日本大震災があり、雪が降る中で仙台港が燃えていました。

そのまま2年生となり、部活を辞めて半年ほど暇を持て余していた日々が続いていた自分はよほど暇だったのでしょう。勉強嫌いなはずなのに、なぜか模試を受けました。ほとんどニートみたいな生活をしていた自分に呆れていた親からの目を避けたかったのかもしれません。

よくある県内の中学生が受ける一般的な模試ですね。レベルもそんなに高くないやつ。しかし

結果は偏差値54、古川高校B判定、仙台一高D判定
東大生のとの字すら感じられません 。


これでも定期テストでは35番/150人だったのですから、どんだけ中学校のやつら勉強嫌いなんだって感じです。

そんな酷い結果を見ても自分はやっぱり勉強せず、そのまま高校進んで指定校推薦でどっか行ければ良いなくらいに思ってました。でも高校になったらどっかでサッカーがしたいなとは思っていて。でも高校に上がってもサッカー部には戻りずらいし、とぼんやりと考えながら迎えた中3。

直前の選手権でベスト8に入った市立西宮に憧れを抱いた自分は、中高一貫だった中学校を離れ、高校受験をする決心をします。2度目の転機です。


初出場の進学校でベスト8に入りました

市立西宮に憧れ公立進学校に行きたいと考えたことから、仙台一高を志望するものの、この時の学力は相変わらずの酷さで、担任に

お前のレベルでは厳しい。ここ(在学していた中学校)の生徒は学力が低い方だから外部受験して上手くいった例があまり無い。学年トップクラスになるほどじゃないとなあ。

と言われるほど。見返すために毎日勉強しました。平日は17時〜21時まで、休日は10時〜18時まで。この時に得た教訓は同じテキストを何周もやり抜くこと。その努力が実ったのか1年間の勉強により、親の介入もあって本来の志望校ではない仙台第二高校に進学することになりました。




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