始まりはいつも、憂鬱な月曜日だった
憂鬱から始まった月曜日、淡い期待を抱いた火曜日、期待は幻想だった水曜日、振り出しに戻った木曜日、何とか乗り切れた金曜日、可もなく不可もない一週間、平均点をキープする一年間、まんざらでもない人生。
いつだって、始まりは憂鬱な月曜日だった。
週末の余韻から抜け出せなかった学生時代の月曜日、定例の会議が怖かった社会人時代の月曜日、仕事も何もせず未来が見えなかった時の月曜日。
これまでの人生、月曜日の思い出はほとんど憂鬱とともにある。
「朝目覚めたら体調不良になってないかな」と健康な自分の身体を恨んだ日曜日の夜、家から出たくなかった月曜日の朝、数え切れないほどたくさんある。
それでも、どういうわけか、こうしてまんざらでもない人生を送れているし、何のドラマもない日常にああだこうだと嘆きながらも、日常の喜びや幸せを実感することもできている。
「どれだけ憂鬱な月曜日があっても何とかなる」
なんて言うつもりはないし、何とかならない時もきっとある。
けれど、誰だって、どれだけ憂鬱な月曜日から1週間が始まろうとも、それなりに調整して、それなりに乗り越えて、何とかそれなりの人生に落ち着かせてきた過去がある。
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どんな後悔も必ず思い出に変えられる、最高のバッドエンドだったと思える、そんな日がいつか必ず来る。
理想と現実のギャップ、「誰もが通る道」という言葉で誤魔化された理不尽さ、すっかり社会に飲み込まれてしまった自分、ため息混じりの煙草はきっと美味しくないけれど、適度に吸って吐いて、がんばれば良い。何なら、がんばらなくても良いのかもしれない。
「あなたには可能性しかない」と胸を張って言えるほど、僕は自分自身の可能性を見出せたのかは分からない。ただ、今もまだその“可能性”にしがみつき、それを信じているから前に進めている。
社会人、大人、昔ほどそれらに対して「くそったれ」と思わなくなった。
それは、いざ自分が社会人、大人になって、自分自身が「くそったれ」と形容されるに値する人生を送っているからだ。皮肉にも。
可能性を信じて前に進もうとする希望も、思い通りにならない苛立ちや「くそったれ」という感情も、金曜日の夜に全部アルコールとともに流して、日曜日の夕方頃にぶり返す、総じて「良い」とは言えないそんな人生でも、それらを受け容れて生きていくしかない。
人生を生きる目的が生きることである以上、たとえ月曜日が憂鬱だろうと、生きていくしかない。
これから新社会人になる誰かへ宛てた、何の有益な世渡りスキルもTipsも伝えられない、社会人の先輩からの言葉でしたとさ。
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