牧野 曜

ライフサイエンスの研究をしていました。 現在、科学コミュニケーションのために『いんよう…

牧野 曜

ライフサイエンスの研究をしていました。 現在、科学コミュニケーションのために『いんよう!』という番組を作っています( https://twitter.com/inntoyoh )。 個人のTwitter: https://twitter.com/yoh0702

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科学コミュニケーションと「いんよう!」の紹介

科学コミュニケーターになるべく活動しています。 元生物系の研究者です。 2021年3月まで東京大学で働いていました。 世間にはすでに多くの方が、科学や科学技術について広める役割をはたしています。 新聞社やジャーナリストには科学やテクノロジーを専門にされている方もいますし、大学や研究所には現役で研究をされながら、本や講演、SNSなどで最新の科学について発表されている方もいます。 とくに最近は医療関係の膨大な情報がネットを中心に出回っていて、質はともかく量だけを見ればすでに飽和

    • シュレーディンガーとテッド・チャン

      *小説の盛大なネタバレが含まれます。 少し前に『生命とは何か』(エルヴィン・シュレーディンガー著)を読んだ。 生命を物理学的に定義しようと試みた古典で、1944年に刊行された本であるにもかかわらず、今もよく話題に挙がる。 科学やSFに詳しい人だったら必ず知っているし、たとえ読んだことがなくても、「生物は負のエントロピーを食べて生きている」という有名な一文は聞いたことがあるはずだ。 あまりにも有名すぎて中二病的な雰囲気すら漂う。 それほど有名な本を今さら読んだという、自慢でき

      • 話すほうが楽な分、聞くほうが頑張ってるのでは

        千葉雅也さんや読書猿さんが参加した書籍『ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論』では、もっと思うままに文章を書いてみたほうが、書けない症状に悩まされなくてすむのではないか、と言っていた。 ちゃんと書こうとしすぎると出てこなくなる、みたいな話だったと思う。 そもそも私は、話すのと書くのとどっちが楽からと聞かれたら、話す方と即答する。 あくまで楽かどうかの問題であって、どちらがうまいかではない。 実際、自分が話した内容を聞き返すと、順番が前後したりあやふやだったりする。

        • 要素を兼ね備える

          物語・技術・感動・キャラクター。 小説や映画を、評価するといったら大袈裟だけれど、良い作品だなと思う基準はこんなところだと思う。 YouTubeで100万人登録の絵画チャンネルがあって、年輩の画家が、主に水彩画を描く様子をアップしている。 美術関係に疎い私が知らないだけで有名な人なのかもしれない。 日本語よりも英語のコメントが多くついているから世界中で見られているのだろう。 絵は言葉のちがいに関係なく世界中の人が楽しめるから登録者が伸びた側面もあるのかもしれないが、それにし

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        科学コミュニケーションと「いんよう!」の紹介

          合理的な生物と非合理的な自分

          ごく一部をのぞいて、研究者はみな限られた研究予算の中で節約しながら実験をする。 苦労話をしたいわけではなく、低コストで優れたアウトプットを出そうとする点では営利組織と同じだ。 コストだけではなく、できるだけ効率よく仕事をしようとするのも同じだと思う。 ただし、大学院生や研究生といった立場、予算の配分の仕方など、企業とはちがう仕組みがあるので、コストを削る方法自体はしばしば同じではない。 企業では購入した方が安い試薬や器具などを、大学の研究室では自作することがよくある。 どちら

          合理的な生物と非合理的な自分

          何もかも正確にやればいいわけではない。

          生物物理という分野がある。 生物をとくに物理学的に扱う領域で、医学方面から生物に入っていった自分からすると対極に位置するように見えた。 物理学は、ニュートンが近代物理学を成立させてから常に自然科学の真ん中に聳え立っている。 究極的にいえば、生物も含め、物質世界のすべての現象は物理学で扱えばいいはずなのだ。 生物学も物理学の一分野、つまり、生きているものを扱う物理学を生物学と呼ぶと考えればいい。 けれど、実際はそうなっていない。 理由はいろいろと考えらる。 そもそも医学や生物学

          何もかも正確にやればいいわけではない。

          技術点と芸術点

          何かを身につけるに際して「型」があったほうがいいかどうかでいえば、あったほうがいいと思う。 科学研究にも型があるのだけれど、研究に携わるすべての人が学んでいるわけではない。 学校の勉強は型の集まりみたいなものだから、ひょっとすると、研究者は当然、型を身につけていると思われるかもしれない。 しかし、勉強と研究は根本的にちがうものだ。 研究の能力は技能なので、スポーツ選手や料理人、あるいは他のあらゆる仕事のスキルと似たものだ。 勉強はあくまでも技能の土台になる知識なので、その辺

          技術点と芸術点

          論理的な科学が、経験派の機械を生み出す

          技量の言語化について最近考えが変わってきた。 ここでは、スポーツや、料理、外国語、ゲームなど、練習してうまくなるタイプの能力を漠然と技量と呼ぶ。 加えて、言語化という言葉は色々な意味に取れる。 言葉にするという単純な定義もあれば、理屈立てて説明することも指す。 ロゴスが、言葉という意味以外に、論理(ロジック)を表す単語であるように。 今までは、言語化とは何らかのセオリーを説明するものだと考えていた。 野球を例に挙げれば、ボールを速く正確に投げるための理論は確かに存在する。

          論理的な科学が、経験派の機械を生み出す

          生存可能性は選択圧にならないので

          3000年くらい前に人間の脳の重さが減ったらしい。 考古学的な研究のニュース記事にそう書いてあった。 農業の普及とともに大きな社会が成立し分業が行われるようになった結果、何でもかんでも一人の人間がやらなくても良くなったから、知的(認知)能力が高くなくても生き残れるようになったのではないかと理由を考察していた。 ちなみに、個々人の知的能力は脳の重量に依存しないと言われているので、そことどう辻褄を合わせるのかはよく分からない。 脳の重量と認知機能に相関はあるけれど、それより個々

          生存可能性は選択圧にならないので

          往きつ戻りつ

          年々、自分の中での年末年始らしさが薄れていく。 年末らしさも、年越しらしさも、新年らしさもなく、他の一日と同じように時間が過ぎてしまう。 おせちも食べないし、年賀状は高校時代の友人から来た一通だけだった。 年賀状を送らなくなったので、むしろ返事をよこさないのに送り続けてくれる友人の奇特ぶりに感謝すべきだと思う。 年末年始にかぎらず、イベントごとには興味が薄い。 今年はYouTubeで年越し麻雀の動画を見ていたら年が明けていた。 「年越し」を冠しているので年末年始らしさがある

          往きつ戻りつ

          生物学と数学が仲良くなる日

          数学は不思議な存在だ。 世の大半の人は興味がない。 しかし、現代社会にとって不可欠な科学のすべては、数学がなくては成り立たない。 それなのに、というか、ごく当たり前に、生物・医学系の研究者の中には数学を苦手とする人がたくさんいる。 彼らは、学会発表で数式が出た途端、話を聞かなくなる。 生物物理や数理生物学、生物情報学など、数学を使って生物を研究している人たちは、そういう聴衆の姿を散々目にしているからなのか、数式を出すことにすごく慎重だ。 発表スライドに載せた場合でも必ず、「

          生物学と数学が仲良くなる日

          科学マニアがSF作品に願うこと

          読んでいて思わず引き込まれてしまうSF作品には、その世界でできないことが書かれている。 SF作品なので現実世界ではあり得ないことが起こったり、できないことができたりする。 地球外生命体と戦争をしたり、電脳化して外部記憶装置から情報を読み取ったり、様々だ。 架空の設定を楽しむためには、いかにもあり得そうだと納得させてくれるリアリティが欲しくなる。 実現可能かどうか、科学的に正しいのか、を細かくチェックしたいわけではなくて、そこに本当に世界があると騙してほしい。 世界があると信

          科学マニアがSF作品に願うこと

          小説書くの、めんどい。

          小説とエッセイの、どちらを書きたいかと聞かれれば、同じくらい、と答える。 エッセイの方が書きやすいのだけれど、小説の方が書いていて楽しい。 理由は、書ける範囲が広いから。 フィクションの方が現実にないことを書けるから、ということではない。 そういう意味でもフィクションは自由だけれど、それとは別に、自分の考えや気持ちを必ずしも書かなくて良いからだと思う。 あらゆる表現物には否応なく自分が反映されてしまうし、されていないものがあったとしたら、それはそれで味気ない。 それでも、自

          小説書くの、めんどい。

          美味しい豚足を食べたはず

          神戸の阪急三宮駅にはいわゆる高架下商店街があって、西隣の駅まで店が並んでいた。 過去形で書いたが、おそらく今もあるはずだ。 高架下は雑多な場所で、若者向けに流行りの服を売っている店の隣で、マニアックな中古カメラが売られていた。 その中の古い中華料理屋に子供の頃よく連れられて行った。 横浜の中華街の、一本入った裏通りにある小さな個人店を想像してもらえれば、雰囲気は当たっていると思う。 横浜と同じく港町として発展した神戸には、中国系を含め外国人が昔から多かった。 実際、神戸にも南

          美味しい豚足を食べたはず

          人間社会と細胞社会

          細胞同士がうまく連携して初めて自分は生きていられる。 という事実はよく考えてみると空恐ろしい。 元々は数十億年前に生まれた単細胞生物から進化してできたはずで、単細胞生物は細胞それ一つで生きていられた。 それに引き換え、人間の細胞を取り出しても、よほど条件を整えないかぎりあっという間に死んでしまう。 まず真水に入れるとパンパンに膨らみ機能しなくなる。 そこに洗剤を一滴でも垂らせば溶けて死んでしまう。 とても繊細で脆弱だ。 しかし、それらが寄せ集まって体を構成すると、それぞれの

          人間社会と細胞社会

          別に調子に乗ってるわけじゃないからね。

          一昨日、サンキュータツオさんと一緒に、「アフリカの言語で科学用語を作成する」というNatureの記事について話し合った。 せっかくなので、今日は自分が研究時代に使っていた科学用語について書く。 生物系の研究室では大体どこでも、週一回くらいのペースで論文紹介をやっている。 「ジャーナルクラブ」とか「輪読」とか、名称は様々だ。 毎週持ち回りで、最新の論文や自分たちの研究にとって重要な論文を紹介する。 試しに、いま適当に考えた架空の論文を紹介してみる。 「筆者らは、RNAiラ

          別に調子に乗ってるわけじゃないからね。