何もかも正確にやればいいわけではない。
生物物理という分野がある。
生物をとくに物理学的に扱う領域で、医学方面から生物に入っていった自分からすると対極に位置するように見えた。
物理学は、ニュートンが近代物理学を成立させてから常に自然科学の真ん中に聳え立っている。
究極的にいえば、生物も含め、物質世界のすべての現象は物理学で扱えばいいはずなのだ。
生物学も物理学の一分野、つまり、生きているものを扱う物理学を生物学と呼ぶと考えればいい。
けれど、実際はそうなっていない。
理由はいろいろと考えらる。
そもそも医学や生物学は物理学とは独立して発展してきた。
生物学が本当に物理学との接点を持ったのは、ワトソンとクリックが二重らせん構造を発見し、DNAが遺伝子の本体だと分かった時からなので、そう考えるとまだ一世紀もたっていない。
接点をもってからも、日々の実験の中で物理学的に扱うには生命現象は複雑すぎるので、相変わらず生物学は生物学的に発展している。
ADA欠損症は、1990年に初めて遺伝子治療が試みられた病気としても有名で、患者さんは生まれつき免疫が弱くいろいろな感染症にかかってしまう。
名前の通り、ADA酵素がないことによって引き起こされる。
ADA遺伝子に異常がある→ADA酵素ができない→免疫に異常が出る、という流れで病気を発症する。
遺伝子異常が原因で体に異常を来すこの流れは、医学にかぎらず遺伝学の基本的な考え方だ。
遺伝子を扱っている研究者は日々このロジックを使って考えているが、DNAが変化し遺伝子異常が起こる物理学的な過程を意識することはあまりない。
そこまで考えなくても事足りるからだ。
もちろん、仕組みを詳しく知ろうとすると話は変わる。
放射線や活性酸素によって、DNA分子に含まれる電子の一部が励起されて分子構造が変わってしまうとDNA配列が変わる、みたいな話だ。
細かいところは置いておくとして、電子のエネルギーがどうとか、そういう話は物理学だよね、と思ってもらえればよい。
ちょっと話がややこしいので、大雑把な例え話をしておくと、文学研究と言語学の関係に近いのでは、と思う。
文学を扱うために言葉の性質について知っておくのはいいことだけれど、常にそれを意識しているかというとそうでもないように見える。
生物物理の研究者たちは、あまり物理のことを考えたがらない生物研究者たちの領域にいて、ごりごりに物理をやろうとしている人たちである。
シュレディンガーは『生命とは何か』を書いたりして、生命の本質に物理学からアプローチしようとした。
彼は理論物理学者だから自分で実験をしなかったが、自分が会ったことのある研究者たちは自分でデータを出し、それを物理学のモデルに当てはめて理解しようとしていた。
数学モデルに乗せなければいけないので、物理学の要求するデータの精度は生物学の比ではなく、遺伝子がおかしくなる→病気になる、といった生物研究では王道の、素朴な理屈では何も言ったことにならない。
だから彼らの発表を聞いていると考え方も実験も細かくて、正直、「そこまでやるの、めんどくせーな」と思っていた。
悪口ではない。
そこまでやらないと物が言えないなんて大変そうだな、とか、自分たちの研究は大雑把すぎて申し訳ないな、というニュアンスだと思ってほしい。
しかし、そんな彼らもどうやら数学は厳密すぎて面倒になることがあるらしい。
理論は数式化されなければいけないから、物理にとって数学は必要不可欠な基盤だ。
だから日常的に数学には触れているはずだが、どうやら数式の正確な操作や証明はしばしば彼らを疲弊させるらしい。
Twitterのタイムラインでも、この手の数学者と物理学者の意識というか守備範囲のちがいを見かける。
反対側の極にいる自分からは、厳密すぎるくらいに正確に研究に取り組んでいるように見える人たちが、数学の厳密さにうんざりしている。
その様子にはある種の微笑ましさを覚えるし、同時に、どの複雑さを受け入れて、どの正確さを犠牲にするのか、それぞれの場所で考えているのだなと感じる。