科学マニアがSF作品に願うこと

読んでいて思わず引き込まれてしまうSF作品には、その世界でできないことが書かれている。

SF作品なので現実世界ではあり得ないことが起こったり、できないことができたりする。
地球外生命体と戦争をしたり、電脳化して外部記憶装置から情報を読み取ったり、様々だ。
架空の設定を楽しむためには、いかにもあり得そうだと納得させてくれるリアリティが欲しくなる。
実現可能かどうか、科学的に正しいのか、を細かくチェックしたいわけではなくて、そこに本当に世界があると騙してほしい。
世界があると信じられれば、景色や登場人物をより臨場感をもって受け取れる。
それはまさにSF作品を読む楽しみの一つだと思う。
映像作品であれば、素晴らしいクオリティーの映像がリアリティーを演出してくれるが、小説の場合はそうもいかない。
だからこそ、別のリアリティーの出し方が必要になる。

設定を細かく描くのは一つの方法だ。
脳移植ができるという設定のSF作品であれば、どのようにドナーとレシピエントの神経繊維をつなぐのかとか、移植された脳の拒絶反応はどうなっているのかとか、移植された部位によって脳の機能がどう変化するのかとか、書けることはたくさんある。
それらが、より精密に書かれているほど本物らしく見えるはずだ。
しかし、この方法には難点がある。
細かく描写するためにはより高度な知識が必要だし、精密な描写に飛躍したSF的な設定を入れるとしばしば嘘の部分だけが目立ってしまう。

だから個人的に、設定を細密に描写するのとは別の方向でリアリティーを出してくれる作品の方が好きだ。
その代表的な方法が、できないことを書くこと。
実際、身の回りにある技術だって、微妙にできなかったり、不便だったりするはずだ。
スマートフォンの普及や無線技術の発達で、いつでもどこでも動画を見られるようになったけれど、電波が届かない店や地域があったり、速度制限をかけられて実質的に見られなくなってしまったりする。
設定を細かく説明するのではなく、できないことをうまく書いてくれると、途端にSF的な嘘が本当に思える。

だから常に、どうかうまく騙してください、と願いながら読んでいる。
特に自分の専門分野である医療系や生物系はやっかいだ。
正確に書こうとしてあらが見えてしまい読む気がなくなってしまったり、逆に何でもかんでもできるように書かれてしまうと、嘘に乗れなくなってしまう。
断っておくと、文句を言うために読んでいるわけではないので、何も偉そうにこれはダメ、あれはダメと思いながら作品に触れているわけではなく、作中の世界を信じられなくなるのが悲しいという話だ。
架空世界の実在性を信じられなくなると、誰かが書いた作りものであるという、メタ的な視点が先に立ってしまう。

もっと面倒なことに、科学的な素養を感じさせない不正確な描写を積み重ねられると、作者がその分野のことに興味がないように思えて苛立ちを覚える。
これは完全にマニアやオタクに共通して見られる性質で、自分の好きなジャンルを雑に扱うな、という魂の叫びだ。
自分の作品を良く見せるためだけに、好きでも詳しくもない科学を利用するくらいなら、いっそ科学的な説明の一切を省いた作品のほうが、よほどすっきり楽しめる。
細かい説明などなくても、リアリティーを出す方法はあるのだから。

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