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掌編小説 クチュリエール
脱いでいく。自らの身につけたものをすべてはぎとっていく。手袋、ストール、コート。メガネ、ピアス、腕時計。化粧を丁寧に落とす。マスカラ、口紅、ファンデーション。服のボタンに手をかける。わたしがデザインしたものだ。カーディガン、ブラウス、スカート。ひとつずつ、そっと並べて床に置いていく。
深夜、自宅マンションの一室。ひとりだ。見ているのはトルソーと古いミシンだけ。電気はつけない。窓辺から月明かりが射しこむ。どうしてこんなことをしているのだろう。そう思いながらも、手がとめられない。
これまでしてきたのは、どちらかといえば反対のことだ。身につけるほう、たくさんの服づくり。イメージに橋を架けるように、生地を選び、断ち、ずらし、重ねる。ときには、あえて裂いて。困難や課題だらけのなか、思うようなものができたときは最高の気分だった。服を手に取って喜んでくれる人がいることにも幸せを感じた。つくった服を置いてくれる店を、自らの目や耳、手足を使って探し求めた。つながりを育て、ギャラリーやカフェなどで小さなショーを何度も催した。光のなかを歩くモデルにあわせ、服は生きものとして躍動していた。単なる平面のはぎあわせではなく、わたしの分身として。
そのうち、一部の界隈で少しだけ名前を知られるようになった。だが、いつしか自身のつくりだしたコンセプトに縛られるようになっていた。「自然体」を必死につくりこんだ。「人まね」と言う声が聞こえた。ライバル、専門家、顔も知らない人びと。ひとりでいても、誰かが囁く。息苦しさを覚えるようになった。つくりあげたものに愛着がわかない。触れているのに遠くから眺めているような気がする。無心につくっていた日々、ただ楽しかった日々を思った。その場所から、遠く離れたところまで来てしまったのかもしれなかった。
余計なものをひとつ残らず脱いでしまえば「自分」があらわれる気がした。下着を軽くたたむ。靴下を脱ぐと、フローリングの床がひんやりと触れた。
百六十五センチ、四十六キロ。これがわたしの体だ。頭頂部から足の爪先まで、確かめるように手のひらで触れる。かかとも爪も滑らかなものだ。だけど、一糸まとわぬ姿になったのに、まだまだ自分だという気がしなかった。きっと、このかたちも、つくりこんだものだから。
長い髪をぐっとつかむと、襟足のあたりまで裁ちばさみで切った。まだまだだ。皮膚に手をかけ、一気にはぎとった。思いのほか、するりとまくれた。月光にかざすと、からだをくるんでいた薄くやわらかな膜がゴムのようにふるえてゆれた。肉が重たかった。だから、これもとってしまった。積んでみると、ひと山できた。「どんな美人も皮の下は骸骨だ」と誰かが言っていたのを思い出した。骨もはずした。脳と神経をその隣に並べた。見えない手がまだ脱がせたがった。もう何もないのに。
ところが、あるものだ。「誰よりも」という思いを脱いだ。手ごわかった。ほかに誰もいなければ、お前だっていないじゃないか。霧のようなものが呼びかけて消えた。
答えは見つからなかった。わたしだったものが、ずらりと並んで月光に照らされていた。
ここで
こうして
眺めているのは
「わたし」なのだろうか
やがて中心を失った意識が白く明るく闇に溶けていった。
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短い小説を書いています。よろしければ、こちらもぜひ。
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