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【小説】蓮が咲く3

【三】
 

 髪を掴まれ、引きずられるように階段を降り行く。階段の先のドアが開かれ、放り投げられるように入れられたのは、薄暗くカビ臭い地下室だった。
 髪を掴んでここまで引きずってきた男がロシア語で言った。
「俺はアジア人をヤッたことがねえんだよなあ!」
 血走った目に、興奮した息遣いで、言葉が分からなくても自分の身に何が起ころうとしているのか、理解できた。
 胸ぐらを掴まれ、壁に叩くように押し付けられた時、覚悟を決めた。胸の奥が沸騰するようにざわつき、膣が緊張して縮むのを感じた。
 頭には銃口が突き付けられたのを感じた。乱暴に当てられ、こぶができた感触があった。
 ふと、自分の顔に近付いた男の顔を見ると、左目の目頭にこびりついた目ヤニに気が付いた。
「プリーズウェイト」
 考えるより先に出た言葉に、男が思わず動きを止めた。
半分乾燥してこびりついた目ヤニを爪も使って皮膚から剥がすように取ると、自分の衣服で拭いて払った。
「オーケー」
 そう言うと、改めて覚悟を決め、目を固くつむった。
 しかし、待てど暮らせど、何も起こらなかった。
 恐る恐る目を開けると、男が目を見開いたまま、固まっていた。
 男は荒い呼吸を繰り返しながら、銃口を頭から離すと、胸ぐらを掴んでいた手も緩めた。
 脚に力が入らないため一人で立っていられず、崩れるように座り込んでも、男は何も言ってこなかった。何もせず、ゆっくりと後ずさりしていった。
 気が付くと、ドアが開いたままの地下室の入り口に、もう一人のロシア兵が寄り掛かかり、ニヤニヤしながら見ていた。
「お前、まだヤッてねえのかよ」
「うるせえ」
 男が言い返した。
 男は女の二の腕を強くつかみ、再び引きずるように地下室を出て階段を上がっていった。狭い出入り口で同僚にぶつかっても一瞥もくれなかった。
「なんだよ」
 同僚が呟きながら、後に続いて階段を上がっていった。
 
 
 待ち合わせ場所に着いたナギサは、腕時計を見た。
 オフィス街の中にある、現代アートのモニュメントが鎮座する広場は、カップルをはじめとする待ち合わせ場所に利用されていた。
 間もなく、見覚えのある女性がこちらに早足で近付いてきた。
ナギサも気付いて、手を振った。
「わあ~!久しぶり!元気だった?」
 近付いてきた女性が興奮気味に言った。
「元気元気。そちらは? ちょっと痩せた?」
 女性が肩をすくめて言った。
「ちょっとね。後で詳しく話すわ。ところで……」
女性が上目遣いでナギサを見た。
「今日は何て呼べばいい? 本名??」
「本名は止めて」
 ナギサは遮るように言った。
「今日は『カオル』で」
「ってことは、仕事が大変なのね」
 女性が少し心配そうな表情で言った。
「そっちは? 今はどの名前使ってるの?」
「もう退役したもの。本名の香澄《かすみ》よ」
 
 
 二人は、カフェに入り、並木道の見えるカウンター席を取った。すぐ近くには地下鉄の入り口が見えた。
 コーヒーとケーキを頼み、席に落ち着いてからナギサが切り出した。
「会うの、何年振りだっけ?」
「四年ぶり……? それくらいじゃない?」
 間もなくコーヒーとケーキが運ばれ、二人は話に本腰を入れた。
「あのね、私、報告があって……」
 コーヒーカップを口から離して、ナギサは香澄の横顔を見た。
「離婚したの」
 ナギサは黙ってカップを置いた。
「そう……」
ナギサは、少しためらいつつも思い切って尋ねた。
「もしかして、PTSDが原因で…?」
 香澄は黙って頷いた。
「心療内科に定期的に通ってるのも、彼からしたらかなり限界だったみたい。私はそうは知らずに通院しながら二人も出産したけれど……」
 香澄には子供が二人いた。
 ナギサと香澄は軍学校の同期で、第三次世界大戦時には香澄も狙撃手として出征していた。
 戦地でレイプ被害に遭いかけ、その後のストレスにさらされた環境も相まって、救出後に帰国するとPTSDを発症した。主に不眠やフラッシュバックが主だったが、戦後の救済法で軍付属病院の心療内科に通院し、カウンセリングも受けていた。
 同時期、ナギサは砲撃で右足と左腕を失っていた。香澄がそうした状況になっていると知ったのは戦後になってからだった。
 その後、軍学校時代から付き合っていた恋人と結婚し、子供を授かってからはなかなか会う機会はなく、かろうじて時折メールのやり取りをする程度となった。しかし、二人目を妊娠してからはぱったりコンタクトを取っていなかった。
「ごめんね、お祝儀も頂いてたのに」
 香澄がいたずらっぽく笑ったが、ナギサはそれに波長を合わせなかった。
「子供たちは?」
 香澄が伏し目になり、呟くように答えた。
「取られちゃった……。二人とも……」
 香澄の目にじんわりと涙が広がった。
「“普通”の妻や母親が…良いんですって……」
 ナギサは黙って香澄の肩に手を伸ばし、お互いに身を寄せ合った。
 香澄は泣きながら続けた。
「今もね、時々、最後のお別れの時の子供たちの顔を思い出すの。上の子はイヤイヤ期真っ盛りだから、甘やかしてくれるパパが良いんだって言ってね、『ママなんて早く行って』って言ってて、下の子は指を口にくわえてきょとんとしてた。子供がいないと分からないかもしれないけど、上の子のそういう姿もね、思い出すと愛おしいの。あの子の人生の最初のヤマを、一緒に乗り越えてやれなかった……。私、不甲斐なくて……。でもその時、私、ボロボロで親権のために戦えなかった……」
「どうして?」
「二人目を妊娠中、上の子の世話もあってか、マタニティブルーになっちゃって。PTSDもあったから、ちょっとひどくてね。下の子がまだ一歳になる前に、私、テーマパークでロシア系の人を見かけたら反射でその場から動けなくなっちゃって。上の子が迷子になりかけたの」
 香澄は、その時のことを思い出したのか、額に手を当てた。
「彼の中では、それが決定打だったみたい。そりゃそうよね、母親失格だわ。私、何も主張できなかったの……迷子にさせかけた時点で、そんな権利ないもの……」
 香澄は両手で顔を覆った。
「元旦那さんは、シングルファザーで子供たちの面倒を見てるわけ?」
「ううん、実家に帰って、自分の両親と同居してるわ」
 香澄は自分の膝頭を見ながら言った。
「子供たちが、寂しくないのが、唯一の救いかな……」
 ナギサは何も言わなかった。そんなことないよ、きっと寂しがっているよ、といったうわべのみの言葉をかけるのは、あまりにも無責任だと思ったからだ。
ナギサは黙って香澄の肩を擦った。
少しして香澄の気持ちが落ち着くと、香澄がありがとう、と呟くように言った。
「せっかくのケーキ、食べましょ」
「そうね」
ナギサも姿勢を戻し、ケーキにフォークを入れた。
 おいしー♡と呟きながら味わう香澄に、ナギサが気になっていたことを訊いた。
「そういえば、おしゃれになったよね」
 狙撃手とはいえ、軍で日常的に訓練をするのもあり、細身の体型の者でも太ももが太くなりパンツスタイルのおしゃれが出来なくなるという話はよくあった。
 ナギサの知る香澄はおしゃれとはどちらかと言えば無縁で、機能性重視の印象があった。
「ふふ、実はね、今新しい仕事に就いたの」
「へえ、どんな仕事?」
 ナギサはケーキを食べる手を止めた。
「スカイライフよ」
「へえ」
 それは、洋服から家具まで、暮らしに関わる物をデザインから販売までしている会社だった。もちろん、ナギサも買い物で利用することがあった。
 ここで、ナギサはあることを思い出した。香澄は高校の時に写真部で、軍学校にいた時も趣味で写真を撮っていた。映画も好きで、よく後に夫となる恋人とよく観に行っていたのを思い出した。
「不思議なものよね。こういう業種って、専門学校で学んだりしないと無理だと思ってたから、ダメもとで履歴書送ったの。一応、写真の知識があることとかも書いたら、それが目に留まったみたいで。人手不足も相まって、まさかの採用が決まってね」
 香澄は少し恥ずかしそうに笑いながら話を続けた。
「部署にもよるんだけど、基本的に皆おしゃれでね、私なりに変に浮かないようにと思って雑誌みたり職場の人に聞いてみたりしてどうにか自分でコーディネートを考えられるようになってきたの」
 ナギサは、香澄に対して、思春期の女の子が本来は他人には見せたがらない努力を、少し勇気を出して自分に見せてくれているような感覚がした。
「慣れてきたら楽しくて。それに仕事そのものも楽しくて。なんだか不思議。昔観てちょっと憧れてたドラマに出てくるような、キレイなオフィスでパソコンを前にして仕事しるの。最初はちょっと信じられないくらいだったな。……実はね、私……」
 楽しそうに話していた香澄が、突然声を落とした。
「私、離婚して、一人にまだ慣れていない時、自殺が頭をよぎったことが何度かあったの」
 香澄はフォークを持った手を皿の横に置いた。
「でもそんな時、今の会社から連絡があって、それでトントン拍子に採用されて、今があるの」
 香澄はフォークを置き、両肘をついて通りを見たまま言った。
「自分で選択して決定して、軍学校に入学して、戦場に行って……通院しながら出産するって決めて……。周囲に支えられてたのは事実だけど、自分で生きてるっていうのが主軸にあった。でも、こうやって仕事とかおしゃれとか、そういったものに生かされるっていうのもいいものね」
 ナギサは、香澄の横顔を見ながら聞いていた。
 澄んだ瞳に、これまで以上の香澄自身の強さが映し出されていた。
 ふと、香澄の瞳に動揺が走った。
 香澄の視線の方にナギサが目をやると、ロシア人とみられる男性がこちらを見ていた。
「香澄」
 ナギサが香澄の手を握った。
「だ、大丈夫。ちょっとドキッとしちゃった。すぐ収まるから……」
 こちらを見ていたロシア人男性は、歩き出し、ナギサたちのいるカフェに入ってきた。ナギサは警戒した。
 ホットコーヒーをオーダーした男性が、まっすぐに二人の近くまで来た。
 香澄の動揺は収まらず、椅子からずり落ちるように降り、背中をカウンターに押し付ける形で立っていた。ナギサの手を握ったままだった。
 男は、片言の日本語で言った。
「アナタ、ハ、イシダサン、デスカ?」
「あなたは?」
 ナギサが訊いた。
「ワタシ、ロシア、ノ、軍人、デシタ」
 ナギサは香澄の方を見た。石田は香澄の姓だった。
 香澄は眉間に皺を寄せ、まじまじとその男の顔を見ていた。
 
 
 ナギサは夕方になっていたのもあり、場所の変更を提案した。男も承諾し、二人と共に移動した。
 ナギサは飲み屋を提案した。選んだのは宴会などでも使われるような賑やかな店で、半個室のようになっている席を頼んだ。
 男は店に入ってからも、席までの移動も物珍しそうに周囲を観察しながら付いてきた。
 ナギサは席に着くと、店員に申し訳ないんですがと最初に断った上で、お茶を三人分頼んだ。お茶が届くと、ナギサから切り出した。
「で、なぜ石田の名前を知っている?」
 ナギサはロシア語を話すことができた。
「私は、戦時中、軍人として戦地にいました」
 男が覚悟を決めた顔で話し始めた。
「気分を悪くしてしまうかもしれませんが、私は、上司に見つからなければ、捉えた敵はどんなことをしても構わないと思っていました。今思えば、野蛮でしかありません」
 男の話を聞きながら、ナギサは男の語彙力も大したことはなさそうだと感じていた。恐らく、学歴もほぼないと言っても過言ではなさそうだった。
「イシダサンハ、ワタシ、ノ、目ヤニ、取リマシタ」
 男の言葉をを聞いて、香澄がハッとしたのがナギサにも伝わった。
「あんな状況で、私の目ヤニを取った。私は、パニックになりました。今から襲われるという時に、親もしてくれなかったことを、あなたはさも当然であるかのように、やりました」
 その話は、ナギサも聞いていた内容だった。こちらから話す前に男から全て聞くことができ、本人だという確証を得た。
「それで、日本に?」
 香澄が男に聞いた。香澄は汗をかいており、まだ緊張していた。
「はい。あなたを、探そうと思ったのです」
 ナギサも香澄も、ぽかんとしてしまった。イシダという名前だけを手掛かりに来日し、会える可能性ははたしていかほどか。それでも奇跡は起き、こうして出会ったわけだが。
 ここで男は身の上話を始めた。貧しい母子家庭で愛情を知らずに育ったこと、素行が悪く、義務教育終了と共に早々に軍に入ったこと。
そして、香澄に出会った時のこと。
「地下室に連れ込んだ時、軍服の左胸に『Ishida』とあったのを見かけて……」
 自分が襲われるまさにその瞬間だったのに、なぜ他人の、しかも襲おうとしていた男に世話をやいたのか――
「私は、あなたに会いたかったんです。そして、ずっと謝りたかった」
 男は通路に膝まずき、土下座をした。
「モウシワケ、アリマセンデシタ」
「ちょっ……ちょっと!」
ナギサが男の腕を掴み、座席に戻した。店員や他の客の視線がこちらに投げかけられているのがひしひしと分かった。
 ナギサは自分の隣に座る香澄を見た。
 机の下で繋いだ手は、まだ震えていた。
 香澄はずっと男を直視できず、テーブルを見ていた。しかし、土下座をした瞬間に初めてそちらの方を見た。
「あの、カオリ、訳してくれる?」
 香澄が小さな声で訊いた。
「もちろん」
 香澄は通訳のペースを考慮して、内容を区切りながら少しずつ話し始めた。
 目ヤニを取ったのは自分でもなぜなのか分からないということ。帰国後PTSDを発症し、まだ完治していないこと。あなたの方を見ることができないのはそのためで、怒っている訳ではないということ――
「ああ、やっぱり……!」
 男は、香澄がPTSDになっているということを知った時、ナギサの訳す声を聞きながらも頭を抱えた。ナギサが一通り訳し終えると、男は背負っていたリュックサックから、茶封筒を出した。
「これを、受け取ってください」
中身が現金であることは見てすぐに分かった。
「受け取れません」
 香澄が初めて男の方を向いた。しかし視線は男の手元と封筒に向けられていた。
「いえ、少ないのですが、今のあなたがこうなった責任は私にあります。受け取ってください」
 男は香澄を見ながら話し、ナギサの方を見て続けた。
「そして、今後、毎月送金させてください。私の給料は少ないのですが、少しでもあなたの力になりたいのです」
 ナギサが一途な男の態度に一種の面倒さを感じながらも香澄に通訳した。
「私はもう、新しい仕事に就いています。お給料はあなたの努力の証です。そして、私がこうなったのはあなただけの責任ではない。こうして日本にまで来て、頭を下げられただけで十分気持ちは伝わりました」
 ナギサが再度男に伝えた。
 その日はそのまま三人で食事をした。男の名前はミハイルといった。リュックから文房具を出し、香澄に連絡先を書いた紙を渡した。食事中、ミハイルは香澄が戦後に結婚したこと、子供が二人いること、離婚したことを知った。ナギサは伝えるべきではないと思ったが、香澄が構わないと言ったのと、ミハイル自身が分からない点について積極的に訊いてきたのもあり、結局伝える羽目になった。
 ミハイルは最後の方ではほぼ無口になっていた。
 三人は、最初にナギサと香澄が待ち合わせた広場のすぐ横にある地下鉄に続く階段まで歩いた。
「ホテルはどちらに?」
 ナギサがミハイルに訊いた。
「このまま電車に乗らずに、この通りを真っすぐに行ったところなんです」
 その先は、ビジネスホテルが多いエリアだった。
 ナギサは香澄を見た。最初ほどの緊張はないものの、まだミハイルを直視できるようにはなっていなかった。連絡先の紙を受け取っていたのもあり、ナギサはこのまま切り上げようと思った。
「そうですか。私たちは電車なので。それでは……」
 別れを察したミハイルは、背負っていたリュックサックを前に回し、飲み屋で一度出した茶封筒を出すと、ナギサに押し付けた。
「ちょっと!」
 受け取らなかったナギサの足元にその茶封筒が落ちた。
 そのまま、ミハイルは走って行った。
 香澄はしゃがむと、その茶封筒を拾った。
「……どうしようね?」
「もう、受け取っとけば?」
 ナギサが呆れ顔で言った。
 香澄は、ミハイルの走って行った方を見つめた。
 
 
 帰国当日、ミハイルは、そわそわしながら空港にいた。
「ミハイルさん!」
 呼ばれて振り向くと、そこには香澄がいた。
 ナギサを含めた三人で食事をした翌日、香澄から連絡があった。ミハイルはまさかと思った。誤解を防ぐため、香澄からの連絡は日本語と翻訳アプリで訳されたロシア語でも同じ内容が書かれていた。
 そこには、帰国までに再度会って話がしたいとあった。
 夢のようだった。
 まさか、向こうから連絡をくれるなんて。そして、話をしたいなんて。
 何度かやり取りをし、ミハイルが日本を発つ日に何とか会う約束ができた。
 空港内のカフェに入ると、二人は向き合って座った。
 香澄は、まだミハイルの顔を直視できていなかった。
香澄は、この日のために、有料の精度の良い翻訳アプリをスマートフォンにインストールしていた。
「今現在、あなたは何の仕事をしているのですか?」
 ミハイルはアプリの便利さと正確さに驚きつつも、答えた。
「私は、今、軍人を辞め、自動車修理工場で働いています」
「この間のお金は必死に働いて溜めたものですよね?」
「そうです。あなたに会えた時のために」
 香澄の胸の内に、じんわりと温かいものが滲み、広がり始めた。
「私は、酒もたばこも止めました。自分の目標の方が大事だったから」
 男は香澄の方を見て言った。
「他に、できることはないでしょうか」
 ミハイルは思わず香澄の手を取ろうとし、香澄は慌てて手を引き、膝の上に隠した。その際に腕がわずかにぶつかったコップの水がこぼれた。
 ミハイルは、改めて香澄の精神的な傷を実感した。
「すみません、思わず……」
ミハイルが謝ろうとすると、香澄が言った。
「いいえ、気にしないで。そのうち、大丈夫になるだろうから」
香澄は髪を耳にかけた。
しばらくの間、沈黙が流れた。
 ミハイルは何も言わず、膝の上に降ろした手をみていた。
「……日本語は、どこで学んだんですか?」
 香澄が口を開き、少し間を置いて、翻訳アプリが訳す。
「ああ……ええと、インターネットと、人から貰った辞書を読んだり……あと、友人に日本のアニメのファンがいて、彼からアニメのDVDを借りて観たりして、それで覚えました」
 翻訳アプリは所々聞き取れなかったようで、妙な日本語になっているのは日本語が分からないミハイルにも分かった。香澄の反応を見てもそのようだった。
 再び、沈黙が流れた。
 ミハイルは情けなくて仕方がなかった。
 なぜ、今自分はここにいるのだろう。
 罪滅ぼしか?
 そうは言ったって、その正体はエゴだ。
目的は奇跡的に達成できたが、彼女はどうだろうか。
その上、こちらの気持ちを汲んでくれて、非常に心理的な負担をかけてまでこちらに合わせてくれている。
これこそが、恥というものか。
ミハイルは自分の身体がみるみる小さくなっていっているように感じた。膝の上の手は固く握られ、掌は汗ばみ始めた。
「そろそろ、チェックインじゃないですか?」
 いつの間にか顔を上げていた香澄がミハイルに言った。
 ミハイルが顔を上げると、香澄はガラス張りの店外を見ていた。ガラスに印字されている店名の文字の隙間から、飛行機の便の掲示板が見えた。
 香澄はすかさず且つ自然に伝票を持って席を立ち、会計を済ました。店外に出てから財布を見せて「払う」というジェスチャーをするミハイルに、香澄はアプリを通して、言った。
「先日のお金から払ったのよ。気にしないで」
 二人はゲートの方に移動すると、香澄がアプリを通じて言った。
「また、連絡します」
 ミハイルは、香澄の顔を見た。正直、直視できないのはミハイルも同じだった。どんな顔をすべきなのか分からなかったし、正直、一思いに刺してくれたらどれだけ良いかとも思った。
 ミハイルは思わず習慣から腕を広げ、ハグをしようとしてしまった。驚いた香澄が、後ろに飛び退き、ミハイルは我に返った。
「スミマセン……」
 自己嫌悪に陥ったミハイルが背中を丸めた。
 香澄は「そんなことはない」というつもりで、ミハイルの顔を覗き込んだが、心臓はまだ激しく波打ち、瞳を直視することができなかった。
 そして、ミハイルの袖を指でつまんで引っ張った。
 何事かと見るミハイルの手を、自分の手に近付けて握手をした。
「ドゥードストローゼン」(ロシア語で「お気をつけて」)
 ミハイルは反対の手も添えると、人目をはばからず膝から崩れ落ちた。
「ホントウニ……ホントウニ、スミマセンデシタ……」
香澄は周囲の視線を気にしながらも、自分も反対の手でスマートフォンを口元に近付けて言った。
「もう、十分許していますよ」
 
 
 ミハイルはゲートを通過した後も何度も振り返り、香澄に手を振った。
 香澄もその都度手を振り返した。
 
 


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