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【小説】蓮が咲く2

【二】
 
 
「うっ…うう…、どうして、何も悪いことをしていないのに、こんなことに……」
 被害者の親族は、警察の事情聴取に協力し必要なことを話した後、既に泣きはらした目に再び涙を溜めて呟いた。
「ただ、うちの子は生きていただけなんです。なのに……」
「将来的な自立を視野に入れて、あの施設に入所させました。まさかこんなことになるなんて露にも思わなくて……。本当に、大事な息子を返してほしいです」
「う…うう……娘を…娘を返せ……」
「作業所への就職という道筋が見えてきた矢先に……。無念でなりません」
「あいつは……あいつは、大事な家族だったのに、こんな突然の別れなんて、未だに信じられません」
「障害を持って生まれたからって、何がいけないんですか」
「なぜ殺されなければならなかったんでしょうか」
「あの屈託のない笑顔をもう見られないなんて、未だに信じられないんです……。ただ、一方で、もう介護に追われることがないんだと、ホッとしている自分もいるんです……」
「知能に障害がある場合は、悪いけど、分かりますよ。でも、うちの子の場合は……」
「正直、死んで、ほっとしているんです」
「知的障害がある方が狙われるのは……まあ……ね。でも、うちの子はそうじゃなかった。なのに、一緒くたにされてこんな目に……可哀そうでならなくて……」
「こんなむごい殺され方で突然の別れになるならば、もっと手元に置いておけばよかった……私、限界だったんです、でも…でも……」
「もう……寝返りの度に起きなくてもいい、定期的に痰を吸引しなくてもいい…一晩、続けて眠れるんですよ、あの子がいなくなったから。分かります?」
「あの子が五体満足で生まれてたら、どんな子に成長してたんだろうって、夢に見ることもないんです。もう、苛まれなくていいんです……」
 
 
「ま、色々だわな。」
 休憩室でコーヒーをすすりながら、ギルが言った。
被害者家族への事情聴取に、蓮のメンバーも同席させてもらえることになっており、少しでも解決の糸口になりそうなものはないかとアンテナを張っていた。
 もちろん、犯行に及んだ者たちの事情聴取にも同席することになっていた。
「俺、今回初めて知ったけど、障害ってほんと、世話も症状ごとで違うし、大変なんすね」
 リョウが紙コップのコーヒーに目を落としながら言った。
「俺も。身内にいなければ、知ることのない実態ですよね」
 同感したスカイが続けた。
 その時、一人の警官が休憩室を覗き、声を上げた。
「おっ、いたいた」
 その声に、蓮の全員がそちらの方を見た。途端に、シズカの表情がパッと明るくなった。
「近藤さん、お久しぶりです!」
 スカイも立ち上がった。
「シズカも変わんねえな。スカイも久しぶり」
 スカイは軽く頭を下げた。
「こちら、近藤さん。私の一つ上の先輩で、二人で麻取にいた時からお世話になってたんだ」
 蓮の全員が立ったり姿勢を正したりして、軽く挨拶をした。
「ところで近藤さん、例の件なんですけど……」
「ああ、メールした通り、今から行くか?」
「うちのもう一人の情報担当も一緒にいいですか?」
「ああ」
 近藤がどの人物かと見回したタイミングで、サタケが立ち上がった。
「初めまして、サタケです」
「ああ、どうも」
 近藤が笑顔を向けた。
その時、何人かのグループが休憩室に入ってきた。
最初に入ってきたのは、瞳が青く金髪で、長身の女性警察官だった。その風貌から、どうしても目を引き付けるものがあった。
 その女性警察官と、アカネの目が合った。そこにいた全員が、二人の視線のぶつかりにたちまち火花が散ったのが見えるように分かった。
「あらあ、根性なく警察辞めた奴が何でこんなところに??」
「そっちこそ、まさか、その目立つ風貌でまだ警察官やってたとはね。的役としては重宝されてるのかしら」
 レンの全員が、シズカの雰囲気の変わりように目を見張った。スカイがため息とともに額を手で覆った。
「ほら、行くぞ」
 近藤は慣れている様子でシズカに声をかけた。二人の視線は火花を散らしたまま、シズカはその場を後にした。サタケがそれに続いて休憩室を出て行った。
 女性警察官は先ほどの殺気を嘘のように消し、スカイの方に向き直り、声をかけた。
「スカイ君、久しぶり」
「ご無沙汰してます」
「元気そうで何より」
「今も麻取ですか?」
「うん。まあね。……お取込み中かな? またね」
「はい」
 スカイは軽く頭を下げた。
 女性警官は、そのまま同僚のいる方に合流し談笑を始めた。それを見て、スカイが少し声を落として話した。
「警察時代からあの人とシズカさん、あんななんですよ」
 スカイが疲れた様子で言った。
「何か相性が良くねえんだな」
 ギルが呟いた。
「案外似た者同士だからこそ、仲が悪くなったんだったりして」
 ナギサが言った。
 
 
「まあ、あまり期待はしないでくれよ」
「何でですか?」
 シズカは近藤の後ろを歩きながら訊いた。
「ホワイトハッカー集団なんて聞こえはいいが、実態は扱いづらい連中を一部屋にまとめちまっただけだ。扱いやすい訳がない」
 アカネの後ろを歩くサタケが、近藤にも届くように、やや声を出して言った。
「でも、この間の立てこもり事件の時、情報の回し方とか、電話回線のハッキングで重要な所をピンポイントで音声データ送ってもらって、かなり助かりましたよ。そして何より早い」
「まあ、立てこもってからすぐに行動を取ったからな。お前さんたちが来た時には、大体のデータを取得できてたし……ここだ」
 迷路のような廊下を進んだ先に、厳重にロックされた扉があった。近藤が胸から下げたカードをドア横の壁に備え付けられた機材に当てると、ピッと機械音が鳴った。今度は網膜をチェックさせると、ロックが解除される音がした。
「ここだ」
 近藤がドアを開けると、部屋の中は意外と明るく、シズカとサタケは一瞬面食らった。
「ようこそ、ハッキング対策課・チーム“白鷹”へ」
 その部屋の中には長机が並んでおり、等間隔にパソコンが並んでいた。その前に一人ずつ座り、黙々とパソコンに向かっていた。二人ほどは部屋の端の方をうろうろと歩き、一人はなぜか床に寝そべって天井を見ていた。見知らぬシズカとサタケが来て、何人かはこちらを振り返ったが、興味なさげに再びパソコンに向き直った。それ以外のほとんどは振り返りもしなかった。
「ホワイトハッカーとして優れた能力がありながら、引きこもりだったり障害があるがゆえに社会に出られない若者をこうして集めたんだ。中には、ブラックに片足突っ込んでたような奴もいるがな。ただ、あくまで時間の正確さや指示を正しく聞けるっていうのは最低限条件としたんだがな。いざ蓋を開けてみると、自閉症やアスペルガーがほとんどだな。そうじゃなくても、たまたま今まで診断されなかっただけで、そういう傾向を持ってる奴がほとんどだ。というか、そういう奴しかいない」
「能力的に貴重な人材ですね」
 シズカが言った。
「まあ……うん。でもなあ、やっぱりなかなかと難しいよ。気分のコントロールが苦手な奴が多いし、日常的に気分のムラも多くてな。いつにするかは未定だが、解散予定だ」
「「えっ?」」
 シズカとサタケが同時に声を上げた。
「解雇って訳じゃない。が、こういう特質を持った奴だけで集まると、気持ちがヒートアップするようで、逆に効率が悪いことも段々と分かってきてな。まだ試行錯誤はしてみてはいるんだがな……」
 ドアの縁に腕を当て、その腕に寄り掛かりながら、近藤は言った。
 シズカとサタケは黙って白鷹の背中たちを見つめた。
 
 
翌朝、ナギサが全員を集めた。
「先日の事件での取り調べが進んでいるが、特に特定の思想に乗っ取った行動というわけではなさそうだ」
 ナギサは、警察の水木から送られてきた資料をタブレットに移し、スワイプでページをめくりながら続けた。
「で、二人の元軍人、最後に配属されていたのは相馬原だそうだぞ」
 ナギサがサエを見た。サエがレンに勤務する前は相馬原駐屯地所属だったのだ。
「そこで、それぞれの軍人と接点のある人間に、当時の犯人の人格や勤務状況などを聞いてきてもらえるか」
「「了解です」」
 サエはナギサからその資料を受け取り、犯人が最後に勤務していた同じ部隊の者の名前の一覧に目を通した。その途中で、サエの目が留まった。リョウは、その表情を見逃さなかった。
 
 
「なあ、俺が聴取するんだからな?」
「分かってる。」
 リョウの確認にぞんざいな返事をし、サエは歩を進めた。
 相馬原駐屯地に着いた後、案内の軍人が来て、基地内を移動していた時だった。
 その人物は、今日は訓練中で、ヘリポートにいるとのことだった。ヘリポート横にある休憩室に通されてしばらくすると、サエやリョウと同じくらいの年の青年が入ってきた。
 案内をしていた軍人が手を挙げて合図をするとすぐこちらに気付いて、近付いてきた。案内の軍人が簡単に話をし、こちらに注意を促したタイミングでサエとリョウは立ち上がった。
「民間軍事会社“蓮”の栗林と山之内と申します」
リョウが挨拶をした後、二人そろって身分証を見せ、軽くお辞儀をした。栗林も山之内も、調査用の偽の姓である。
「本日はお忙しい中、お時間を頂きありがとうございます」
「いえ。私は陸軍ヘリコプター隊の路川と申します。例の事件はニュースで見ました。お力になれれば良いのですが」
 二人で席に着くと、ここまで案内してきた軍人が席を外した。サエとリョウは軽く会釈をし、その軍人を見送ってから、路川に改めて向き直った。
「早速ですが、赤羽と梶原らと一緒に働いていた頃のお話をお聞かせ願えますか?」
 リョウが切り出した。
 サエは手帳とペンを出し、メモを取る準備をした。
「警察の方にもお話したことと被るかもしれませんが、彼とは同じ班でした」
 路川は良い姿勢のまま、話し始めた。
「二人は、戦場経験者で、ちょっと陰のある感じではありましたが、あの、陸軍あるあるなんですが、甘いものが好きだったり、馴染みやすい側面もありました」
「一緒に勤務していて、様子や言動に変化等はありませんでしたか?」
 警察で取られた調書に目を通しながら、リョウが訊いた。
「そうですね……。梶原は妹に知的障害があるという話は聞いたことがありました。色々と大変そうだなとは思いましたが……。赤羽と梶原は、年も近くて勤務経歴も似たところがあり、趣味も共通していたようで、何かと親しくしていました。フレンズアプリも、結構早くにやってた記憶がありますね。あの、写真を上げたり、メッセージを送り合ったりするやつ……」
ふむふむとリョウが相槌を打つ。フレンズアプリは、近年若者を中心に急速に広がったアプリで、写真や文章を公表し、それについてコメントしたりその記事を公表した人物に直接メッセージを送り、交流をすることもできるツールである。
「他に、何か思い出せることはありますか?」
「うーん……。あ、休憩時間になると、ずっとスマホを見ていたのは、すごく印象に残ってますね。なので、あまり話す機会がなくて。こちらから話しかければ応えるし、挨拶も、ロッカールーム等での世間話も普通でしたが、とにかく、ちょっとの時間さえあればスマホをいじっていましたね」
「そうですか……」
 路川の話の区切りがついたタイミングで、休憩室の出入り口の方から路川の同僚が室内に顔を出した。リョウとサエの肩越しに、腕時計を指さすジェスチャーを見、路川は目で頷いた。
「すみません、そろそろ……」
 路川が切り出すと、リョウとサエが姿勢を改めた。
「貴重なお時間、ありがとうございました」
 リョウとサエが立ち上がって路川に向かってお辞儀をした。
「いえいえ、手掛かりになる内容があったらいいのですが」
 路川も立ち上がって言った。
 案内の軍人が促し、リョウとサエが再度路川に礼を言い、休憩室の出入り口に向かおうとした。
 案内の軍人と共に、リョウが歩き出し、サエがそれに続こうとした時、
「あの、」
 路川がサエを留めた。
「何か?」
 気付かないリョウたちは、休憩室を出てしまった。
「あの、馬鹿な質問だとは思うんですが、高橋早苗という人と知り合いだったりしますか?」
 路川が少しどもりながら訊いた。
「いえ……。存じませんが」
 サエが答えた。
「そうですか、いや、すみません……。実は、その女性とペンを握り込んで持つクセや考える時の仕草がよく似ていたので、ひょっとしてご親戚かと思いまして……」
 路川はサエを直視できず、顔を赤くしながら続けた。
「ほんとに、僕の心の支えの人だったんです……。もう一度、話がしたくて。……すみません、山之内さんにこんなしょうもない話を…ハハ……」
 路川は頭を掻きながら、ごまかし笑いをサエに見せた。
 サエは眉間に皺を寄せ、大きなため息をついた。
「受け身で生きるの、やめたら?」
路川は耳を疑い、思わずサエの顔を直視した。
「誰かに生かされるんじゃなくて、自分『で』生きなさいよ」
それだけ言うと、サエはくるりと向きを変え、休憩室を後にした。休憩室の外で待っていたリョウが言った。
「もっと言ってやらないでいいの?」
 サエは呆れ果てた顔でリョウを一瞥すると、何も言わずに再び歩き始めた。
「ゴメンゴメン、サエ、待ってよ!」
 気を利かせていたつもりの案内の軍人が小走りで二人を追いかけていった。
 路川は、慌ててサエを追いかけるリョウたちの足音を聞きながら、一方でサエの言葉が頭の中で反芻していた。
 
 
「リダツを操れるようになろうなんて思わないでよ」
 軍立病院の脳神経外科医師でサエの担当の砂子佳奈美が言った
「はい」
「本っ当によ。何が起こるか、私も分からないし」
 砂子は腕組みをし、サエのMRI画像の写真を見ながら唸った。
「こればっかりは、今後もどういう時に起こるのか、その前後の身体の変化とかを観察して分析していくしかないわよね」
 砂子はサエに向き直った。
「経過は順調で異常なし。また次の定期診察に来てね。リダツに関しては、引き続き、記録を続けてね」
「分かりました」
砂子は、電子カルテに必要事項を入力すると、言った。
「じゃあまた次回ね」
 
 
「うん、きちんと機能していますね」
 軍立病院で、シズカは診察した医師から説明を受けていた。
「違和感なんかは?」
「やはり雨の日とか、気圧の変化?なんかがある日は、ちょっと痛みますね……」
アカネが、髪に隠れたプラグの差込口を軽く触った。
「そういう日に出動した時はどうでした?」
「幸いまだそういう日はないんですが、天気の悪い日を選んで同僚と通信してみたら、特に影響はないですね」
「そうですか」
 医師はそう言うと電子カルテに追加情報を書き込んだ。
「今日はこのままお仕事で?」
「はい」
「ご苦労様ですね」
 医師は微笑んで話を続けた。
「一応、術後の定期診察は今日で終わりです。次は通常の定期診察になるので、間隔が開きますね。ただ、何か違和感やメンテナンスの必要があったら早い段階で来てくださいね」
「分かりました、ありがとうございます」
 会計を済まし、アカネが病院を出ようとすると、自分の名前を呼ぶ声がした。
「シズカさ~ん」
 振り返ると、サエがいた。
「今日は診察だったんですか?」
「ええ。サエちゃんも?」
「はい。これから出勤ですよね」
「うん。一緒に行こうか」
「はい」
二人は、駅に向かい歩き始めた。病院は河川の近くにあり、しばらくは川沿いの道を歩くこととなる。
「あの、脳への通信機器の内臓って、どうですか?」
「う~ん、そうねえ。普通の手術同様、時々傷は痛むわね」
「そういうものなんですね」
「ノイズが入ったりするような変な現象はこれまでなかったし。でも、私の場合はネット接続は有線繫がない限りできないし、仲間同士での通信くらいでしか使ってないから。参考にはならないよね」
「いえいえ、そんなことないです!」
サエは手のひらをシズカに向けて否定した。
「そのうち、外国語の勉強しなくても頭にSD差してサラサラッと外国語話せるようになっていくんじゃないかな? ネット接続なんてできちゃったら、それこそ勉強なんて要らないね」
「あはは、語学が上達しない私にはピッタリですね」
サエが笑いながら言った。
「そうそう、サエちゃん、この間もお手柄だったんでしょう?」
「へ? 何がです?」
サエがきょとんとした顔でシズカを見た。
「ギルさんを助けたって聞いたわよ。またお手柄ね」
「ああ、リダツのことですか……」
「リダツのこと、先生には言ってるの?」
「はい。一応は」
「でも、メカニズムや原因は……」
「まだ分かってません」
 サエが静かに続けた。
「私が自分自身をまだよく分かっていないというか……感触が掴み切れてないので、コントロールができてないんです。でも、絵空事ではあるんですが、いつかはリダツしながら身体を操作できないもんかなって思ってるんですけどね。でも、あり得ないか」
「あり得なくもないんじゃない?」
諦めるような話しぶりのサエにアカネが言った。
「脳にAI入れちゃうとか」
「ええ?脳にですか?」
「そうそう」
 シズカは軽い言い方で続けた。
「生命維持のための食事や排せつ、普段からしている挨拶や簡単な会話、着替えや通勤のような決まった作業はAIにしてもらって、生活しておいてもらうの。で、あなたの意識は他のところで仕事をする、と」
 話を聞いたサエが、う~んと唸った。
「そのAIには、もちろん私の思考回路を学習させて習得させておくんですよね?」
「もちろん」
 再びサエは唸った。
「意識が帰った時、『私』の戻る場所が無くなってそう……」
 サエが小声で不安を漏らすと、シズカは言った。
「でもどちらもサエちゃんでしょう?お互いそれぞれの領分でキチンと仕事してたら喧嘩なんてしないんじゃない?」
「なるほど……」
と、言いながら、サエはシズカの言う通りにはならないような気がしていた。
駅に近くなってくると、人通りが徐々に増えてきた。時間が十一時に差し掛かってきたのもあり、駅に続く道は開店準備をする飲食店も目についた。
たまたま通りかかった店に開店と同時に赤ん坊連れの女性客が入店できるかどうか尋ねていた。それを見てサエがアカネに言った。
「今時のママたちって、本当に綺麗ですよね。うちの母親なんて、比べ物にならないですよ」
「それは私も一緒だよ~」
 シズカが笑いながら言った。
「でも、それって仕事復帰したからでしょう? 産休や育休中はあんな感じでおしゃれしてたんじゃないんですか?」
「私、コーディネート考える時間があれば五分でも長く寝てたい人だし。あと、おしゃれな格好じゃ、公園には行けないからね~」
また別の飲食店の前を通った時、小さい子供連れの母親達が店前に出されたメニュー表を見て相談をしていた。サエたちがその母親たちの前に差しかかった時、抱っこ紐にベビーカーを押した母親が同様に通りかかった。やや小太りで、おしゃれとは言い難い姿のその母親は少し急いでいるようだった。母親たちの一人がそれに気付くと、他の母親たちに伝え、皆で声を潜めた。こうした時、彼女たちが何を小声で話しどう思っているかは、第三者にも手に取るように分かるものである。
幸い、ベビーカーを押している母親は、気付かず走り去っていった。
「ああいうの、おしゃれでマウント取ってるんですか?」
 サエがシズカに訊いた。
「それもあるだろうけど……多分、顔見知りで気に入らない人なんでしょう」
「ああいう人達は、今回の事件、どう感じてるんでしょうかね」
「さあ……理解する教養もないんじゃないかしら」
 シズカは前を見たまま、淡々と言った。
 
 
「何読んでんだ?」
 職場のデスクで昼食を取るサエの後ろを通りかかったギルが訊いた。
「学生の頃にテキストとして使われていた本とかです」
 サエがサンドイッチから口を離して答えた。
「こんなん読んで……悩みでもあんのか?」
 やや引きながらも、ギルは、おじさんが相談に乗るぞ、という姿勢でリョウのデスクの椅子に座り、膝をサエの方に向けた。
「いや、自分なりにリダツを分析して、自在に扱えるようになりたいなと思いまして」
 サエは、砂子のいうことを聞くつもりなど、初めから無い。
「そのために宗教の本読んでんのかよ?」
 ギルがやや呆れ気味に言った。
「いや、脳科学の方も調べたりしてますよ」
サエが言った。
 二人のやり取りを近くで見ていたナギサが訊いた。
「人間って、様々な宗教がいうように、体と魂でできているものだと思う?」
「うーん、あくまで私の私見なんですが……」
サエが控えめに話し始めた。
「体と魂と、思考でできていると思ってます。そして、それぞれに独立した意思があると思ってます」
「興味深いわね」
ナギサが背筋を伸ばし、腕を組んだ。
サエが具体的な話を始めた。
「脳が死んでも、体は臓器移植などできちんと血液を送ってもらえる状況になれば生きますよね。一方、体温が著しく低下した時、心臓から遠いところから凍傷が始まり、体の大事な部分を守るために捨てるわけですよね。これらは自分の意志とは全く関係ないし、自分の心で意思決定できるわけではない。体そのものの意思です」
「確かに」
 ギルが相槌を打った。
サエが続ける。
「魂はあらゆる宗教でいわれているように、体から抜けたら、ただの死体になってしまう、そういう存在だと私も思っています。ただ、もう一つ、これはこれで意思があって、たまにその意思を強く思う時があるんです、事の大きさは別として。例えば、芸術に触れたりして強く感動した時とか。体験する内容によっては、本能や直感として捉えたり、運命とか先祖の意志を感じたと捉えたり、神や霊のお導きだとか色々と捉え方があるとは思うんですが、それを受け止め信じるのは魂の意志だと思っています。
そして、最後に、私自身の思考がある」
「じゃあ、人は魂と思考と、二つの“自分”を持ってるってこと?」
 いつの間にか話を聞いていたシズカが訊いた。
「そうです」
サエが答えた。
「あー、なるほど。例えば、年頃のコの恋愛なんかで、好きではないけどハイスペックな男性と結婚した方が良いと思いつつも、一方で気の合う男性もいて、悩む時のような感じ?」
「まさにそれです!」
 シズカの例えに、サエが手を打ち人差し指を向けた。
「気の合う男性は魂が結婚したいと思っていて、ハイペックな方は自身の思考が結婚したいと思う……というような例えで、何となくイメージ伝わりますかね?」
 恋愛の例えで、分かりかけていた内容に心理的距離ができてしまったギル、休憩時間終了に合わせてオフィスに戻って会話に参加しようとしていたスカイが、頭を掻いたり額に人差し指を当てたりした。
「まあ、あれか。戦後の平和運動団体の『ほほえみの未来』に加わった若者が、就職やら進学やらを考え出す時期に一気に抜けたのと、似たようなもんか」
 ギルが頑張って自分の理解できる分野に話を引き戻した。『ほほえみの未来』とは、六年前に瓦解した反戦運動・リベラル活動の名称である。
「彼らも、真剣に活動していたって自負も実績もあるわけだが、我に返る――つまり、魂でものを考えた時には―リクルートスーツを着て就職活動を始めるという結果になったワケだ」
「その通りです」
 サエが応えた。
「に、してもだ」
 ギルがやや呆れたように口を開いた。
「おン前、普段そんなことばっかり考えてんのかよ」
「いやあ、一応宗教を学問として一時期だけでも向き合った経験を持つと、ま~一応それなりに考える材料が揃ってしまうといいますか頭がそっち方向に行ってしまうと言いますか……」
 サエは頭を掻きながらやや紅潮した顔で言った。
「サエにとって、宗教って、どういう位置付けなのかしら?」
 ナギサがサエに訊いた。
「仏教の、特に禅宗は宗教かと問われると何とも言えないのですが、神を信じるのが宗教だという前提で話しますと、今日において宗教は意味をなさなくなったと思います」
 全員が聞く姿勢を取っていることが分かり、サエは続けた。
「心の支えっていう点においても、規律や倫理という点においても、もう人間の歴史が長くなりすぎて、築き上げる関係が複雑になりすぎたり、コミュニケーションツールがハイテクでコミュニティの枠を超えてしまい、教えとされている内容を通り越してしまったように感じるんです。結果、起きた問題を解決するにあたり、宗教は役に立たなくなってしまった。
かつては、一つの宗教を信じているもので社会を構成し、循環していればよかったものが、グローバル化とネット環境により個人どうしが繋がりを持つようになってそういった社会という名の枠が消失したわけですよね。そこに残るのは本能だけです。直感的に嫌だと思うもの、習慣的に受け入れられない価値観。それこそ、普段言葉や人目に付く場での行動に表れない魂の意思です。それは、社会で試行錯誤されて作られた規律や教えとは対角線上に位置します。つまり、真逆なんですよね。」
「確かにな。魂の意思ってのは、本能なわけだしな」
 ギルが同調した。
「では、今後、宗教に代わって秩序を担うものは何だと思う?」
 ナギサが試すような目つきでサエを見た。
「そうですね、私なんかの見識で力不足な回答かもしれませんが、私は倫理だと思っています」
「なるほど」
 サエの返答に、ナギサが思考の芯から反応した。
「ただただ、考えることだと思いますね」
 サエが付け加えた。
「なるほどね。その通りかもしれないわね」
 ナギサが応えた。
 その時、点けっぱなしのテレビが一時の時報を鳴らし、ニュースが始まった。
『速報です。今日の午前十一時半頃、都内の○○のコンビニエンスストア前でデイサービスの送迎車を待つ男性が、男に刺される事件が発生しました。刺した男は近くを通りかかった男性とコンビニエンスストアの店員に取り押さえられましたが、刺された男性は重傷だということです。刺した男は、先日の障害者福祉施設襲撃事件に関して、犯人たちを解放しろ、障害者は社会に不要だなどと喚いていたということです――』
 
 
 事件から、一か月が経った。
「ねえ、障害者って、近くにいるだけでうざくない?」
「分かる!」
「この間、同じ車両に乗り合わせた障害者が、でかい声でずっと独り言言っててさ。まじうざかった」
「あんまそういうこと書きすぎると身元バレて会社クビになるぞ。学生は厳重注意か退学」
「でも、理解しろって言われても、不愉快なもんは不愉快だよ。この間混んでるバスでずっと貧乏ゆすりされて、すげえ不愉快だった。不快だと思わない方がおかしいだろ」
「分かる!私、数年前会社の帰りに、夜道でいきなり抱き付かれて、強姦魔かと思って本当に恐かった。それだけ恐い思いして、親からは『わざとじゃないんだから』とか諭されて。被害届も出させてもらえなくて。あんなに恐い思いして、その埋め合わせが菓子折り一つ。障害って特権なの? おかしくない?」
「うわー、マジかわいそう。恐かったね」
「本当に恐かったよ。皆も気を付けて! 近付かないのが一番!」
「そんなのに税金使ってんだな」
「マジ無駄」
「出生率上げる訳でもねえのに」
「生きてる価値あんのかね」
「施設を襲撃した人たち、良くやったよ」
「裁判で無罪にならないかな? 裁判所から出てくる時に、お祝いしてあげたい」
「英雄だ」
「残りの一人も殺してくれてればな……」
「まあな。でも、十分やったんじゃね?」
「ほんと、よくやったよ」
「偉いよね」
 ――障害者職業訓練施設の襲撃処刑事件は、社会に大きな影響を及ぼした。事件そのものの凄惨さの影響はもちろん、犯人たちの主張も到底倫理的に正しいといえるものではなかった。それ故、被害に遭った者たちはただただ同情されるに値し、それを表すコメントや認識が広く浸透していた。
 しかし、それは表向きの話だった。インターネット上では知的障害者への不満を吐き出す者がじわじわと増えていった。
『今朝、〇〇区の歩道で、支援学校の送迎バスの迎えを待つ親子に女が突然ペンキをかけるという事件が起きました。現場は閑静な住宅街の一角で、当時は通勤や通学で比較的人通りのある時間帯で、女は――』
「先失礼しまーす。お疲れ~」
 シズカがオフィスのドアを開け、顔だけ中に入れて言った。
「お疲れっす。……もうこんな時間かあ」
 オフィスのテレビの夕方のニュースが始まっていることに気付いたサタケが欠伸をしながら伸びをした。
 蓮の中で唯一の家族持ちのシズカはいつも十六時きっかりに仕事を切り上げ、基本的に夜勤は無い勤務形態になっていた。彼女が帰宅の挨拶をするのは時報のようになっていた。
 シズカがロッカールームで着替えを済まし、駐車場に向かいながら持ち帰る荷物をトートバッグに押し込み、エレベーターに乗ってからジャケットを羽織った。
 駐車場に着くと、手早く各ドアの手すりをハンカチで軽く触れて周り、異常がないことを確認してから車に乗った。エンジンをかけ、プライベート用のスマートフォンをチェックした。特に家族や下の子供が通う学童からの連絡がないことを確認するとシートベルトをかけ、音楽が流れだすのに合わせて車を発車させた。
 
 
「ああ、あの人来たわ」
 学童保育の門の近くに立ち話をしてる母親たちが、一斉にシズカを見た。
 シズカの子供は学校の敷地内で運営されている学童とは別の学童保育に通わせていた。送迎も自身でせねばならなかったが、通勤途中に寄ることのできる立地と保育内容の魅力から、あまり苦には思っていなかった。
 利用者は月額で利用料を取られるのだが、早く迎えに来てもその分返金されるわけでは無い。そのため、時々門の前や駐車場に停められた車の中でメールチェックや数分の仮眠をとる保護者もいた。また一方では母親同士で立ち話をする者もいた。そうした母親たちはウマが合うのか、何度か門の前での時間調整の際に居合わせるようになり、自然と決められた時間より早く学童へ来て立ち話をするのが習慣化していた。
 シズカは駐車場に駐車し、車から出ようとした時、はたと子供の靴袋が破れかけていたことを思い出した。
(セールやってるかどうかだけでも、ちょっと確認しよう……)
 プライベート用のスマートフォンを取り出すと、子供用品をネット購入できるアプリを立ち上げた。そのアプリでは育児に役立つウェブ相談や利用者同士のチャットなどもできる。アプリを立ち上げた最初に表示される画面には、販売に関するキャンペーンだけでなく、アクセス数の多いそれらのトピックも表示される。
(ん?)
 シズカはチャットで話題になっているトピックに眉間を寄せた――が、今は詳しく見ている時間はない。セールの有無だけを確認すると、スマートフォンを鞄に差し込み、車から出た。
 車で送迎する親が少ないこともあり、シズカは比較的目に留まる方の母親だった。ただ、車通勤はアカネだけではなかったし祖父母の協力を得ている家庭も多く、学童の敷地に駐車場も併設されているため、送迎に車を使う保護者は一定数はいた。駐車場は門とは反対方向にあったが、送迎用の出入り口が一つしかないため、配置上、門の近くは必ず通ることになっていた。
「目立ってるって自覚ないのかな」
「ないんでしょ、あれは」
「お仕事なんだったっけ?」
「確か、警察官……?」
「え~そうなんだ!」
「前、部署とか聞いてみたけど、あんまりって感じだったよ」
「あんまりって、どういう意味?」
「何か、聞かれたくない感じ? 交通課って言ってはいたけど」
シズカは門の近くで立ち話をしている保護者達からの視線を感じてはいたが、子供の迎えの方が優先だった。そのまま建物の中に入ると、まっすぐ息子のいる教室へと向かった。
息子を引き取り、先生から簡単な報告を受けると、そのまま玄関に向かった。靴を履き替えていると、
「石丸さん」
 シズカは、本名の姓で声をかけられた。
「はい?」
顔を上げると、そこには学童の参観で知り合った佐藤がいた。
「わあ、佐藤さん、お久しぶりです!」
「このタイミングで会うの、久々ですね~」
 佐藤は度々迎えでも会っていたが、ここ最近は会っていなかった。
「そうそう、お会いした時にお知らせしようと思ってたんだけど……」
 佐藤はそう言うと、名刺を取り出して差し出した。
「私、今度会社辞めて、手作り雑貨の作家になろうと思っててね」
 名刺を受け取ってもらい手が空くと、佐藤はスマートフォンを取り出し、ネット上の自分のショップの画像を見せた。そこには佐藤の作った布バッグや子供服が映っていた。
「すごい! これってもしかして全部佐藤さんの手作り?」
「そうなの~」
 佐藤は照れながら話を続けた。
「私、これで仕事したいなって思うくらい、好きなの。夫からは良く疲れないな~って言われるけど、やらない方が疲れが取れなくて。夢中になることで、元気をもらえてる感じなんですよ。名刺にネットショップのアドレスもあるので、良ければ見てみてくださいね」
そう言うと、彼女は靴を脱いだ。
「急いでる時にごめんなさいね、それじゃあ、また」
「いえいえ、実は丁度買い足そうと思ってたものがあったんですよ! 覗いてみます!」
二人は簡単なあいさつを交わすと、佐藤は教室の方に足早に歩いて行った。
シズカも息子に「行こうか」と声をかけ、駐車場に向かうと、門の近くで立ち話をしている保護者たちが何の遠慮もなくこちらを見た。
「ねえ、佐藤と石丸さんが話してたんだけど!」
「仲良かったのね、あの人達」
「佐藤って、最近手作り品の副業が調子良いんでしょ?」
「子供服じゃなくて、自分の服作ればって感じ」
「ちょっと言い過ぎ~」
「だって、あの見るに堪えない格好、ヤバくない? 今時、プチプラの服沢山あるのに、ちょっとはそういうの見なさいよって感じ。も~見てるだけでムカつく」
「あ~分かる~」
「石丸さんもスタイル良いのに、もうちょっとね。惜しいよね~」
 シズカは、恐らく自分のことが彼女たちの話題に上がっているのだろうと思いつつも、頭の中は帰ってからの家事の計画を立て、一方では息子の話を聞きながら駐車場に向かっていた。
 
 
「連日、こんなニュースばっかりだな」
 ギルがニュースを見ながら言った。
 オフィスのテレビ画面には、知的障害者が路上で怪我をさせられたり嫌がらせを受ける事件が取り上げられていた。
「最近は、こういうのを防ごうとした介助者が死傷するケースも出てき始めてますしね」
 一緒にニュースをいていたサタケが言った。
「そして更に、知的障害者だけでなく身体障害者が嫌がらせを受けるケースも徐々に出てき始めてるしね」
 シズカがコーヒー片手にやってきて、ギルの隣に座った。
「子供用品を買えるアプリなんだけどさ、もうこんなよ」
 シズカが自分のスマートフォンをギルに見せた。そこには、子供用品購入アプリ内のチャットが表示されていた。
 
「いつ襲われるか分からないから、福祉の仕事から転職しようかな」
「オレ、耳が聞こえないんだけど、知的障害者と一緒にされたくねえんだよな」
「命は皆平等 ……無駄な存在にもそれ言える??」
「こんな状態で子育てなんて、いくつ心臓があっても足りない。福祉の仕事から転職しまーす」
 
 スマートフォンの画面に映し出されている文言とは裏腹に、テレビからはコメンテーターの善意の見本のようなコメントが流れる。
『命は皆平等ですのに、怒りを感じますね』
『怒りもそうですが……それを通り越して、悲しさや虚しさを感じますね』
「同じ世界の意見とは思えねえな」
 ギルが鼻で笑った。
次に、被害に遭った人と同じような障害を持つ人々へのインタビュー映像が流れていた。
『これじゃあ、恐くて外出できませんよ』
『恐くて外出できなくて、この一週間外に出ていませんでした。日用品の買い物ひとつに、なぜこんなにもビクビクしないといけないのか……』
 ニュースは続く。
『影響はこんなところにも……』
 ナレーションの声に合わせて、画面がモザイクだらけの人物画から病院のような場所の映像に切り替わった。
『最近、中絶を望む妊婦の人数が増しているというのです』
 モザイクがかかった状態で、人物が映し出された。画面下には「都内の産婦人科医は――」という文字が浮かんでいた。
『最近、当院でも、明らかに増えていますね。それも、経過観察をしていきましょうと促すとそれに応じていたような方まで、堕せないかと相談に来られます』
 ナレーションが続く。
『主に出生前診断での判断で決める妊婦が多いという――』
「確実に、影響が広がってるな」
 ギルが言った。
「そうね」
 シズカが応えた。
 
 
深夜の公園の入り口の広場に、ドローンが一機、飛んでいた。
そのドローンは静かに広場中央の噴水の近くに立つサエの足元に降りた。
「随分上達したじゃん」
 少し離れて見ていたリョウが声をかけた。
「ふう」
 緊張の糸がほぐれると同時に、サエはゴーグルを額に上げた。
 サエは、ふと、シズカとの病院からオフィスに向かう時の会話を思い出した。AI搭載のアンドロイドに自分の思考を憑依させることができるなら、機械にもできるのではないだろうか。
「ここに、リダツした私が入ったら、自分の意志で飛べて映像を皆に送ることってできるかな」
「うーん……ドローンにも改造する必要があるかもしれないけど、できなくはないんじゃないか?」
 ただ、リョウには現実的なイメージが一切湧かなかった。ドローンがサエの声でしゃべり、文句を言われるギャグマンガのような想像だけが頭に浮かんだ。
「ねえ、あれ、ナギサさんじゃない?」
 サエの声に、リョウが我に返った。
 広場から歩道に出るには階段があり、ナギサは歩道を歩いていた。
「ナギサさん……」
 サエが声をかけ、ナギサがこちらに気付いてこちらを見た。その直後、見知らぬ男性がナギサに駆け寄ってきた。サエとリョウは、素知らぬふりをした。
 見たことのない男だった。
 男は、ナギサに何か手渡し、少し話すとキスをした。
 しばし見つめ合うと、そのまま男は元来た方へ戻って行った。
 ナギサは向き直り、階段を上がって二人のいる広場まで上がってきた。
「スミマセン、安直に声をかけてしまって……」
「いいえ」
 ナギサは、若干分が悪そうだった。
「何してたの?こんなところで」
「ドローンの練習です」
 リョウが答え、ドローンを見せた。
「熱心ね。期待してるわよ」
 それだけ言うと、ナギサは去って行った。
「さっきの、恋人かな?」
 サエの疑問に、リョウは首を傾げた。
「さあ……」
 
 
 別の日の夜、駅近くの広場には、ストリートダンスやスケートボードの練習をする若者に交じり、簡単なパルクールをしている若者たちもいた。
 そこから少し離れたところに子供向けのアスレチックがあり、それを利用して、簡単なパルクールをしている若者たちがいた。その中に、サエがいた。
「おねーさん、上手くなるの早いね」
「ありがとう」
 サエが動くすぐ傍に、リョウの飛ばす小型ドローンが付いて周る。
 雲梯から一回転して着地をしたサエは、若者とハイタッチをした。
 ふと、茂みの方を見ると、ナギサが先日とは別の男性と歩いている姿があった。
 歩いて向かう先は、ホテル街である。
 雲梯近くまで合流したリョウは、サエと共にナギサの姿を目で追った。
 その様子を見て、一緒にパルクールをしていた若者が訊いた。
「知り合い?」
「うーん……まあ」
 二人はうやむやな答え方をした。
 
 
 翌朝、早めに出勤したナギサは、給湯室でタブレットを片手に、コーヒーを立ち飲みしていた。
 物音に気付き、振り返ると、そこにはサエがいた。
「おはようございます」
「おはよう」
 サエはやや硬い表情で、コーヒーを入れた。
「昨夜も、ナギサさんを見かけました」
 ナギサがタブレットから視線だけを上げた。
「恋人…って訳じゃなさそうですね」
 サエが言った。
「プライベートに口出しされる筋合いはないはずだけど」
 ナギサがタブレットに視線を戻した。
「分かってます。でも、これだけは言わせてください。プライベートなことと公なことは直結します」
「それはあなただけの自論じゃなくて?」
「生意気なのは分かっています。でもどうか、あんなことはもうやめて下さい」
「おいおいどうした?」
 ギルが給湯室に顔を出した。
「プライベートに関することを、部下に口出しされてるの」
 ナギサが吐き捨てるように言った。
「そりゃあどんなプライベートが気になりますなあ」
 ニヤニヤしながらギルが言った。
「なんだか私、今日はツイてないみたいね」
「ナギサさんが良くても、相手に家族がいたら? 独り身だと聞かされていても、相手が嘘を付いている可能性は十二分にある。もしこれでパートナーや家族が悲しんだ時、ナギサさんは一ミリも自分を責めずにいられますか? もし、全く責任を感じないのであれば、こんな仕事していないはずです」
サエがギルの存在を無視したような形で一気に喋った。
 ギルが、「そういうことか」と納得した。
「じゃあ、私も自論を言わせてもらうわね。セックスなんてスポーツみたいなもんでしょ?」
 ハハハッとギルが笑った。
「じゃあ、お姉さん、今夜俺とスポーツしねえか?」
 ナギサはじろりとギルを睨み、吐き捨てるように言った。
「パイプカットして竿も短い男なんか興味ないわ」
 ナギサは空になった紙コップをゴミ箱に捨てると、オフィスの方に向かった。
「そりゃあ違えねえわな」
 ギルはケラケラと笑って言った。
「サエ、どちらも自然だし間違ってねえからな」
 そう言うと、ギルもオフィスに戻って行った。
 
 
最初は、そういうつもりは全くなかった。
仕事上がりで、しかも一段落着いたという安堵と、重要案件関連の資料を何一つ持たずに仕事を上がったという身軽さは確かにあった。そこで、一杯飲んでから帰るつもりでバーに入った。
そこで、男が声をかけてきたのが始まりだった。話をするうち、ウマの合うのを感じて、そのままホテルに行った。その男とはそれきりである。
その後も、オンコールではないタイミングで気の向いた時に静かなバーを選んで酒を飲んだ。何もなく一人で飲んで帰る日もあれば、そのままその場で知り合った男と肌を重ねることもあった。誰かと話しても、誰とも話さなくても、ナギサは十分だった。
 ナギサは、相手に対して特別な感情を持ち心を許し切っているわけでは無かった。そのため、眠る男を置いてナギサはホテルを後にすることも多かった。時折、既婚者と思われる男に巡り合うこともあったが、自分から誘ったわけでもないのだから責任があるわけでもない。
ナギサは、どうでもいいと思っていた。
 
 
「路上での障害者自身や障害者支援施設への嫌がらせで被害届が出されているだけで一〇九件、傷害事件が五八件、殺人事件が三件――これが今のところ、警視庁のデータで出ている数字だ。今のところ、共通点があるとしたら、加害者は分かっているだけで言うと若い世代が多い」
「感化されやすいのか?」
 ギルが言った。
「その可能性がある」
「ネットの掲示板なんかをぶらついてる印象だと、障害批判をする年代は幅広い気がするけどね」
 シズカがサタケと顔を合わせて言った。サタケが頷いた。
「何か共通点が見つけられるといいんだが……」
 うーん、と考えて、アカネが口を開いた。
「春の事件では、全員がフレンズアプリで知り合ったってことだったわよね?」
「ええ」
 ナギサが答えた。
「フレンズアプリに何かある可能性は?」
「どうだろう……。今や、フレンズをやっていない人の方が少ないくらいのご時世だし……」
「私、試しに始めてみようかな」
 シズカが言った。
「手掛かりになる可能性は低い気がするけど? それに警察も捜査しているし」
 ナギサの指摘に、アカネは笑って応えた。
「収穫無さそうでも、解決の手掛かりが掴めないなら、何か動かないと。だから試しにやってみるわ」
 シズカは娘世代の考えも知りたいしね、とも付け加えた。



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