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雑記|林縁について

山が好きで山に良く通う割に、頂上を目指して登ったことがあんまり無い。

登山には登山の楽しさがあることは最近やっとわかってきたけど、自分はどちらかというと、山の頂上より人の生活圏に近い「里山」とか「雑木林」とかいわれる景観が好き。実家のあたりはド田舎だけど雑木林が少ないから、その嗜好はおそらくは、学生の時に調査で通った岩手県の北上山地とか、奥羽山脈の麓のあたりにある景観への愛着、というより“憧れ”に近いものから来てる。

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もう少し具体的に言うと、ヒトと森との“関係性”に対する憧れ。

ヒトの生活圏は、ヒトが森に働きかけることで維持される。働きかけが強い程にその土地は人工物で占められていき、逆に、ヒトの社会で過疎化が進むと森への働きかけが維持できなくなる。そうなると「後は野となれ山となれ」の言葉の通り、土地は森に還っていく。

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たとえば北上山地は、薪炭林として、放牧地や採草地として、あるいは製鉄や製塩の燃料確保のため、いろいろな目的で人が定期的な伐採(≒植生の遷移を止める行為)を繰り返したことで、手つかずの自然でもない、人工物に溢れてもいない、いわば“半自然”の景観がたくさんあった。

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自分はその動的平衡ともいうべき状態を、ヒトと自然の“好ましい関係性”だと感じ、逆に、世の中にはそうではない土地のほうが多いと認識しているので、知っているけど手が届く範囲に無いものとして、憧れてる。

急に憧れについて語りだしたのは、ヒトと森の関係性を抽象的に語る時、それを表現する言葉が適切かどうかを自戒する必要があると感じたから。
(読んでくれた人に指摘をもらった。)

これまでこの手のことを書くとき、ヒトの生活圏と森には“境界線”のようなものが存在することを前提に「林縁」という言葉を使ってきた。ヒトと自然の境界線(≒林縁)は、人が森に働きかけることで維持されて、過疎化が進むとその境界線は書き換えられていく、というような言い方をしてた。
※例えば、これ↓↓↓

だけど、どんな場所にも自然物と人工物が両方存在し、さっき言ったような“半自然”の状態が好ましいと思っているのであれば、どこかで線を引くのは適切ではないように思えてきた。

言い換え方の一つとして浮かんだのは、線ではなく帯にすること。

境界線ではなく、人が程よく自然を攪乱するバッファゾーンのようなものがあるという考え方ならどうだろうか?半自然が少し包括できている気もするけど、人工物・緩衝帯・自然物の3項に明確に分けるのは難しい。

いずれにしても、(ヒトが意図的にコントロールしうる範囲では)ヒトによる攪乱の強度によって景観は形作られる。この度合いを、マチからオクヤマまでのスペクトラム、あるいはグラデーションの中に当てはめて、言い納められるような表現が必要だと思う。

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尻切れです。良い表現が思いついたら続きを書きます。

いまとこの先のヒトと自然の関係性を考えると、税金を投入しないと景観が維持できないのは"好ましい関係"とは言えないのではなかろうか?と10年くらい前に思ってから、このへんのことをなんとなく考えています。適切に表現する言葉がみつかったら、次は、何をどちらに持っていきたいのかをかんがえてみます。

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