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理系の卒論・文系の卒論の違い

今、京都芸術大大学院に通っていますが、様々なバックボーンの学生が集まっています。芸術系なので卒業は卒業制作ということになりますが、理系と文系でも、卒業論文の作法というか位置づけがかなり違うようです。

私の観察範囲でまとめてみたいと思います。

ちなみに、私は卒論(ないし相当物)は3つ書いています。

学部時代は経済学部(文系)と環境情報学部(理系、生物系)、MBAはプロジェクトにアサインでした。なので、文系や理系でも分野によっては大きく異なるのかなと思います。

文系と理系の卒論最大の違い

さて、文系、理系の大きな違いは、学部生、院生(修士)レベルでの問い(テーマ)の設定の自由度の高さの差ではないでしょうか。

例えば、私の所属していた経済学部のゼミの卒論テーマは以下の通りでした。

2009年度卒業生(13期生)14名の卒業論文タイトル
[1]『オフショアリングの経済学』
[2]『原子力発電所のpossibility~温暖化ガス中期目標実現での試算~』
[3]『中学受験の経済学~中学校選択のメカニズムと経済への影響の計量分析~』
[4]『道州制による地方経済発展』
[5]『日本によける就労環境の変化』
[6]『人的資本力と経済発展~雇用の質と生産性を高める~』
[7]『地域医療~医療偏在が招く医療格差の改善へ向けて~』
[8]『少子化と経済発展~少子化問題の解決にむけて未婚率を減少させる~』
[9]『市町村から見る日本の経済発展』
[10]『少子化対策としての子ども手当の評価』
[11]『金融政策の実効性~サブプライイムローンの反省から~』
[12]『若年層労働市場の特徴~就職氷河期の世代効果と若年無業の規定要因について~』
[13]『韓国の学歴社会~何のための競争なのか~』
[14]『Analysis of the Relationship between Economic Growth and Environmental Degradation』

慶應義塾大学秋山裕ゼミナールホームページより抜粋

後輩の皆さん、勝手に引用してごめんなさい。10年も前の卒業なので許して下さい。さて、理系の皆さんからすると、その幅の広さに驚かれるのではないかと思います。逆に言えば、学部生でもかなり自由に興味を持ってテーマを設定できるわけです。

これに対して、理系の卒論。これは、卒論のテーマを公開している東京大学工学部精密工学科のホームページをみてみましょう

このように、『卒論テーマ』がかなり詳細にあらかじめ決まっていて、教員から提示されています。その中からテーマを選択し、そのテーマを扱う研究室を志望するということになります。学部生レベルで、テーマ設定を自由にやれる学科は、ないとはいいませんが、理系では相当少ないのではないでしょうか。

つまり、理系では『問いの設定の自由度』に大きく制約がある。私の体感では、文系の学部生程度の幅で『自由に自分の興味を持ったやりたいことがやれるな』と体感できるようになるのは、早くて博士課程。基本的には、自分の研究室をもてる准教授ぐらいにならないと難しい感じがします。

では、なぜ、ここまで違うのでしょうか。

文系の論文は単著、理系の論文は共著が多い

そもそも、論文の位置づけに違いがあります。文系は単著(著者が1人)、理系は共著(著者が2人以上)が多くなります。ここで、CINIIという論文検索システムを使ってみましょう。

一般的な記事を除く為、明らかな研究用語で検索してみたいと思います。文系代表として、歴史学から「荘園領主」と入れてみます。

検索結果を見て分るとおり、ほとんどが単著です。もう1つ、経済学部の擁護から「期待効用」と入れてみます。

ところどころ著者が2名以上共著のものがありますが、情報系の論文で、事実上理系だったりしますね。

一方、理系を視てみます。まずは我らが麹菌の学名「A.Oryzae」を入れてみます。

ほぼ全て共著、多いものだと5名以上が並びます。物理学から『剛体』を入れてみます。

これもほとんどが共著。

これが、文系と理系の最大の違い。もっとシンプルに語弊を恐れずにいえば、『文系は1人で研究できるが、理系は複数じゃないと研究が出来ない』ともいえます。

文系より理系の方がコミュニケーションが要らないイメージですが、こと研究室に所属して共同で研究していくのであれば、理系の方が圧倒的にコミュニケーション能力が必要とされます.(研究室生活含めて)。

(ただ、必要とされる割にはコミュニケーションが苦手というか、独特な方法をとられる人も多く、正直、多ければ数十人規模になる研究室というコミュニティの長としては、かなり、独特の人間観で運営をされる先生もいらっしゃいますが、、、、まあ、これは学者、研究者というのはそういう物かもしれないです。)

理系の論文の入れ子構造

さて、共著となっていますが、学部生や修士の卒論のテーマはどのように決まるのか。比較的自由に決められる研究室もありますが、その場合でも、多くは、『研究室が研究テーマを持っている』そして、それが助教や博士課程の学生などが大きく分担し、その下につく修士の学生がパートをもらい、そのパートの一プロセスを学部生が研究するという構造が基本ではないでしょうか。

文系の人にイメージしてもらうと

研究室の先生、仮に中居教授としましょう。教授の中居さんが『この研究室は織田信長の研究をする研究室です』と決めたら、所属准教授の木村さんや博士課程の稲垣さんによって『私は信長の経済政策を研究します』『私は信長の家臣掌握を研究します』と分担があり、稲垣さんの下についている修士課程の草彅さんが『織田信長の尾張時代に家臣団掌握』を担当し、草彅さんの下についた学部生の香取君が『尾張時代の書状から読む織田信長と柴田勝家の関係について』を担当し、それが香取君の卒論になる。

という構造です。

そして、学部生でも稀に、修士課程だと最低1回は学会発表などがあったり、専門誌に論文を投稿したりというのがありますが、そのときには

『尾張時代の書状から読む織田信長と柴田勝家の関係について』、香取、草彅、稲垣、木村、中居

と、共著者としてこの垂直構造で関わった人が並びます。

そして、草彅さんの修士論文の前段が、学部生の香取君の卒論になっている研究結果を用いたもので、稲垣さんの博士論文の一部に草彅さんの修士論文の研究結果が入ってきている、、という様な構造になります。

そして、学部生の香取君がが、院に進まずに就職すると、翌年、学部生の城島さんが入ってきます。そうすると、翌年無事修士論文書き終わって博士に進学した草彅さんがいいます『城島君の研究はこの書状ね、これ、去年までいた香取君がやってたやつの引き継ぎだから。これ、香取君の実験ノートのコピー』と、研究テーマが引継がれていきます。

実際、当社でも、同じ研究室から何年か間隔を開けて学生を採用をしたとき、エントリーシートの卒論のテーマをみると「これ、うちの会社の*年前入社の社員の論文を引継いで、ここまで進んでるんだな」っていうのが、予想がついたりします。

逆に言えば、学部や修士レベルでは、論文テーマは引継ぐものであって、自由に選ぶものではないとも言えます。

理系が共著になるわけ

理系が共著になる理由としては『設備と予算』が一番大きいのかなと思います。

文系でもプロジェクトが大型化すると共著も増えてくるようですが、それでも、紙と鉛筆があれば、あとは調べて悩み考えろ、という感覚が強いです。

それに対して、理系は、実験には試薬や設備が必要です。文系は疑問が浮かんだら図書館で先行研究を調べるとか、聞き取り調査を行う、とかになりますが、理系の場合「この物質の成分が疑問なんですけど」「それ調べる設備はうちの研究室にないよ、あんな高い分析機器、うちの予算じゃ買えない」とかなったりするわけです。

また、特にこれは日本に特有ですが、文系と理系で視ると、企業や他の団体などからの予算が圧倒的に理系に付いています。逆に言えば「予算がある以上、成果そのものを求められる」とも言えます。「本大学は**からこのテーマで予算をもらうことになった」となれば、その予算を使って設備や器具を購入する以上、それに従うしかありません。

もちろん、教授クラスになれば、自分のやりたいテーマと社会の要請とを調整し、スポンサーの獲得交渉をし、というのはありますが、せいぜい修士クラスの学生にそこまでの権限はないといってよいでしょう。ごく稀に、情報系など新しい分野ではあるかもしれないぐらいです。

逆に、理系でも、実験系でない系統については、予算面における自由度は比較的高く、テーマ設定が出来る傾向にあるようです。

つまり、『問い』があったとき、『文系は調べる』『理系は実験する』という大きな差があり、また、これが先行研究の位置づけの差にもなってきます。

このあたりの空気感はこの九州大学のサイトをみると、理系研究室に所属経験の無い人でも、イメージが掴めるのではないかと思います。


先行研究、文系は批判、理系は基盤

さて、論文を書くときは、必ず『先行研究』に当ります。ただ、当った後の態度が、文系と理系で大きく異なるように思います。

もちろん、学問というのは理系文系に関わらず『批判的に考察』することが大切であり、『先行研究を踏まえる』ことも大切です。このバランスが、文系は『批判』より、理系は『受け入れる』という感覚が強いと感じます。

どういうことかというと、文系の場合、先行論文でこういうことが言われていた、として「**さんはこう述べているけれども本当にそうかな?」「その資料はその解釈で良いのかな?」と批判的に考察したうえで、それを元にして自らの問いを立てたり補強していく思考です。

それに対して、理系の先行論文の踏まえ方は、『***分析法ではこの材質までは分析終わってるから、それを他の材質に適用するとどうなるだろう』とか、『5段階ある***系の解明は3段階目までは解明されているから、道の4,5段階目を取り組もう』とか、『この現象には、この未知の物質が関わっていると推定されるから、その物質を突き止めよう』とか、これまでの先人の積み上げである先行研究を前提として、それを応用したり、未解明部分の解明をしたり、手法や結果の精度を上げていったり、となっていきます。

もちろん、理系にも学界の通説、定説に対して疑問を持ち、異議を投げかけるアプローチが無いわけではないですし、そういう研究は『定説が覆る!』と話題にもなりますが、体感では、そういう研究は、ごく一部のように思います。(これは、生物学という比較的コンサバな分野が私の基準だからかもしれないです。)

そして、実際に論文を書いたとき、文系には主張、個人の見解が求められます。どちらかというと、「***という書状が発見されこのように書いてあった」で論文は止められず、「だから、***がいえる」というとこまで求められる感覚があります。

それに対して、理系の方が『調べた結果分った』までで、論文が成立することも多いです。そこに個人の考察はそれほど求められていない。もちろん文系の考察も再現性は求められますが、理系の場合実験が何よりの再現性ですし(実験ノートで担保されている前提ですが)、「塩化ナトリウムを分解したら、塩素とナトリウムになりました」は、誰がどうやっても疑いようのない事実なんですよね。測定結果とかだと測定環境とかで疑義を発することもありますが、それでも、『その人が手を動かしたら**が**g検出された。』という客観的な事実自体は揺るぎなく存在します。

つまりは、文系には著者の主観の入る余地が大きく、理系は少ないとは言えると思います。この表現に語弊があれば、文系の論文は著者に対して属人性が高く、著者の「意見・説」が後世に受け継がれる、理系の論文は著者の手を離れてそこに現われた「実験結果」が後世に受け継がれる傾向にある、とも言えるかもしれません。

実際、文系ではある研究者がいたとして、その研究者の初期から現在までの論文を読んで思考の変遷を(批判的に)追うというのが、アプローチとして成立しますし、場合によっては、そもそもその作業自体が「***にみる思想の変遷」など論文として成立する可能性があります。

しかし、理系の場合、研究者個人に着目してその研究成果を追うというのは余りやらないと思います。そもそも、先ほど述べたように『共著』がおおいですしね。(研究学史とかなら別ですが)あくまで、実験計画の下準備として、これまでに判明していること、まだ未知なこと未着手なことを切り分けるのが先行研究調べの意義になります。

最後に

長々と書いてきましたが、私個人としては、現在、文系、理系と来て、芸術系という新たな分野での思考にチャレンジしています。まだ、語れるほどでは全然無いですが、これまでと違う思考法に四苦八苦しています。

そんな中、新しい思考アプローチを楽しんで、様々な観点を複合して世の中の課題にチャレンジし、万里の長城のなかのたったの1つの煉瓦ぐらいであっても、世の中に少しでも、自分なりの新しい知を産み出して貢献できたらなと思っています。

今日の話はここまで。

最後までご覧いただきありがとうございました。 私のプロフィールについては、詳しくはこちらをご覧ください。 https://note.com/ymurai_koji/n/nc5a926632683