見出し画像

種麹の歴史と未来(江戸~令和)

種麹の歴史について、前回は『種麹』が誕生するところまで、でした。今日は、種麹が誕生してから、の話をします。前回はこちら↓

種麹の歴史 江戸時代

種麹が誕生し、室町時代には当社糀屋三左衛門が創業したようです。また、江戸時代前半ぐらいには、豊臣家の家臣であった近藤吉左衛門という方が、大坂の陣の後に種麹業を創業したと伝えられています。

江戸時代前半までは、この2軒の系統、後期には4軒+いくつかぐらいの種麹業者が存在したようですが、大きくは当社と近藤吉左衛門さんの系統になります。

両社の違いは、当社は種麹の袋に黒い墨で印判を押し、近藤家は赤い墨(朱墨)で押していました。そのため、当社は黒い判子で『黒判(くろばん)』というのが種麹の商品名であり、実質の屋号として通用するようになりました。種麹のことを『もやし』ともいいますので、当社の種麹は『黒判もやし』となります。そして、近藤吉左衛門さんの方は、赤い判子なので『赤判もやし』と呼ばれていました。

それぞれの、印影を掲載します。

黒判もやし1

赤判もやし2

これが、それぞれに押されていたものです。上段の黒いものが当社の判。左が表面、右が裏面におされていたと伝えられています。下段の赤い物が近藤家の赤判を押した物です。それぞれ糀屋三左衛門、近藤吉左衛門が読めると思います。

さて、この近藤吉左衛門さんの系統ですが、昭和35年に商売を閉じられました。その際多くの古文書を京都府に寄贈し、なかでも、「蘖法伝書」という、それまで秘伝とされていた種麹の製法などが記載された資料が世に出てることとなり、種麹の研究が広まりました。なお、当社側は口伝であったようで、残念なことに文字資料が残っておりません。

その中に、こんな記述があります

麹の色が白いのは甘酒製造に良く、酒屋も好む。糀屋三左衛門は麹が白く胞子の着きが少ないもやしに変更した。その結果、酒や甘酒の風味が悪くなった。麹の見栄えが良くても製品の品質が悪ければ、何の役にも立たない。

18世紀、江戸時代中盤頃の記述です。近藤家から見たらライバルの当社の名前も登場しています。若干ディスられています。さて、何気ない記述ですが、この記述から多くの示唆が得られます。

それは、『製造業者によって種麹の品質に違いがある』ということが認識されており、『目的によって種麹を使い分ける』という概念が存在したことがうかがえます。また、『種麹が製品の品質に影響する』『麹の見た目と品質は必ずしも連動しない』ということも経験則として得られています。そして、その前提として『種麹業者は、江戸時代には、菌株を複数所有し、造り分ける技術を持っていた』ということが推察されます。

明治時代~戦前

さて、明治時代~戦前にかけてです。日本にも文明開化がやってきて、生物学、微生物学のレベルも一気に高まりました。江戸時代には種麹は実際には三河(愛知県)~灘(兵庫県)ぐらいの範囲で頒布されていたようですが、逆に、それ以外の地域では種麹ではなく、前回良かった麹を次回に使う友麹法で製造されていたようです。それが、明治時代になると多くの酒造家が品質安定化のため、種麹を種麹メーカーから購入するようになりました。

また、微生物に関する知識が高まると、これまで秘伝とされていた種麹の製法も、学術的に研究され多くの知見が共有されるようになり、種麹メーカーの数も戦前の一時には30軒ほどにまで増加しました。

大正期に入ると、この動きが味噌や醤油メーカーにも広まります。そして、一部の醤油メーカーは種麹を自社で生産するようになります。今でも、大手の醤油メーカーは種麹を自社で作成しているところが多くあります。この頃には『もやし』という表現でなく、れっきとした工業製品として『種麹』という言葉が定着しています。そのため、種麹を使うことが一般化したのが大正期からであった味噌や醤油の業界では、『もやし』という表現はあまり見られません。

また、明治から昭和にかけては、種麹の分離(菌株を取り出すことと思ってください。)も多く進んだ時期です。全国各地の味噌や醤油、清酒などの麹や流通していた種麹から菌株を取り出し、麹菌のライブラリーが充実してきました。そして、昭和初期には、焼酎用の白麹菌が分離されるにいたります。

麹を造るために必要な菌は全て単一の菌ではなく、色々な種類があるようだということ、これは江戸時代には経験則で分っていましたが、生物学の進展により裏付けられるようになりました。そして、この、麹を造るために必要であり、共通するように見えて、それぞれに性質が異なった個性を持っている菌の集団を『麹菌』と総称するようになってきます。

戦後~令和の未来

さて、戦争が終わり、日本は高度成長を迎えます。種麹メーカーもこの頃が一番多かったようです。中でも、大きく2つの系統、京もやしと難波もやしがあり、さらに関東地方や北陸、九州にも種麹メーカーが存在しています。

そして、時代の要請として、経済が成長する中人手不足であり、また、大量生産が求められました。その中で、醸造メーカーにおける麹造りも、どんどん機械化が進展してきます。

機械で何百キロ、トン単位の麹を造るためには、種麹も機械で造ることを前提にした菌株の選定になります。具体的には、菌糸(カビの本体の糸状のもの)が短く、麹が板状にならない(シマリが少ないと表現します。)ものが好まれます。家庭用で麹を買うと、麹が板状で販売されていたりしますが、機械で造る場合には、板状でしっかり固まっていると、機械が対応出来ず作業性が悪くなってしまうのですね。

さらに、オイルショックの頃から『省エネ』が言われ始めるとともに、作業員の労働時間の削減もテーマになってきます。また、産業化に伴い、『熟練の技』で造る物ではなく、経験が浅い採用したての作業員でも現場で対応出来る麹、つまりは「短時間で造れる麹」が好まれます。

具体的には、生育が早い分には遅らす方向に制御出来るけれども、遅い菌株は対応のしようがないという発想になります。家庭で麹を造られる方だと、感覚的に分ると思いますが、遅いのを早めるより、早いのを制御する方が易しいです。

というわけで、全体としては、毛が短く生育が旺盛な種麹が好まれるようになりました。

そして、種麹メーカーとしては、種麹は麹菌の胞子が商品化された物なので、当然ながら、胞子がたくさんつく=生産効率が良い種麹ほど、醸造メーカーさんに販売する際には低価格で提供出来るため、自然とそのような種麹が、価格面からも選ばれるようになります。

しかし、大量生産の時代が終わりを告げ、また、食の西洋化も進み、味噌、醤油、清酒など麹を使った製品が生産量を減らしてきます。それに伴い、種麹メーカーも統廃合が進み、現在では数え方にも寄りますが、企業規模といえるのは10社に充たないようになってきました。

種麹も商品ごとの個性に合わせた商品が求められるようになってきます。近年では、清酒の華やかでフルーティーな香りを出す酵母の特徴を引き出しやすい種麹などが、人気かつ定番品となってきています。

種麹の未来

さて、これからの種麹、種麹の未来について。

ぶっちゃけ、よく分りません。分ってたら商売にしています。

地産地消、テロワールが叫ばれる中で、「地域を問わず全国各地の醸造家が、特定の種麹メーカーから菌株を買う」というビジネスモデルが成り立つのか。しかし、そのビジネスモデルもこれまで書いてきたように何百年もある伝統、それを正しく発信しなければいけないのではないか。

また、塩麹や甘酒など『麹を食品としてそのまま食べる』という文化が登場しました。これ、一般の人からすると当たり前に思うかもしれませんが、実は、醸造業界にとっては画期的な発想です。

麹が誕生以来、何百年にも亘って、基本的には、麹は『醸造に必要な酵素を作るために造る物』でした。おそらく、推察で日本で造られる麹の80%以上は、『食品として口に入れる』ためではなく、『後の醸造工程で使う酵素を造るため』に製造されています。

最終的に、濾過されずに、人の口に入る麹は、味噌やあま酒など全部集めても、日本全体の麹の3割ぐらい、残り7割は醤油や清酒、焼酎のために造られるので、製造工程で除去されています。清酒の酒粕の中に麹だったお米が混ざるぐらいでしょうか。

『麹』を食品としてみるようになってきたことから、私たち種麹メーカーも様々な対応が求められているのが最近の流れです。今まで、一旦醸造メーカーさんを挟んでいた一般の消費者の方とも、より結びつきが強まっているように感じます。

皆さんと一緒に麹の未来を、悩んで、探して、いきたいなと思っています。

最後までご覧いただきありがとうございました。 私のプロフィールについては、詳しくはこちらをご覧ください。 https://note.com/ymurai_koji/n/nc5a926632683