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発達障害を「治してあげよう」の善意の人

今日は、発達障害ネタです。

先天的に聴覚が不自由な人に出会った時、「頑張って耳が聞こえるようになりましょう!」とはならないだろう。

その時のサポートは「手話を覚える」とか「筆談を取り入れる」とか、「聴覚が必要な仕事は避けるよう配慮する」とか、代替手段や、周辺環境の整備を想起するのが一般的だと思う。

しかし、先天的にコミュニケーション能力がないアスペには「頑張ってコミュニケーション能力を身につけましょう!」みたいな指導が最初に来るのは何故だろう。

そして、コミュニケーション上の配慮を周囲に求めたり、コミュニケーション能力が必要な業務はなるべく避けたりすることを「甘え」と捉えて、あくまでも「コミュニケーション能力そのもののカ改善」に拘る指導をしたりする。

ここの「コミュニケーション能力」は、本人の状況により、「集中力」とか「注意力」とかだったりもするけど、概ね同じ。「集中力が無いなりに何とかする」ではなく「集中力を身につけなければダメだ」みたいな指導になりがち。

「人の目をみて話を集中して聞かなければダメだ。それが人間としての当たり前だ。」みたいな。「集中力が無く、人の目の動きがノイズになるなりに、デバイスを使ってナントカしよう」みたいな発想にならない。
少なくとも、僕の年代における少年期、青年期の指導の主流はそうだったと感じる。

人生の各段階において、”「君のコミュニケーション能力」は治さなくてはダメだ、なんとか治してあげよう”という、「善意の指導者」が僕の目の前に現れては、結局治るわけがないので、治らないことに失望、立腹される

こちらはこちらで、「失敗経験」だけが積み重なり、大抵、そういう指導の際に伴われる言葉「人としてダメだ」という言葉に傷つき、自尊心が低下するということを、人生の節目節目で、6回ぐらいは経験してきた。成人すれば、「また、このパターンにはまるのか」というのも学習するので、善意の人と出会うことが、人生の重荷にもなってきた。

その意味では、”「治してあげよう」の人”に、ここ最近出会わなくなったというのは、今の時代の方が、発達障害に対する理解や対応法が広まっているのかな、と思う反面

「単に大人になったからいわれなくなっただけ」「もう40歳超えた初老の男性に、いちいちそんなレベルの注意はしない」という怖い可能性もありうるなと思ったりする。

東京出張帰りの新幹線の窓に映る景色を見ながら。

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