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『ポスト・サブカル焼け跡派』感想

・一応未読の方のために簡単な紹介を。70年代以降、消費社会の出現~の日本社会について、各年代を代表するキャラクター(=記号)を題材に、社会の中でどのように消費されていったのかを論じている一冊。
・それぞれのタレントがどのように社会を乗り越えて(乗り越えられないで)いったのか考えることで、われわれが現在の社会をどのように生き延びるかという問題提起にもなっている。
・各タレントが「通史」の中に位置づけられており、「社会⇔カルチャー」の対立軸の変遷がわかりやすくまとまっている(縦の流れがわかる文献は本当に貴重!)。また言及や引用が膨大にあり、サブカルチャー史のカタログとしても機能している。
・全体に、カルチャーを「快楽」として「消費」することへの禁忌があり、現在を乗り越えようとする熱量に胸が熱くなる。

以下は内容についての気になるところ・思ったところ。

・気になるところ①。星野源評の、セクシャリティに対する批判。紅白歌合戦「おげんさんといっしょ」にて、LGBTを理解するような発言をしている一方で、女性消費的な「下ネタ」を継続していると、性に関するダブルバインドを取り上げ批判している。
・個人的には、彼の活動に通底しているのは「諦め」だと感じている。それは上記の「LGBT」も「下ネタ」でも一貫していて、紅白では紅白の、深夜ラジオでは深夜ラジオの、優等生を「演じて」いるだけにすぎない。言及されている以上に絶望と諦念の人なのだと思う。


・椎名林檎評については誤りがあるように思う。
・本書では「甘やかさ」「普通」というキーワードで活動が論じられていたが、それは一部をつまみ食いした感想にすぎないと思う。
・彼女の活動は「コスプレ的」であるのは間違いなく、キャラクターは演じられ、無限増殖的に増えていく。そのため、「椎名林檎」像を正しく把握するためには、活動全体を俯瞰的に見る必要がある。

・そして本書で見落とされているのは、彼女自身が各アルバム内に「救済」を用意している点。例えば『勝訴ストリップ』では、作品の中心に「罪と罰」が置かれ、信頼→依存という「罪」が、苦痛という「罰」で「救済」されるという構成になっている。
・具体例。最終曲「依存症」のラスト《翻弄されているということは状態として美しいでしょうか/いいえ綺麗な花は枯れ醜い過程が嘲笑うのです・・・何時の日も》という一節。主人公は《翻弄》=依存によって、《花が枯れ》るように《醜い》姿になるが、そこに《嘲笑》という罰が下されることで、社会性が回復される=実存が救済される、という、アルバム全体の流れがまとめられている。

・同様に、『教育』では「心中」の反動としての「日常」に、『日出処』では「消費社会」における偶発的な「喪失」に、希望が見いだされる。どの作品にも「ポップス」という言葉では消化できないような、哲学的な問いが内在されており、だからこそ「カリスマ」でいたのではないか、と思いました。


・最大の功績は大森靖子の政治性について言及している点。ZOCの活動も含め、大森靖子が「やろうとしていること」を、しっかりと論理立てて援軍している。
・一つ前の章の「秋元康」と、大森靖子を対比すれば、それは「構造主義」と「実存主義」の対立だといえる。
・構造主義的に世界を見れば、そこには大きな仕組みがあって、我々が「自分」だと思っているものは外部から規定されたものに過ぎないということになる。一方で、自分は(偶然だとしても)絶対に自分で、そのいなたさからは抜け出すことはできない。そのとき、我々はどうするべきなのだろうか。
・資本と暴力が幅を利かせて、過酷さを増す社会状況において、オルタナティブな生き方としての大森靖子を取り上げたことの価値は、今後ますます高まっていくと思う。

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