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感想:ニュースの重さは誰が決める? 【朝日新聞編集者の言葉と、新聞を読まない世代の感覚差】

こんにちは。
SIerでマネージャーをしている29歳です。

最近、朝日新聞のポッドキャストをたまに拝聴させていただいています。

その中の、4月10日の配信、1:01:50〜新聞編集者としての情報の重さを決めるエピソードで、少し思うところがあったので、それについて書きたいと思います。

「訃報だけは絶対評価だ。」

編集者の3名が集まってお話ししている中で、"相対評価、絶対評価"に関連するエピソードが始まりました。

紙面の構成は、その日のニュースの相対評価そのもの。
紙面の中の位置や見出しの大きさを、ニュースに順列をつけて決める。しかし、訃報だけは、「その人がどういう人か」つまり、功績・知名度・今尚現役であるかなど、色々な背景によって、その日のニュースのインパクトに関係なく、見出しの大きさを決めるというのが、編集の方法というらしいです。

これが、「訃報だけは、絶対評価的である」というお話。

なるほど。
亡くなられた方に対して、絶対評価をつけるのは、かなり難しいだろうな。
と思いながら聞いていました。

しかし、次の話題で、情報に対する意識の違いを感じはじめました。

段落数なんて、どうでも良くない?

スピーカーのお一人の、安田桂子さんという方がこんな話をはじめます。
一言一句一致して書き起こしていないこと、ご了承くださいませ。

「トップニュースは段落を4段以上。次のニュースは3段分の見出しを使って。要はトップの見出しより大きくしない。という決まりもある。どっちが大きいニュースかが一目でわからなくなるから。大江健三郎さんの死去は、2番手のニュースなのに、4段落使っている。(中略)これまでの文学者の中でも、最大級の扱いだ。と話しているのが聞こえた。
(略)
その日の夜のニュース番組を見ていたら、(トップニュースである)袴田さん再審決定も、大江健三郎さんもサラッと流れていて、世の中の判断と、私の編集者としてのあれが、違うのかしらと思ってしまった」

 4月10日の「朝日新聞、ニュースの現場から」podcastより。

私はこれを聞いて違和感を覚えました。

直感的に思ったことは、 段落数なんてどうでも良くない? ということでした。
新聞紙の1つの面積において、どれほどの割合を占有するかということを、考えること自体が、少しくだらないと思ってしまったのです。

さらに、テレビ番組の話。これも、違和感がありました。
テレビなんて見ないので、まるでテレビが世の中の判断であるかのような言葉尻に、そう感じてしまったのかもしれません。

段落数は、結局読み手の脳で変換されるもの。

私は29歳で、Z世代よりのY世代(ミレニアム世代)です。
新聞は生まれてこのかた、読んだことがありません。
一人暮らしの自宅には、テレビがありません。
天気予報も、確認していません。

そんな私のニュース源はほぼ、LINEニュース、インスタグラム、たまに聞くポッドキャストです。

個人の、ニュースに対する価値観って、そんなものだとも思うんです。

実際に、博報堂、生活総合研究所の調査では、「毎朝、新聞を読まないと不安になる」が、1998年から右肩に下がり続け、最近では7.5%
「情報は主にソーシャルメディアから得ている」が、全体で16.3%、20代で38.6%と、右肩上がりに推移しています。

新聞でどれくらいの面積を占めるか、なんて、もう多くの人にとってはどうでもいいことで。

個人個人がメディアを選べる時代であり、小さいメディアでも情報を操作できる手法がある。それは10年前から当たり前のこととして、数字としても推移しています。

こうなると、段落の大きさは、読み手があらゆる情報を取集して、脳内で決めるんです。
新聞の一面で取り上げているという事実を重要視すること自体が、危ういことであることを、生活者はすでに知っているような気もします。

だから、私はPodCastでの会話に、違和感を持ったのだと思います。
情報の大きさは自分で決めるもの。新聞の段落数がどうだとか、全く重要ではない。と。

マスメディアの価値はその歴史にある。

SNS等の情報は、「フィルターバブル」の問題に代表されるように、それはそれで課題もあります。

マスメディアは、オワコンといわれて10数年くらいは経過していると思いますが、それでも、高いコンテンツ力と豊富な経験・ネットワークによって、その力を維持しています。
(ただ、もう最近の世代は優秀な人は集まっていないでしょうから、あと20年以内のうちに、かつて優秀だった人たちが引退、代が完全に変わって、途端に崩れ落ちるでしょう)

そういった会社の歴史はあるので、これまで新聞の一面が何を扱ってきたかこれまで情報の歴史を築き上げてきたメディアとして、現代のニュースに対してどういう評価をするのか、という役割は、果たしてくれていると思います。

同じようなことを、Podcastの終盤で安田桂子さんが語ってくれています。
作曲家の坂本龍一さんの訃報に対してのコメントです。

(昔の記事を坂本龍一さんの訃報の際に探していると)その時代時代で記者が坂本さんをどう見ていたか、という記事が出てくる。音楽の最先端をいっていた時もあれば、原発に対して声をあげている坂本さんがいたりして。
そういう蓄積があるというか、1人の人を、色んな人で見てきたという蓄積があるというのが、これって朝日新聞にとっての財産であると思った。
坂本さんから取材をしたことがある記者が、彼がどんなことを語ったかを、取材の裏話を織り交ぜながら書いている記事もあって。より坂本さんを知る手がかりになる、そういう情報を短時間で、コンテンツとして出せるのは、新聞社としての強みだなと思った。

4月10日の「朝日新聞、ニュースの現場から」podcastより。

坂本龍一さんの、父親としての姿や、死生観についてなど。
人間性が垣間見えたり、あるときある瞬間の評価を、すぐキュレーションして記事にできるという強み、確かにそれは、メディアとして価値あることだと思いました。

また、メインMCの神田大介さんは、訃報の段落数問題について、最後このように語っています。

(どのように決めたらいいかというのは)難しい話だし、どっちでもいいというか。
あるいは、受け取り手がどう思うか、ということよりも、
朝日新聞なら朝日新聞が、どういうふうにこのニュースを評価しているのか、ということ自体が、世の中に必要とされている部分もあると思うんですよね。

4月10日の「朝日新聞、ニュースの現場から」podcastより。


これからの社会の「ニュースの重さ」を決めるのは、
一体誰なんでしょうか。

情報が溢れ出る現代社会で、改めてその取り扱いを考えるきっかけとなったエピソードでした。

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