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本日の「どうでも良いのに時間をかけて考えてしまったことランキング」第1位の話

昨日の夜、noteを書かなかった。
久しぶりに同居人と一緒に白ワインを1本飲んだからだ。
ほろ酔いと満腹で心が穏やかになったわたしは、リビングでぐっすりと眠った。
目覚めたのは3時間後。
幸い夕飯を早い時間に食べていたので、まだnoteを書けなくはない時間だったけれど、せっかくだしひと休みするか、と思って、昨日はサボった。

そのせいもあってか、今日の午前中は我が家全体が気怠い空気で充満していた。
8:30くらいには起きていたのに、「サボりついでにもうちょいサボるかぁ」とベッドでゴロゴロと過ごす。
そもそもサボったのは8時間以上も前の話なので、「ついで」もなにもない。
お酒を飲んだ次の日は、二日酔いでなくても眠気が尾を引く。
「ついでついで」とまた目を閉じた。

寝床から出たのは12時前だった。
いつもなら「最悪だ、1日が終わった…」みたいな気分になるのだけど、今日はそんなに悪い気分はしなかった。
たらこ焼きそばを作って、同居人をミーティングへ送り出す。
きのう育てはじめたネギを見ると、早くも成長の兆しが見えた。

あしたは地区のお大師さん掃除の日だ。
8:00集合なので、今日はあまり夜ふかしができない。
前に住んでいた地域は、山の上に7:00集合だったので、かなり優しい地域だな、と思う。
それでも引っ越してきてはじめてのお大師さん掃除なので、寝坊するわけにはいかない。

そういうわけで、今日は1日のはじまりが遅いにもかかわらず、1日を早めに閉じなくてはならない日だった。
起きていられる時間が短いので、効率よく過ごさなくてはならない。
しかしながら我が家は気怠い空気が充満している。
数学の問題を1問解くたびに謎の休憩を挟んでしまう。

謎の休憩を挟むせいで、集中力が減って、どうでも良いことを思考し始める。
本日の「どうでも良いのに時間をかけて考えてしまったことランキング」第1位は「共通因数について」である。
数学の問題を解いていると、どんな単元でも「共通因数でくくる」という行為が出てくるから、きっと数学を楽しむための必須能力の一つに「共通因数を見つけ出し、共通因数でくくる」という能力があるように思うけれど、果たして日常生活の中で、わたし「共通因数でくくる」ってやっているのかしら。

そもそも共通因数でくくるとは。

$${2x+4y=2(x+2y)}$$
こんな感じで、共通している数字や文字でまとめること。

なんでもかんでもまとめれば良いというわけではなく、「意図を持って」まとめなくてはならない。
たとえば、上の例のようにまとめるのであれば、与えられた式はこんな式かもしれない。

$${x^2-xy-6y^2+2x+4y}$$を因数分解せよ。
$${x^2-xy-6y^2+2x+4y=(x+2y)(x-3y)+2(x+2y)}$$
               $${=(x+2y)(x-3y+2)}$$

まず、$${x^2-xy-6y^2}$$が因数分解できそうだぞ、と考える。
$${x^2-xy-6y^2}$$が、$${x+2y}$$と$${x-3y}$$を因数に持っていることに気づく。
じゃあ$${2x+4y}$$も$${2}$$でくくって$${x+2y}$$を呼び起こそう!
「汝のあるべき姿にもどれ!」
さらに共通因数$${x+2y}$$でくくってやれ!
「クロウカード!」
みたいな流れで無事にこの式は封印される、否、因数分解される。

わたしの疑問は、ここから先である。
果たして日常生活の中でわたしは「共通因数でくくってる」のかしら。
我ながら意味不明である。
ただ、気怠い空気に飲み込まれた人間なんぞこんなものである。

さすがに共通因数なんて現実世界には存在しないか、わたしったらばかばか、と次の数学の問題を解こうとするのだが、共通因数でくくればくくるほど、あれ、これ、日常でもやってんな、と思ってくるのである。

たとえば、こんなとき。
Case1:「トイレ行くついでにトイレ掃除しーとこ」

そもそも「トイレに行く」という行為は「立ち上がる」「トイレへ向かう」「トイレの蓋を開ける」「便座に座る」「用を足す」「便座から立ち上がる」「流す」「トイレの蓋を閉じる」「部屋へ戻る」「椅子に座る」という行為の連鎖で成し遂げられる。
では「トイレ掃除をする」はどうか。「立ち上がる」「トイレへ向かう」「トイレの蓋を開ける」「流せるトイレブラシを装着」「便器を磨く」「流せるトイレブラシを流す」「トイレクイックルを1枚取る」「上から順番に拭いていく(分解が面倒になってきた)」「トイレクイックルを流す」「トイレの蓋を閉じる」「部屋へ戻る」「椅子に座る」という行為の連鎖が「トイレ掃除をする」である。
無理やりに数式に組み込むなら、以下の通りである。

(トイレに行く)=(立ち上がる)×(トイレへ向かう)×(トイレの蓋を開ける)×(便座に座る)×(用を足す)×(便座から立ち上がる)×(流す)×(トイレの蓋を閉じる)×(部屋へ戻る)×(椅子に座る)

(トイレ掃除をする)=(立ち上がる)×(トイレへ向かう)×(トイレの蓋を開ける)×(流せるトイレブラシを装着)×(便器を磨く)×(流せるトイレブラシを流す)×(トイレクイックルを1枚取る)×(上から順番に拭いていく)×(トイレクイックルを流す)×(トイレの蓋を閉じる)×(部屋へ戻る)×(椅子に座る)

本来であれば「トイレに行く」と「トイレ掃除をする」は別の事象なので、1日の中で別々に行われ、上の行為の連鎖がすべて行われることになる。
では、「トイレ行くついでにトイレ掃除しーとこ」ならどうか。

(トイレに行く)+(トイレ掃除をする)=(立ち上がる)(トイレへ向かう)(トイレの蓋を閉じる)(部屋へ戻る)(椅子に座る)
×{(トイレの蓋を開ける)(便座に座る)(用を足す)(便座から立ち上がる)(流す)+(流せるトイレブラシを装着)(便器を磨く)(流せるトイレブラシを流す)(トイレクイックルを1枚取る)(上から順番に拭いていく)(トイレクイックルを流す)}

あーら、びっくり。
(立ち上がる)×(トイレへ向かう)×(トイレの蓋を閉じる)×(部屋へ戻る)×(椅子に座る)が共通因数としてくくられているのである。
数式だけで見ると、流す系の行為も因数分解すればくくれそうだが、実際の行為としてここをくくってしまうと、用を足したまま便器を磨き、トイレットペーパーも流せるトイレブラシもトイレクイックルも一緒に流すことになって、不潔な気がするのでくくらない(もちろん水道代を節約したい方はくくっても良い)。


「〇〇するついでに△△する」には必ず共通因数が存在している。
私たちは無意識的に共通因数でくくりまくっているのである。
そう思うと、数学も怖くない気がしてくる、、だろうか、いや、そうでもない気がするが。
ちなみに、冒頭に登場した「サボりついでにもうちょいサボるかぁ」の「ついで」はなんのついでにもなっていないので、共通因数は存在しない。
というより(サボる)+(サボる)=2(サボる)であり、ただサボる時間を延長しただけである。

数学の世界だと、「共通因数くくり慣れ」というのがあると思う。
問題演習を繰り返すうちに「はいはい、このパターンね」みたいな感じになってきて、くくり出すのが速くなるのだ。

日常生活でも「くくり慣れ」はある気がする。
たとえば、料理。
わたしは料理が好きだし毎日やっているが、同居人はほとんど料理をしない。
たまに台所仕事を手伝ってもらうと、「なんで食材を取るついでに今切ってたやつしまわないの…?」とか「一緒にこれも洗わないと洗剤とお湯が出るまでの水がもったいないじゃない…!」とか、膨大な「お小言」が心の中に湧き上がる。
これは、単に「くくり慣れ」度合いの違いのような気がする。
やり慣れている人は共通因数が大量に見つかるけど、やり慣れていない人には共通因数が見えないのだ。
一方ゲームではこうである。
わたしはゲームが好きだが慣れるほどはやっていないけれど、同居人は「ゲームのために生きる人」なので、飽きるほどゲームをやっている(ちなみに表現上「飽きる」と言ったが、彼はいくらゲームをしても飽きないらしい)。
同じゲームをしていても、わたしと彼では行動のスピードが違う気がする。ゲーム世界での彼の行動量は、わたしの3倍くらいあるのだ。
これも、わたしが気づいていない共通因数を彼はたくさん見つけていて、行動がくくられまくっているだけなのかもしれない。


そんなわけで、日常生活でも共通因数でくくりまくっていることに気づいたわたしは、無事に数学の世界に没頭し、数学の世界でもコツコツくくり続けて今日も学習ノルマを達成したのであった。

毎日こんなくだらないことを考えて、ほどほどに時間を無駄にしながら生きている。

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