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言の葉が生きる糧

ノンフィクション作家石井光太さんの新書のインタビュー。『ごんぎつね』の言葉の意味を正確に理解できない小学生の話や「エグい」「ヤバい」などの若者言葉の語彙力を例に「国語力」の大切さやそれが欠如することで起きることを「貧困」の関わりなどを語っている。

僕は『ごんぎつね』をそもそもやらなかったから分からなかったし、そういう想像の働き方は危うさがあるか分からない。それでも、「言の葉」を働かせることの重要さは身に染み付いていることで何か良くなる感覚はある。

感情論だけ

ティーンの頃以前は日記を書く習慣が無い上に、活字に苦手意識があった。やらされてる感もあって、文学の楽しさが分からなかった。さらに、悪いところを封印して好かれるために他人本位で接して、鉄道好き以外の自己表現やフィードバックですらも臆病に感じていたりしていた。コミュ力も弱くて、感情論だけでしか武器はなかった。

反発と不安と貧困

中学高校大学までこの状態が続いたことで、「心の貧困」はMAXになって、イライラを抱えて、親や嫌な友人の言いなりになることぐらいしかできなかった。その上、自分がどう思ってるかも言語化できずに悶えて、卑下することしか余裕が無くなったし、サークルの後輩に「無能」と言い放たれるほど。〝石橋を何十回も叩かないと気が済まない〟ぐらいの不安で行動力も無くて落ちぶれたし、褒められてもお世辞と思ったり、親への強い反発心でフォローの言葉を素直に受け取ることができなかった。

noteで変わって

ただ、それが変わりつつあるのは「note」を始めてから。先輩がブログをやってることに触発されて、「何かこういうなんをやりたい」と思って見つけたのが「note」だったと言う始まりがある。始めてから2年が経つが、好きなことから恐怖で言えなかったことなどたくさん綴り、いろんな人と出会ってきたし、いろんな世界を知れている。寛容性が上がったし、テレビ好き、ラジオ好きも相まって、伝え方にもより良くするためにシビアに考えられるようにもなった。たとえ周りに「考え過ぎ」と言われるようなことが「note」上に溢れているし、考え過ぎな自分も愛せるようになった。「言の葉を紡ぐ」大切さを実感して、ついにはお墨付きで評価されるわけだ。

嫌という言葉を紡げなければ

記事の中で石井さんは、ある女子高生が交際相手と交わしたルールを巡った金銭トラブルを一例にしていたが、こういうことから弱みを握られてしまう部分があるし、どんなに論外な金額でも渡してしまうわけだし、自己破産する人が多いわけだ。嫌だと気持ちをきちんと言の葉で紡げなければ弱者になってしまうわけだ。

冒頭の記事のタイトルは怖いものの、全てを読むと、納得したり、「note」やってて良かったと思えたり、生きづらさの理由にも繋がってくる。

その一歩がメモすることなのだと思うし、「国語力」なんだと思う。僕のおじいちゃんもそういうプロだったわけだし、先生方の良い「言の葉」も今更ながら腑に落ちるわけだ。結局、何をするにしてもコミュ力は問われてくるもんだし、その礎の1つだ。完璧とはいかないし、まだまだ発展途上だ。それでも、こういう「貧困」からは少しは抜け出せているのは確かなのかもしれない。

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