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本とふれあいコトバに背中を押された

先日電車に乗ったときに、運転席の後ろのガラスにこんなシールが貼ってあることにふと気づいた。「熱中症予防のため乗務員室内で水分補給をすることや、マスクを外して業務をすることがあります」。これを見た瞬間に違和感を感じた。コロナウイルス感染の主な要因は飛沫感染か接触感染である訳だから、ガラスで仕切られた運転席でマスクをしていなかったとしても乗客への感染リスクはほぼないはずだ。にもかかわらず、こんな至極当然なことをわざわざお知らせとして書かなければいけない。マスクをしていないだけでJRの職員がどうのこうのと騒ぎ立てる輩が恐らくいるからこのようなことを書いているんだと思う。もちろん彼らは彼らなりに「マスクをつける」という正しい価値観に基づいて行動しているのだろうから、それに対して何か言うつもりはない。

でも、その価値観は、「正義」は本当に正しいのだろうか。長いこと障害者と呼ばれる立場にいるとそんなことを少なからず感じる機会がある。同じ電車の中でも「優先席」と書かれた席の前にお年寄りや障害者がいても見てみぬふりをする人たち。「車いすの方優先」と書かれたエレベーターでも、車いすの人を無視する人がいるのを数多く見てきた。正しいことが「正義」なのであれば、それが彼らの価値感なのであれば、マスクを付けないことを糾弾する人々は、メディアは、同じように優先席を優先しない人たちを弱者を見て見ぬふりする人たちを糾弾するべきなんじゃないか。では、なぜそうしないのか。

もしかしたら、これは単純な弱いものいじめなのかもしれない。そんな気がした。

マスクをしない連中は社会の規範に従えない連中だから、悪人として扱って徹底的に批判する。でも、障害者に席を譲るなんて、そんな話は自分の生活と関係ないからどうでもいい。もしかしたら、社会全体の意識がそんな風になっているのではないか。そんな想像をして、少し悲しい気持ちになった。悲しくなったのは、そんな社会の冷たさだけではなく、自分の中にもそんな冷たさがあることに気が付いたから。

 めんどくさいと思って、見て見ぬふりしたことが。

 批判されるのが怖くて、立ち向かわなかったことが。

 じぶんのせいじゃないと言い聞かせて、逃げたことが。

 好きだと分かっているのに、自分の気持ちに蓋をしたことが。

そんなことを考えながら、ある本を開いた。

己の信ずることを実行するものが真面目なる信者です。ただただ壮言大語することは誰にもできます。いくら神学を研究しても、いくら哲学書を読みても、われわれの信じた主義を真面目に実行するところの精神がありませぬあいだは、神はわれわれにとって異邦人であります。それゆえにわれわれは神がわれわれに知らしたことをそのまま実行いたさなければなりません。こういたさねばならぬと思うたことはわれわれはことごとく実行しなければならない。もしわれわれが正義はついに勝つものにして不義はついに負けるものであるということを世間に発表するものであるならば、そのとおりにわれわれは実行しなければならない。これを称して真面目なる信徒と申すのです。われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。(内村鑑三『後世への最大遺物』p.75)

自分の無力さを感じるとき、決まってこの本をパラパラと眺めて勇気をもらう。もう何度読んだか分からないくらい読んだ「後世への最大遺物」の結びの部分だ。

私の立場でこれを言うのは憚られるが、所詮本なんて紙とインクの集合体でしかない。でも、そこにある文字を自分の中に取り込んで反すうすることで著者と対話することができる。紙の上の文字が無味乾燥したものでなく、自分の中で光り出すことがたまにある。そんな本やコトバに出会えたら、それは一生モノの宝物になるな。そんなことを改めて思い起こすことができた。

「もしわれわれが正義はついに勝つものにして不義はついに負けるものであるということを世間に発表するものであるならば、そのとおりにわれわれは実行しなければならない」

自分には何が出来るだろうか。とにかくやれるだけのことをやってみよう。

今日はこんなところで。


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