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吸血師Dr.千水の憂鬱⑭細マッチョ、ゴリマッチョ、皆まとめて指マッチョ

前回の話

第十四話  細マッチョ、ゴリマッチョ、皆まとめて指マッチョ
 
 翌日、新人達はビバークと呼ばれる緊急キャンプの訓練だった。

 遭難救助の際、変わりやすい山の天候や遭難者の身体状況により、やむを得ず身動きが取れない状況と言うのが少なからずある。時には寝泊まりできるような環境でないところで夜を過ごさなくてはならない事もある。

 ビバーク訓練は、二次災害に巻き込まれない安全な場所の見極め、スペースの確保、悪条件の中でテントを迅速にしっかりと貼ったり畳んだりする知恵やスキル、といったサバイバル術の実践である。遭難救助で危険にさらされるのは遭難者の命だけでなく、救助をする側の警備隊員の命をも同時に危険にさらされる。

ただ教室で知識として学ぶだけでは足りないのだ。

 事態は常に一刻を争い、判断の迷いが生死を分けてしまう過酷な現場である。日常的に練習しているロープワーク同様、山岳警備隊には、身に着けて、呼吸をするほど無意識レベルで使いこなせないと意味がないスキル、知識、智慧が、それこそ山ほどあった。

例年はビバーク訓練をする時は、事前に拠点を峰堂から刃沢に移し、後半四日間はみっちり山の中での訓練となるが、予定がズレてしまった為、今年のビバーク訓練は二晩連続して行う事になり、初日となる今日はとりあえず、刃沢派出所までの移動を兼ね、その派出所周辺のキャンプ場で、ビバーク訓練をし、翌日は毎年恒例のコースで、登山上級者コースで、この夏でも積雪が残る「みいの窓」で訓練する事になっている。

ト山県では、昔から山稜上の稜線に切れ目が入ったように見える地形を「窓」と呼ぶ。鷹山連峰は、これだけ山が連なっているのに、「窓」と呼べる地形をハッキリ確認できるのは、三か所だけであった。昔ながらの数の数え方に「ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、や、ここ、とお」というのがあるが、この鷹山連峰のト山県側の三つの「窓」を地元の人たちは「ひふみの窓」と呼んでいたが、個々に呼ぶ時は、ト山県の田舎らしいイントネーションでそれぞれ「ひいの窓」「ふうの窓」「みいの窓」と間延びした呼ばれ方をしていた。

新人達は、黙々と荷物を背負ったままロープを登る練習をしていた。ビバーク訓練の為に、今日も長い道のりを歩く事になるが、かと言って特別に体力を温存させてもらえるわけもない。体力づくりは警備隊員にとって欠かしてはならない職務なのだ。
 
 新人達は二手に分かれて、黙々と荷物を背負ったままロープを登る練習とロッククライミング用の壁を登る練習をしている。

 山とクライミングは切り離せない。
体力づくりは日替わりで異なる部位を鍛えるプログラムが組まれていたが、クライミング訓練は毎日必ず行われる。ト山山岳警備隊では「壁を登るは歩く事也」をモットーに、壁を登る事も日常動作の一つにまで落とし込もうという努力がなされていた。

 そこで峰堂常駐センターのジムの壁は鏡面とクライミング壁で四方が囲まれている中にトレーニングマシーンが置かれていた。

 事務室や寝室のドアの上や、ちょっとしたデッドスペースに指でぶら下がって懸垂ができるフィンガーボードと呼ばれるミニクライミングボードが壁に打ち付けられている。ロープワーク同様、もしくはそれ以上にみんな暇さえあればそこにぶら下がって懸垂したり、ぶら下がった状態で指の力だけでボード内の上下左右に動き回る指の筋トレをしていた。


ドアの前等に打ち付けられた懸垂ボード



 新人四人に至っては、各自筋力にはそれなりの自信があり、普通に鉄棒を掴んでの懸垂なら30回くらい余裕でこなせ、なんなら指立て伏せだってできなくはない者達ばかりだったが、腕と足に重量が分散できる指立て伏せとは明らかに違い、指だけで全体重を支えるという訓練は流石に並大抵の事ではなく、最初は指だけでぶら下がるだけの初日もそれなりに苦戦した。自分の全体重を手の指だけに預ける感覚が心もとなく思えたからだ。

 今回、夏山訓練の今は、4人とも指懸垂が15回ほどはできるようになっていた。

 そして、毎日就寝前には千水お手製の薬酒を指に塗るというルーティンが確立していた。何でも、この薬酒は刷り込んだり揉み込んだりしなくても、女性が寝る前に化粧水をペチペチとパッティングするのと同じように指にはたき込めば、血行促進を促してくれるという植物由来の外用漢方薬だった。

 春のミニ訓練の中日に初めて配ってもらえたものだ。指が千切れそうになる感覚と、翌日もずっと指が強張ったままの苦痛に、射撃選手で指が命の赤木は、口には出さなかったものの、今後ライフルが握れなくなってしまうのではないかと本気で不安を感じていたようだった。
 その漢方薬酒のボトルが寝室にドンと置かれた時、当時まだ千水の事も、漢方薬というものも深く知らなかった新人達は、最初はそんな薬は単なる気休めだろうと思った。みんなそれぞれにバン〇リンや湿布薬を試し済みで、それほど苦痛を和らげてはくれなかった事を経験済みだったからだ。
 ところが、藁にもすがる思いでいたらしい赤木は、すぐにそれを試してみた。すると、一晩寝て起きてみると、赤木は指の痛みがない事に驚いた。強張りも前日のそれを100とすれば、20くらいしか感じない。


「アレ・・・?もしかしてこの薬めっちゃ効くかも~」

植物由来のそれは塗ると指が茶色くなってしまうのだが、翌日の指の楽さがクセになって、若い新人達もすぐにその効果を認め、毎晩寝る前には全員指を茶色に染めるのだった。

続く

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