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学園東町三丁目

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初めて書く小説です。
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2020年5月の記事一覧

学園東町三丁目(5)サンタフェ

学園東町三丁目(5)サンタフェ

新小平駅から玉川上水沿いの小平校舎を目指して東へ歩くこと二十分、小平警察署の周辺は昔は一面の畑だったはずですが、今や真新しい住宅街へと様変わりしていました。長崎県島原高校出身で僕と一緒に大学入学後白帯から柔道を始めたヤロサイ(マネジャーと同じ斎藤という苗字だったため、筑紫丘高校卒の岡須蔵くんがこのように命名)は小平警察署の近くにあるゴルフ練習場の脇の「小川荘」に住んでいました。ヤロサイは柔道部内最

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学園東町三丁目(4)キッチンK

学園東町三丁目(4)キッチンK

鬱病というのはとてもコントロールが難しい病で本人の意思とは別にどうにもならず消え入りたくなる衝動に駆られることがあります。本当にひょんなきっかけでフラッシュバックのように、過去の忘れたい記憶が蘇り、一切の休息を奪い去って行きます。

今では副作用も少ない抗鬱薬が多く処方できるようになってきていますが、平成九年当時はまだ国内では依存性の高い抗鬱薬や睡眠薬や抗不安薬が取り止めもなく漫然と処方されていま

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学園東町三丁目(3)ピンクスパイダー

学園東町三丁目(3)ピンクスパイダー

新小平駅は降りる人もほとんどおらず、ただでさえ寂しい駅前は閑散としていて、ゴーストタウンの趣きでした。これだけ不要不急の外出は控えるように言われているのに、逆に僕は守谷一家のことが心配で心配で仕方がありませんでした。それには深い深い事情がありました。

一橋学園駅前の大丸土地株式会社が紹介してくれた守谷工務店の賑わいは「天うらら」に棟梁の大家さんが関与した頃から五年後の平成九年に突如として終わりを

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学園東町三丁目(2)天うららの頃

学園東町三丁目(2)天うららの頃

(前回 https://note.com/yhmgc/n/nc2a631abe624 のつづき)

武蔵野線は高速道路でいうと外環道を縫うように走っています。都心から放射線状に伸びる鉄道路線を横串に貫くものですから、沿線は田んぼや送電線ばかりという光景。映画「鉄塔武蔵野線線」で描かれた情景は今も31年前とさほど変わりません。

三郷駅から乗り込んだ府中本町行きの車両は閑散としていて、離れ離れに座る

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学園東町三丁目(7)花の都大東京

学園東町三丁目(7)花の都大東京

平成元年に入学した柔道部の同期は僕を含めて12名。現役合格4名、一浪8名という構成でした。どうでもよい話ですが、五月生まれのヤロサイがその中で最年長でした。

近鉄バファローズが優勝を懸けて川崎球場でのダブルヘッダーを闘い、ソウル市江南(カンナム)地区のオリンピックプールで鈴木大地がバーコフを振り切って金メダルをゲットし、DAIGOのおじいちゃんが内閣総理大臣として組閣を行い、めちゃくちゃマイナー

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学園東町三丁目(9)入部宣言

学園東町三丁目(9)入部宣言

戦前からの高専柔道の系譜を持つ七帝柔道と三商柔道にはもうひとつの大きな違いがあります。それは、②大会開催時期が異なる、という点です。七帝戦は7月開催であるのに対し、三商大戦は11月の開催のため、新入生が戦力になるまで準備を行う期間を十分に確保出来ます。

平成元年3月に6名の卒業生を送り出してしまい、15人抜き戦である三商大戦の定足数に足らぬ12名という陣容だった先輩部員たちは国立から遠征してきて

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学園東町三丁目(12)七帝柔道と三商大柔道

学園東町三丁目(12)七帝柔道と三商大柔道

本稿を書くにあたり、年代史的な資料や記録は参考にするものの、他の格闘系著書やWikipediaなどのインターネット情報を極力参照せずに書くことを決めています。というのは、非常にデリケートな問題については事実関係に誤認なきように、特に留意して書かなければならないものと肝に銘じているため、先入観をなくす必要性があったからです。特に、90年代半ばに一世を風靡したグレイシー一家の総合格闘技への登場と199

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学園東町三丁目(20)医学的根拠

学園東町三丁目(20)医学的根拠

占領軍指令に基づく文部省通達で柔道が全面禁止とされた敗戦国日本。

暗澹たる時代状況の中で

「敗戦の日本を救う最善策は一日も早く柔道再興を実現することだ、日本人の心と魂を維持保存する方法としての最善策は之しかない」

と強く信じた柔道家たちがいました。

日夜トラックに畳を50枚も積み込み、橋本正次郎先生や柴山謙治先生とともに、三船久蔵先生、永岡秀一先生、大滝忠夫先生、小田常胤先生、姿節雄先生、

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学園東町三丁目(21)不滅の柔道

学園東町三丁目(21)不滅の柔道

「柔道は剣道より2年も早く復活したんですよ。本当ですよ。」

生前、柴山謙治先生は口癖のように繰り返しこう仰っていました。文部省による嘆願書の提出、海外の柔道連盟の発足、そして、講道館の先生方の懸命な働き掛けと「絞め」に対する医学的証拠の提出により、中学校(新制)以上の学校体育の選択教材として柔道が解禁されたのは昭和25年(1950年)12月でした。これに対して、剣道の解禁は昭和27年(1952年

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学園東町三丁目(25)「柔道家」たち

学園東町三丁目(25)「柔道家」たち

2週間前の5月17日に小平に辿り着いたのはある先輩のおかげでした。

昨年、私は15年間参ったなしで尽力してきたある製品関連業務から外されることとなり、同時に3つのプロジェクトでとても大きな転換期を迎える最中、企画や契約や渉外や出張とはあまり関係のない輸出業務への異動を命じられることとなりました。商社では新入社員がやるというその新しい仕事を覚えようとするうちに心のバランスを崩してしまい、柴山先生や

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学園東町三丁目(24)時の流れ

学園東町三丁目(24)時の流れ

警察学校北通りを更に東へ歩みを進めます。

小平市学園東町にある関東管区警察学校では柴山謙治先生のご紹介にて平成2年の東京都国公立柔道大会を開催しました。柔道場を3面もとれる広い武道場で、ここで「警察柔道」の様々な歴史が生まれたのだと思います。平成2年(1990年)というのは面白い年で、その年の①東京都国公立戦、②東大との定期船(いわゆる商東戦)そして③三商大戦の3つの公式戦すべてにおいて、一橋大

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学園東町三丁目(23)柔道はそれだけじゃない

学園東町三丁目(23)柔道はそれだけじゃない

今はもう跡形もなくなってしまった小平予科道場。口髭を蓄えた若き「柴さん」がにこやかに登場し、次々と血気盛んな若者たちをお腹の下に押さえ込んでいった昭和23年2月3日。どれほど力強い寝技乱取りをされ、どんなに楽しいお酒を学生やOBたちと酌み交わしたのでしょう。

その日から再び動き始めた小平道場で柴山謙治先生が学生たちと交わした「約束」は形こそ変え、今でも一橋大学柔道部に息づいています。一橋大学柔道

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学園東町三丁目(22)片十字絞め

学園東町三丁目(22)片十字絞め

柴山謙治先生が被験者4名のうちの1人となった医学論文「柔道の『絞め』技の脳波を主とした医学的研究」は結語においてこう続けます。

「しかしボクシングのノックアウトよりは危険性が少ないと考えるので、絞め技を全く除外する必要はない。或る規定を設けて行えばよい。障害が残るかという質問には、われわれの行った実験では何ら障害を残さなかったと答える。以上結言を以て講道館への回答とする。」

この実験が行われた

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学園東町三丁目(8)寝ても立っても

学園東町三丁目(8)寝ても立っても

新小平から学園東町へ歩く道すがら、堕天使ヤロサイの「東京駅銀の鈴」事件のことを描こうとしておりますが、なかなか脱線してたどり着きません。

平成元年当時の一橋大学柔道部を一言ではなかなか言い表すことができません。

平成元年に経済学部の荒憲治郎教授からバトンタッチされた池間誠教授(柔道部長)はお酒がたいそうお好きおられるというだけでなく、お酔いになられた時の言動がまたとても素敵なお方でした。富士見

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