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学園東町三丁目(4)キッチンK

鬱病というのはとてもコントロールが難しい病で本人の意思とは別にどうにもならず消え入りたくなる衝動に駆られることがあります。本当にひょんなきっかけでフラッシュバックのように、過去の忘れたい記憶が蘇り、一切の休息を奪い去って行きます。

今では副作用も少ない抗鬱薬が多く処方できるようになってきていますが、平成九年当時はまだ国内では依存性の高い抗鬱薬や睡眠薬や抗不安薬が取り止めもなく漫然と処方されていました。薬漬けにされた患者は脱薬できず逆に症状を悪化させる例が多数報告されて、社会問題にもなっていました。薬が病気を悪化させているという製薬会社に対する批判キャンペーンが貼られることもありました。夢を見て会社に入った僕にとってそれはとても辛い出来事でした。

弟の泰治さんは社会人で昼間は働いているはずなのに、僕が授業と稽古の間の昼下がり、下宿にぶらっと戻ると、目を真っ赤っ火にして、フラフラと歩いている姿を目撃することがよくありました。ぼくが「大丈夫ですか」と話しかけると「昨晩は一睡も出来なかったよ」と尋常ではない目付きで語り掛けてきます。反対に、穏やかで調子の良さそうな時は、幸福の科学出版の本に書いてあったという言葉の紙切れを大事そうに抱えてビールを飲みながらそれをかえすがえす眺めていて、逆に心配になりました。とても可愛らしい小柄な彼女がよく家に出入りして、調子の悪い泰治さんを励ましていることがよくありました。

ギタリストの泰治さんはBOOWYやブルーハーツの他にX JAPANをこよなく愛していました。hideが命を絶ってからというもの、日増しに不安定さが増して行ったといいます。何かおかしな行動に出ないようにと、お兄さんと棟梁が泰治さんを見張るようになったのもhide自殺報道の後からだったそうです。

僕の大好きな兄貴がわりの泰治さん、誰よりも友達が多くて、誰よりもギターが上手で高校時代は高校の学園祭ヒーローだった泰治さんは自分の部屋で亡くなったそうです……僕が焼香をあげに工務店を訪れた時、泰治さんにそっくりな棟梁のおじさんは僕と目を合わせませんでした……おばさんは気丈に振る舞ってくれましたが、元々細い身体がいっそう痩せ細りすっかりやつれてしまっていました。歯も抜けてしまい、まだ五十代なのにおばあさんのような風貌で「あの子は他人の五倍も十倍も濃い人生を送ったから」と自分を言い聞かせるように僕に同意を求めてきました。僕はおばさんか見せようとする葬儀の写真を直視することができず、言葉を失い涙を流しておばさんとともに号泣していました……

新小平から学園東町まで歩く間、懐かしいキッチン小林の横を通り過ぎながら、僕はそんな平成九年の悲しい出来事を思い出していました。(続く)


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