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学園東町三丁目(20)医学的根拠

占領軍指令に基づく文部省通達で柔道が全面禁止とされた敗戦国日本。

暗澹たる時代状況の中で

「敗戦の日本を救う最善策は一日も早く柔道再興を実現することだ、日本人の心と魂を維持保存する方法としての最善策は之しかない」

と強く信じた柔道家たちがいました。

日夜トラックに畳を50枚も積み込み、橋本正次郎先生や柴山謙治先生とともに、三船久蔵先生、永岡秀一先生、大滝忠夫先生、小田常胤先生、姿節雄先生、醍醐俊郎先生といった蒼蒼たる先生方も一緒にトラックに乗り込んでおられたといいます。

「柔道は不滅だ」

それが先生方の合言葉だったそうです。そんな先生方にカストリ焼酎など飲ませ続けることなどできない、と若き柴山謙治先生が奔走したことは想像に難くありません。

戦後柔道禁止の時代は、コロナ危機の中柔道ができない苦しみの時代である現代に酷似しています。最前線で日々闘う医療関係者の皆様と、戦後柔道の再興・解禁=日本の復興と信じて畳を担いでトラックに乗り込んだ柔道家たちが重なり合います。

堕天使と言われ続け、卒業どころか国立への進学すらままならなかった新小平小川荘のヤロサイは、四年間の柔道部生活を全うし、平成7年に放校となった後、福岡の予備校で知り合い在学中は競馬仲間だった友人に誘われて、西武多摩川線のある病院でアルバイトを始めます。その友人は入れ替わるようにしてその病院を離れてから疎遠となり今や連絡すら取れません。入院施設のある精神科であることは働き始めた後に知ったのだそうです。

柴山謙治先生が亡くなられた平成13年(2001)7月に代々木上原で営まれたお通夜でヤロサイに再会したときには、その病院で日勤と夜勤を繰り返しながら、「専門学校で看護師を目指している。学んだことがすぐに仕事と直結するから面白い」と話していました。実務と密接に結びつく勉強だけはヤロサイにとって納得のいくものだったのでしょう。

レギュラーコースと言って、いまや3年間の在学で看護師資格がとれるコースが主流ですが、働きながら看護師になることを選んだヤロサイは旧制度のまま、准看・高看というコースで看護師資格を取得します。1995年2月にバイトとして入って、9月に職員採用。1997年に准看の専門学校入学。1999年に卒業して准看として2年間勤務。2001年に看護専門学校入学。2003年にはついに看護師になり、現在でも同じ病院に勤務、現在に至ります。

コロナで医療現場の最前線で闘う間、ヤロサイは柔道部で三商大合宿を乗り越えていった日々と戦後畳を担いでトラックに乗り込む柴山謙治先生を思い出していたそうです。

参ったなし。

一橋柔道の精神を具現し、日々日本の復興のために働く現代のサムライは身近なところにいました。

三商大戦二分二敗という散々たる成績しか残していない自分がこうした記事を書くこと自体おこがましいと思います。また、こうした記事を見てけしからんと思う関係者の方もいるかと思います。技術的にも精神的にも未熟な私には増田先生の七帝柔道記のような立派な物語はとても書くことはできません。でも、今のような国難のなか、三商大戦にも出場していなくても、卒業していなくても、もっとも一橋柔道らしい生き方をして最前線で頑張っている同期のことを思うとこの記事を書かざるを得ませんでした。

もっとも弱かったけど、もっとも参ったしてない、もっとも落ちた男。

それがヤロサイという男です。

一通の医学論文があります。タイトルは「柔道の『絞め』技の脳波を主とした医学的研究」。

講道館の先生方による懸命の努力の甲斐あって「嘉納治五郎先生の提唱された精力善用・自他共栄こそが柔道の基本理念であり、柔道は殺傷を目的とせず非戦闘的なものである」という考え方には占領軍内でも一定の理解が得られつつありました。

しかしながら、現代スポーツとして柔道が国際的な発展を図ろうとするにあたり、柔道に「絞め技」を残す点についてはGHQがいまなお疑問を持っていたため、「絞め技による落ち」の医学的根拠を示すという宿題を課された講道館は、日本の「スポーツ医学」のパイオニアのある教授に「絞め技による落ち」について以下の3点を明らかにすることを要請します(現在ではヘルシンキ宣言により医療上の治験は厳しい規制の下でのみ実施することが認められており、厚生労働省令に基づくGCPガイドラインが定められています)。  

1.   生命に危険があるか
2.   如何なる機転で意識喪失を起こすのか
3.   何にか障害を残すのか  

固め技研究会に所属されていた柴山謙治先生は被験者4名のうちの1名として選ばれています。それぞれの被験者に①「落ち」の有無、②脳波、③瞳孔、④反射、⑤脈拍、⑥血圧を測定したと論文に記載されています。

後年、柴山先生は一橋大学柔道部報一道への寄稿文において、「稽古中と異なり無抵抗で絞められる我々よりも、絞める先生の方が大変だった」と述懐されています。(続く)

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