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学園東町三丁目(8)寝ても立っても

新小平から学園東町へ歩く道すがら、堕天使ヤロサイの「東京駅銀の鈴」事件のことを描こうとしておりますが、なかなか脱線してたどり着きません。

平成元年当時の一橋大学柔道部を一言ではなかなか言い表すことができません。

平成元年に経済学部の荒憲治郎教授からバトンタッチされた池間誠教授(柔道部長)はお酒がたいそうお好きおられるというだけでなく、お酔いになられた時の言動がまたとても素敵なお方でした。富士見通りの馴染みのお店で閉店後に…いやいや、その話をここで書いてはイケマせん。

戦後、昭和23年2月3日の小平道場での柔道部再開よりこの方、愛と慈しみをもって数百名の門下生たちに日々の稽古の指導をして下さった講道館寝業四天王、柴山謙治先生(総師範)。ロサンゼルス五輪86キロ級メダリストで当時はまだ40歳前後、眼前にて世界のレベルの大外刈りや内股を披露してくださる野瀬清喜先生(師範)。欧州を歴戦し、エグジビションとして数々の100人抜き試合を各国で披露されてきたトーキョー・ヒラノこと平野時男先生(特別コーチ)。日替わりで現れる仙台出身の亀田さん、坊主マッチの篠原さん、新婚ホヤホヤ山口さん、温厚な船井さん、旭川の熊田商店の御曹司熊田さん、一橋の西校舎に最もいそうな杉山さん、ネクタイが豪快な学生指導幹事若杉さん、いつもニコニコ熊沢さん、バイジイこと梅本さん、ゲロこと渡辺さん、馬場美津子さんこと杉本さん、桐蔭学園の先輩高山さん、僕の耳を破壊した勝山さん、キチニイこと佐藤さん、都立富士高校出身の青木さんといったOBの先輩方…

先生や先輩方の計り知れない人間的な魅力に柔道ど素人であった僕は磁石のように引き寄せられて行きました。そして、ぼんやりとした僕ら一年生以外の先輩方が放つ必死さの熱量がとてつもなく高く、知的かつ紳士的で面白い方ばかりでした。一年生はタダメシタダ酒でしたので、毎日稽古後は飯に行こうと誘われるのを待って部室でビックコミック・スピリッツや週プロを読みながらダラダラするという魅力的な毎日。当時、キツイ・きたない・苦しいの3Kサークルと言われて敬遠された柔道部ですが、中に入るとまるで竜宮城で鯛やヒラメが舞い踊る世界だったというのが僕の率直な印象です。

平成元年は柔道部にとって転機となる面白い年で、その三月に柔道部長荒憲治郎先生が退官されたほか、最強と言われた四年生六名の先輩方がごそっと卒業されてしまいました。三商大戦は15人による「抜き戦」です。一年生から四年生までで15名の出場選手と5名の補欠選手の計20名を確保するためには、一学年平均5名以上の選手を確保しなければなりません。しかし、6名の卒業生を送り出した新体制柔道部の新二年生はわずか3名、新四年生に至っては2名のみという少々寂しい陣容でした。創部明治32年(1899年)、90余年の歴史を誇る柔道部が新入生を確保しなければ、伝統と格式ある三商大戰に臨むことすらできません。先輩方の勧誘の眼差しは尋常なものではありませんでした。

旧三商大戦と旧七帝戦の大きな相違点は三つあると言われています。①まず、どちらも同じ柔道の15人の抜き戦ではありますが三商と七帝はルールが異なります。この辺り、北海道大学柔道部OBの増田俊也先生が書かれた著作「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」に詳しい記載がありますが、七帝柔道も三商柔道も敗戦後、軍国主義の温床としてGHQによって廃止されてしまう京都武徳殿(講道館とは別の柔道連盟である大日本武徳会)で開催されていた「高専柔道大会」の流れを汲みます。高専柔道大会とは、官立・私立の壁がなく、旧制高等学校・大学予科・旧制専門学校に広く参加資格が認められたオープン参加の柔道大会でした。しかし、三商柔道とは異なり、高専柔道は寝技偏重で立技なしに直接寝技に引き込むことが認められていたほか、技有や有効による優勢勝ちがないなど、完全に雌雄を決することを目指す特殊なルールを採用していました。三角絞めなど総合格闘技でも見られる技が編み出されたのも、この高専柔道大会を目指した若者たちの工夫と鍛錬の賜物と言われています。

高専柔道大会の誕生は明治31年(1898年)。帝国大学柔道連盟が高専柔道大会を主催しておりましたが、帝国大学グループは大学と高等学校、専門学校グループは専門部と予科の連合軍の出場が認められておりましたので、戦後これを継承したのが七帝柔道や三商柔道ということになります。ただし、一橋の高専柔道大会参戦は大正14年まで時間を待たなければなりません。

三商大戦の前身となる東京・神戸二校による高等商業学校対抗戦が初開催されたのは大正5年(1916年)2月18日。初開催場所は神田一橋講堂。副将以降の2試合の審判は加納治五郎先生が務められ、来賓として渋澤栄一先生が観戦されていました。12人の抜き戦で行われたこの勝負は大勢の観戦者のもと大将戦までもつれこみ、神戸高商の堀場さんが東京高商の尾高先輩を送り襟で「落とす」という劇的な幕切れで神戸が勝利し、これが100年を超える両校の遺恨へと繋がって行きます。

大正9年の東京高商の大学昇格に続き、大正18年に神戸、昭和3年には大阪高商が商科大学へと昇格し、昭和6年12月25〜27日に第一回三商大柔道巴戦が開催されました。当時、柔道には寝技重視の高専柔道規定と大正13年制定の講道館新規定が併存し、講道館規定は寝技への引き込みを認めないという高専柔道に対する対立的な姿勢を打ち出していました。二校対抗戦時代の高商柔道連盟規定もこの影響を受けて、立技と寝技を共存させるという理想を掲げており、三商大戦の実施にあたっても、高商柔道連盟規定のルールをベースとしたことから、三商大戦のルールは七帝戦のルールとは異なるものと成りました。

商科大学は予科と専門部を通じて6年間の長きに渡り柔道に取り組むことができる精進の場であり、三商柔道は寝ても立ってもという理想を体現せんというユニークな存在価値があったのです。(続く)


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