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川崎市の戦後の変化(市政ニュース映画を元に)

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「産業民俗学」への招待

衝撃の「川崎市政ニュース映画」情報技術、情報化社会論を専攻してます。人文系中心の大学の教員ですので、長年基礎教養科目で情報系科目を担当しているのですが、教員も学生も工学系の領域には関心が薄いようで、おそらく学内では、パソコンの先生だと思われているんでしょう。ワードやエクセルを使って、請求書やら納品書の作り方を教えていると思われているでしょうね。 んなわけないだろ、昭和の短大かよ、とは言いませんけど…。 現代は、テクノロジーが社会を牽引して行きます。要するに、産業資本主義社会

川崎市から見る戦後の警察の変化

 日本の治安を守る警察。今ある警察の姿は戦後に確立されたものである。川崎市の市政ニュース映画にて新しい警察の形が誕生した際の貴重な映像を見ることが出来た。旧警察と新しい警察の何が違うのだろうか。そこで、これを基に今ある警察の成り立ちについて掘り下げていこうと思う。 警察の誕生 日本に警察が誕生したのは明治維新後のことである。明治維新により江戸幕府が崩壊すると明治政府は各藩の兵を治安維持にあたらせた。しかし江戸時代の名残もあり、これは「警察」ではなく、あくまでも「軍隊」にすぎ

川崎市の戦後の流通革命

戦後の川崎市では、スーパーマーケットが導入された。今では私たちの身近に常にあるスーパーマーケットも、当時の人々にとっては物珍しいものであった。今では、どの商品が安いのか比べ安いようにどの商品にも値札やポップを使って値段を表しているが、昔はそれが普通ではなかった。10gや100g当たりいくらするかという表示が革命的のように考えられ、それまではどの商品が安いのか高いのか分からなかったのだ。また、商品を入れる箱の中にさらに箱を入れてかさ増しをしてたくさんはいっているように見せるなど

川崎市ニュース映画から見る野球をする子どもが減った理由

子ども会に入っていた人、そうでない人であっても一度は聞いたことがあるであろう「少年野球」という言葉。 今でも少年野球のチームは存在するが、参加者は減っている。その理由について、様々な原因が考えられているが、私は子ども自体の減少と勝たなければ意味がないという意識に原因があると思った。 引っかかるナレーションの最後 この最後の言葉、ナレーションではあるが子どもに対して少々失礼ではないだろうか。見逃し三振であったとしてもその気概を褒めるなり、何かしらフォローが出来るはずだ。 野

川崎港と大師海苔

川崎港の歴史江戸時代中期に新田開発が進められ、明治時代中期までに各新田が造成された。その後、欧米諸国巡遊体験を行い工業の必要性を痛感した浅野総一郎が、明治41年に渋沢栄一、安田善次郎らと鶴見埋立組合を結成し大正時代までにかけて埋立てを行い土地を造成した。そしてここに湾岸を利用する大企業が次々と進出し、各企業が専用の埠頭を設けていった。原材料を輸移入して製品を輸移出することで総合的な港湾機能を作っていった結果、ここが京浜工場地帯の中核となっていった。 昭和12年に京浜工場地帯

戦争後、川崎市での野良犬への対応変化

 時代の流れと共に人々の生活習慣や環境が変化してきた。例えば、野良犬を街で見かけなくなった事である。現在、日本だけでなく世界的に野良犬が見かけられなくなった。戦前まで見られていた野良犬だがなぜ今では減少、見かけられなくなったのかを調べてみた。 狂犬病の恐れ日本で野良犬が見かけられなくなった最大の理由として狂犬病である。狂犬病は犬に噛まれるあるいは引っ掻かれた場合、傷口から狂犬病ウィルスが入り込み感染する恐れがあり、人間にも感染するためである。さらに、狂犬病に感染した場合、死

ニュース映画から見る川崎のコミュニティの変化

川崎市は戦後から現在に至るまで人口の増加、発展の変化が日本でも特に激しかった地域である。下の図は川崎市の人口及び人口増加率の推移である。 引用:国勢調査100年-川崎市の昔と今- 川崎は昭和20年の第二次世界大戦中に大規模の空襲を受け、大きな被害を被った。終戦は同じ年の昭和20年であったものの、戦争による川崎の被害を考えると、上のグラフで昭和22年まで急激な人口減少が起こっているのはこの空襲が原因だと考えられるのではないだろうか。しかし、川崎は大規模な被害を受けたにもかか

川崎における水道及び衛生管理の変化

今現在、日本ではどこにいても水道をひねればきれいな水が使えるのは当たり前ですが、もちろんそうではなかった時代もあります。 今回は、神奈川県の川崎市のニュース映画をもとに、戦後からの日本の水道設備の発展についてみていこうと思います。 1.現在の川崎の水道循環まず、現在の川崎の汚水処理のしくみから見ていきたいと思います。 現在川崎市では、家庭内や事業場から排出される下水を2段階に分けて沈殿、分解を行い処理をしています。沈殿の作業ではごみや砂を沈ませることで水をきれいにし、そ

市政ニュース映画から見る人々ー川崎市民の”健康”ー

はじめに 1924年に誕生した神奈川県・川崎市は、2024年に市制100周年に迎える。100周年に向けて、過去の姿や人々の生活、そして今も残る姿を広く伝え、川崎の未来を考えていく事を目的に、市が保有する映像を「川崎市映像アーカイブ」にて公開している。  本記事では、昭和30年代前半から昭和40年代中頃、平成初期までの映像をもとに、川崎市の”人々”の健康をテーマに川崎市が辿ってきた都市化のプロセスを見ていくに 1.川崎市の人口 川崎市の平成27年度国勢調査結果( 人口速報集計

川崎市の街づくりにおける戦後の変化

1、はじめに2、都市化計画3、娯楽エリアの確立4、川崎市における街づくり条例5、最後に 1、はじめに 川崎市の人口は昭和30年から大幅な増加を記録し、戦後は減少したものの、高度経済成長期には再び増加傾向にあり、人口増加は落ち着いたものの現在も増加が続いています。 そこで、本稿では戦後における川崎市の街づくりに着目し人口増加にいたった経緯を明らかにしていこうと思う。 2、都市化計画        (1923年~1927年の川崎市の様子)        (現代の川

多摩川梨から見る戦後川崎の一次産業における変遷

川崎名産であった多摩川梨現在は工場の町として知られる川崎だが、昭和の時代には一次産業が盛んで、中でも稲田地区を中心に、梨の一大産地だったという。ニュース映画から、主に育てられていた品種は「二十世紀」「菊水」「長十郎」などで、収穫の時期にはもぎとりの行楽なども行われていたことがわかる。 この多摩川梨の歴史は意外にも古い。1990(平成2)年に掲載された朝日新聞の記事によれば、江戸時代初期に川崎大師河原で栽培された記録があるという。寛政時代に盛んになり1893(明治26)年、同

住宅の移り変わりから見る戦後社会の変化

はじめに なぜ人々の住宅の変化に着目するのか 今回私が、川崎市を中心に、戦後の社会の変化について調べ、まとめていくにあたり、人々の住宅の移り変わりに着目した理由は2つある。1つ目は、住宅の移り変わりは人口増加や人々の生活の変化を最も分かりやすく示すものだと考えたからである。2つ目は、エビデンスとなる、団地建設などの市政ニュース映画が多く残っていたからである。 1.どのような変化があったのか まず、川崎市の市政ニュース映画から、戦後の人々の住宅に、どのような変化があったのかを