川崎港と大師海苔
川崎港の歴史
江戸時代中期に新田開発が進められ、明治時代中期までに各新田が造成された。その後、欧米諸国巡遊体験を行い工業の必要性を痛感した浅野総一郎が、明治41年に渋沢栄一、安田善次郎らと鶴見埋立組合を結成し大正時代までにかけて埋立てを行い土地を造成した。そしてここに湾岸を利用する大企業が次々と進出し、各企業が専用の埠頭を設けていった。原材料を輸移入して製品を輸移出することで総合的な港湾機能を作っていった結果、ここが京浜工場地帯の中核となっていった。
昭和12年に京浜工場地帯の造成が行われ水江町と夜光町の一部は完成したが、昭和20年の終戦により戦後復興事業の為、造成は一時中止された。
その後昭和25年の港湾法の制定を受け、昭和26年6月1日から川崎港は川崎市の単独管理となった。当時川崎港は大阪、横浜、神戸と肩を並べる日本の代表的な工業港であった。
その後、昭和31年4月の港湾審議会で決定された計画に基づき、浮島町と千鳥町が造成されると、石油コンビナートを始め、さまざまな工場が新たに立地を開始した。千鳥町では公共埠頭が建設され、防波堤の延長や川崎航路が新設されるなどし、港としての形態が整えられていった。浮島では快適な都市環境を創るために、都市活動から発生する一般廃棄物や建設発生土などの廃棄物を利用した埋め立てが行われ、現在でも続いている。
川崎港はどんどん発展し、特定重要港湾として日本経済で大きな役割果たしていった。現在でも川崎港を国際貿易港として発展させるために様々なものが作られ、整備されていっている。
大師海苔とは
「大師海苔」は大師海岸で養殖されていた食用海苔である。明治4年からずっと続く伝統であった。別名「浅草海苔」とも呼ばれた。当時(昭和28年頃)、1千4百万枚もの生産高を示すほど有名で、とても良質で最高級であるといわれていた。
大師海苔の歴史
海苔は水温の低い冬季に成育し、採集する為、10月〜3月に行われていた。初期は農閑期の副業として始められたが、次第に本業へと転換し昭和9年頃には400世帯の漁師と地方からの出稼ぎの人も手伝いにくるようになり、とても盛んになった。
そんな最高級な大師海苔の養殖が川崎港の発展の裏側で終焉を迎えてしまった。川崎市の工業化により埋立て地が増加したことや水質の悪化によって漁業は徐々に衰退してしまった。そして昭和47年、完全になくなってしまった。
川崎市は埋め立てを行い川崎拡大したことで、最大の工業港化に繋がり、経済発展にも繋がったことが分かる。しかし、その裏側には消えてしまった伝統があったということが分かる。
海苔養殖は衰退してしまったが、かつての地場産業を残そうということで「川崎の海の歴史保存会」が海苔養殖に関する伝統道具を展示するために平成23年2月1日「川崎の海苔づくり資料室」をオープンした。そこでは川崎の漁業の歴史を説明するパネルや、べか舟、網ひびや竹ひびの模型、海苔下駄、振り棒、棒抜きがま、せい、摘採機、まるざる、洗いざる、海苔簀、海苔樽、海苔乾かし枠、海苔切り機などが展示されているという。漁業自体は衰退して消えてしまったが、このように伝統は今でも受け継がれている。
参考文献
期待される川崎港 【昭和27年9月25日】https://youtu.be/9OTdvKjWHCc (最終閲覧日: 8月7日)
建設すゝむ川崎港 【昭和30年6月15日】 https://youtu.be/v8GDXAFqXVA (最終閲覧日: 8月7日)
大工業港めざして 【昭和34年2月24日】https://youtu.be/-aupd5p1P2Y (最終閲覧日: 8月7日)
のびゆく川崎港 【昭和38年7月23日】https://youtu.be/e62nKbIRIUs (最終閲覧日: 8月7日)
川崎港の歴史〜江戸時代から続く埋立ての大成https://www.city.kawasaki.jp/kurashi/category/29-6-1-15-2-0-0-0-0-0.html (最終閲覧日: 8月7日)
大師海苔(のり) 【昭和28年1月22日】https://youtu.be/dtqZozWsiNQ (最終閲覧日: 8月7日)
消える大師のり 【昭和31年12月19日】https://youtu.be/5a-ioYOFAA0 (最終閲覧日: 8月7日)
川崎の海苔づくり資料室丨屋内施設丨川崎マリエンhttps://www.kawasakiport.or.jp/indoor/seaweed.html (最終閲覧日: 8月7日)
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